漆拾
2人で忍足をしながら歩き出した。
ラシード邸は水を打ったように静まり返っている。
真夜中だというのに警備の手は緩むことなく、そこら中にいかつい人たちが立っていた。警備員というよりマフィアみたいだ。
黒川邸にいる若い人たちみたいなものだろう。一般人には見えない。
ラシードは石油と絹産業で莫大な財を得ているそうだが、収入はそれだけじゃあるまい。
そもそも、先代組長の知り合いという時点できな臭いと思っていた。
ラシードはーーサウジアラビアのマフィアだ。
黒川さんも後藤さんもそんなことは言っていないし、言うつもりもないだろう。
しかし堅気とヤクザものは纏う空気が違う。伊達に何年も一緒にいるわけじゃない。果たして良いのか悪いのか、慣れたせいで区別がつくようになってしまった。
「サリンちゃん。ここだよ」
”とっておきの場所”に到着した。
そこはテラスのような場所だった。ガラス張りのドアを開けると、夜景と広大な庭園を一望できる。
私は寒さを忘れて柵に乗り出し、ライトアップされた美しい庭と星々を交互に見つめた。こんな星空日本じゃお目にかかれない。
宝石を粉々に割って、思い切り撒き散らしたような空だった。
間違いなく、私の人生で一番素晴らしい光景だ。
「なんて綺麗……」
ありふれた言葉しか出てこない。
「サリンちゃんの方が綺麗だぜ」
「黒川さんみたいなこと言わないでください……」
星と人間を比べるなんてナンセンスだ。カレーとケーキのどっちが美味しいかを決めるくらい馬鹿馬鹿しい。
「こんな夜空、私初めて見ました」
「俺もだ。……東京の真っ暗な空は発展の代償だよ」
「神奈川だと時々見られたんですけどね。東京に来てからは一度も」
夜空を見上げる余裕がないだけなのかもしれない。
「この都市にもいずれビルが山ほど建って、新しい事業が始まって、街がどんどん明るくなっていくんだろうな。5年後にはこの星は見られなくなってる」
どうしたんだろう。今日の後藤さんは妙にセンチメンタルだ。
彼はこの国での事業の拡大に批判的なんだろうか。それともただ純粋に、星が好きなだけなんだろうか。
「夜景は星の代わりにはなりませんか?」
「確かに綺麗だけどちょっと違うんだよ。今度2人を長野に連れてってやりてーな……。俺の父親の実家が長野の田舎でさ、子供の頃よく遊びに行ってたんだ。そこの星空がまた絶景なんだよ」
「長野! 良いですね」
それから後藤さんの昔話に花を咲かせていると、
《ああ。先客がいたか》
「アーデルさん」
テラスにアーデルさんが入ってきた。勝手に出歩いたことを咎められるかと思ったが、怒っているようではなかった。
少し前に会ったときと変わらず伝統衣装のカンドゥーラを着ていたが、頭につける布ーー確かクトゥラという名前だーーはなかった。
彼は筆でベタ塗りしたような真っ黒な瞳を私に向けた。
『体調が悪いと聞いた。平気か?』
『ええ。もう大丈夫です。ありがとうございます』
私の食事会不参加の理由を体調不良にしたのか。
彼の言葉で思い出したが、数時間前の頭痛がすっかり治っている。やっぱり大概のものは寝れば治るんだな。
《そこの付き人、確かゴトウという名前だったな。お前に言われた通りあの男の前で彼女のことは話さなかったぞ。問題はなかったな?》
《もちろん。ありがとうございます》
ちょ、ちょっと待って。後藤さんもアラビア語が話せるの……?
2人が何を言っているのかさっぱり分からない。
聞いても分からないので母国語を話すアーデルさんの姿を観察した。
昼は気づかなかったが、かなり整った顔立ちをしている。中東諸国特有の彫りの深さと凛々しい目が魅力的だ。
『そういえば、あれから指輪は見かけていないか?』
『応接室と客室にはなかったです。すみません』
『謝る必要はない。実は昨日、応接室で本を読んでいてな。どこを探しても見つからないからあそこにあると踏んでいたんだが……』
おそらく応接室にはない。あの後後藤さんと手分けして探したが、指輪はどこにも見つからなかった。客室もそうだ。
『大切なものなんですか?』
『ああ……』
それから少し世間話をして、私たちは部屋に戻ることにした。
『女性にこの寒さは堪えるだろう。早く部屋に戻った方が良い』と優しく諭されたので、星空に別れを告げた。
しばらく晴れが続くようだし、またいつでも見られるのだから今夜にこだわる必要はない。
私は再び物音を立てぬよう部屋に戻り、クッションを引き抜いて腕の中に戻った。




