陸拾伍
飛行機が音を上げ始めた。
周囲から人が離れ、滑走路への道が開かれる。離着陸用のシートに座って楽しくおしゃべりしていたが、空気が変わったことに気づいて言葉が詰まった。
初めての飛行機。一体どんな感覚がするんだろう。
黒川さんの微笑ましげな視線と目が合った。
私の興奮を察したのだろう。はしゃぐ子供を見守る親の顔だ。こっち見んな。放っておいて……。
「怖いなら手をつなぎましょうか?」
「結構です」
「えっ、つなぐ? も〜、サリンってば可愛い〜」
無視。
したは良いもののーー黒川さんの右手が私の左手をがっちり捕らえた。逃れようとしても、あまりに強い力で掴まれているせいでびくともしない。
すぐに試合を放棄し、左手はくれてやった。弄ばれても気にしないもんね。
するとスピーカーから聴き慣れた声が流れた。
『マイクテスト、マイクテスト。おっほん! 羽田空港国際線11:00発、サウジアラビア行きにご搭乗いただき誠にありがとうございます。私は副機長の後藤でございます。まもなく離陸いたします』
さては後藤さん、アナウンスやりたかったな? 機長からアナウンス権を奪ったでしょ。副機長の仕事じゃないと思うよ。
黒川さんはあからさまに眉をひそめる。「また一人で楽しんでるな」と私も半ば呆れた。
「ふざけてるな」
『シートベルトをしっかり締めて、しっかり座ってください。それでは快適な空の旅を。ばいばーい』
ブチッと乱暴にアナウンスが切られる。
機体が揺れ始めた。
ただ揺れているだけと思いきや、外の景色が動く。どうやら進んでいるようだ。そしてぐんぐんとスピードを上げ、気づけば地上を離れていた。
下からの圧力が全身を襲う。けれどそれは数十秒の出来事で、あっという間に機体は安定し、東京のはるか上空を飛び始めた。
「わっ、綺麗!」
快晴だと思っていたが、ところどころ薄らと雲がある。翼が液体のようなそれを掻き分けていた。
液晶をうっとり見つめる私を、アナウンスが現実に引き戻した。
『ねー組長、お腹空きません? 俺超腹ペコ』
「私用でアナウンス使うの……?」
「まだ良い。12時過ぎになったらサンドイッチでも作って持ってこい」
黒川さんが虚空に向かって叫ぶ。
「あの、多分聞こえてませんよ......?」
『分かりました! 機長もサンドイッチで良いですか?』
『ああ、私はハムが……』
音声は途中で切れた。
……えっ、もしかして機長室からこっちの声が聞こえるの?
***
「はあ。ポーカーですか」
「一度くらいはやったことあるでしょう?」
頷いた。
私はゲームが好きじゃない。
頭脳ゲームならまだしも、運のゲームとなるとほぼ確実に負ける。昔からどうにも運が悪くて、じゃんけんやくじ引き、人生ゲームなどーーことごとく敗北してきた。
おみくじで3回も凶を引いたのなんて、日本中探しても私くらいじゃない?(そのうち1つは大凶)
後藤さんがトランプ好きなので、休日になるとよく付き合う。
しかし勝った試しがない。
運が悪いことに加え、私は信じられないくらい駆け引きが苦手だ。すぐ嘘だと見抜かれてしまう。いや、後藤さんや黒川さんが鋭いだけなのか……?
ともかく、ポーカーは半分運、半分駆け引きだ。これほど私に向かないゲームはない。
「でも苦手なんですよ。私をボコボコにしたいなら、それはそれは愉快な時間になると思いますけど」
「貴女、分かりやすいですもんね。とりあえず一戦やってみましょう」
黒川さんが手札を配り始めた。
ポーカーとは、トランプを5枚そろえ役の強さを競うゲーム。どのタイミングで何を捨て、ゲームから下りるか乗るかを決めるのが重要。
今回、小分けのチョコレートやスナックがチップ代わりだ。
食べ物で遊んじゃうぞ。
「私が親です」
向こう側にはジャックのカードが置かれていた。これがきた方が親。つまり、先にカードを変えられる。
私は手元の5枚を見た。
こんな”強運大明神”黒川に勝てるわけ……あれ? 思ったより悪くないぞ。
Qが3枚にエース1枚、5が1枚。
5を捨ててQが出ればフォーカード。エースが出ればフルハウスだ。違う数字が出ても、Qのスリーカードならそれなりに強い……。
「レイズ。チョコレート2個」
「コール」
ここでレイズしたら、手札に自信があるってバレちゃう。是非、勝負に乗ってきてほしい。
黒川さんは2枚交換した。
私は5を捨て、1枚を山札から取る。さあ数字はーーQだ!
うそ、すごい! フォーカードなんて初めて出た! 3番目に強い役だ。これなら黒川さんに勝ち目はあるまい。
結果、
「やったー! 勝ったー!」
私がQのフォーカード、黒川さんが10のツーペアで私の勝ち!
やっと運が味方してくれた……トランプの女神様ありがとう。今年に入って一番嬉しい。きっとしばらく運が悪くなるだろうが、それでも構わない。
「負けてしまいました。じゃあ、日本に帰ったら何か欲しいものでも買ってあげましょうかね」
「良いんですか? 実は3万円くらいする図録が欲しくて……」
「じゃあサリンが勝つごとに、1冊本を買ってあげます。でも負けたら負けた分、私にキスしてくださいね」
……え、うーん。
いや、いやいや、今の私の運は絶好調だ。なんてったって黒川さんに勝ったんだ。この波に乗らないでどうする。負けなければどうってことない。
勝てば、今まで遠慮して買わなかった高い本を買ってもらえる。そう。負けなければ、どうってことない!
***
***
***
「はい、これで16回目の私の勝ち」
「……」
「サリン。いくら何でも弱すぎでは?」
それからというもの。
私たちは何時間もポーカーに励んだ。だが、16試合中16回の敗北。一向に良い札が回ってこない。
さてはいかさまだな……? とシャッフルする黒川さんを注意深く監視したり、自分でシャッフルして配ったりしたものの、私は負け続けた。
こんなのおかしい。
16回もキスしなきゃならないなんて拷問だ。特に黒川さんにキスするだなんて。
「別にキスじゃなくても良いんですよ。コスプレするとか、一緒にお風呂に入るとか、もっとその先とか……」
「キスでお願いします」
4杯目のアイスコーヒーを飲み干した。
もうポーカーは止めよう。次こそは次こそはって諦め切れず、勝負に乗ってしまった私が馬鹿だった。
最初に良い気にさせといて後で大負けさせるなんて、やり口が悪徳カジノと一緒だ。さっすがヤクザの組長。
ふと窓ーーいや、液晶画面だーーを見た。
今はどこを飛んでいるんだろう。もう離陸から4時間は経っている。きっと大陸のどこか田舎だ。山脈のようなものが見える。
「おやつにしましょう」
「やった。ありがとうございます」
プリンと金属スプーンを受け取った。
疲れ果てた心に染みる味……美味しい。
「後藤さんたちの分もありました?」
「ええ。食べ終わったら届けます」
なんだかんだ言って、彼は後藤さんに甘い。
そういえば、2人ってどんな関係なんだろう?




