伍拾
家について真っ先にしたこと、それは顔の怪我の処置だった。
運の良いことに軽傷だったが、当たりどころが悪ければ鼻が折れたり、口を縫う羽目になったりするらしい。顔を殴るって意外とリスクが高い。
後藤さん、やけに詳しく教えてくれたな......今まで数え切れないほど人の顔面を殴ってきたんだろう。
とにかく、傷は残らなさそうなので一安心だ。
後藤さんにガーゼを貼ってもらうと、私はベッドに直行した。
着替える気力が湧かなかった。精神的な疲労が体を引っ張ってくる。
今は何も考えないで、泥のように眠りたい。
さっきまで太陽が燦々と輝いていたのに、空はもうすっかり赤くなっている。
ベッドに沈む身体が、小刻みに震えているのが分かった。
黒川さんは部屋の明かりをつけるとすぐ近くに座った。
「ねぇサリン。苦しいですか? 悲しいですか? 辛いですか?」
「……」
「どんな感情でも良い。答えてください。私に教えて」
頭を撫でる手が止まる。
私の感情?
そんなものを知ってどうしようと言うのだろう。
「......あの人たちが怖かったです。黒川さんが来てくれなかったら、一体どうなっていたか」
私は少し思いあがっていた。
今までのいじめっ子たちにも、戦嶽の人間相手にもーー私はどうにかやってのけた。だから最悪、自分一人でもどうにかできると思っていたんだ。
「その通りです。私に感謝してください。私でもあそこまで脱がせたことないのに……羨まーー失礼。許せませんね」
おい、聞こえたぞ。羨ましいって言おうとしただろ。
平常運転で結構です。いつも通り接してくれた方がありがたい。その方が私も気楽だ。
私は黒川さんの手を退けて起き上がった。髪に土がついているのではと思ったからだ。
彼が一瞬見せた怪訝そうな表情を、私は見逃さなかった。相変わらずすぐ顔に出る。
「......私って、何で嫌われるんでしょう」
やがて沈黙が重苦しくなって、私はどうにか言葉を吐き出した。
昔からずっとそうだ。
特に同年代の人間にはよく嫌われる。私がもっと明るくて社交的な性格だったら、こうはならなかったのだろうか。
いや、理由はもっと分かりやすい。
家が貧乏なこととか、容姿が目立つこととか、人より勉強ができることとか。
友達だって碌にできたことがない。
いじめられっ子だったのが一番の理由だろう。自分からトラブルに近寄っていくような物好きなんていないし、私も他の人を巻き込みたいとは思わなかった。
黒川さんは少し考えると、私の顔を覗き込んでキッパリ答えた。
「嫌われてるんじゃないですよ」
「あはは、そうですか?」
慰めのつもりだろうか。
「えぇ。貴女は嫌われてなんかいない。ただ誰からも必要とされていないだけですよ」
1+1が2であることを告げるような、迷いのない声だった。言葉が真っ直ぐ私へと飛び、首に刃を突きつける。冗談を言っているようには見えない。
いつもは見せない真剣な眼差しが、彼の本心を告げてくる。
心臓の音がうるさい。
手汗を汚れたスカートで拭った。
彼の言葉が、頭の中でぐるぐると回転し続ける。
「誰からも必要とされていない」?
違う。そんなわけない。
私には、私を好きな人がいて……それは誰? 父? いや、父は教室にはいない。先生? いや、彼らは手を差し伸べてくれない。
クラスメイトは……。
それだけは考えまいとしていた。
ずっと、心の奥底にしまい込んでいた。
押し黙る私に、黒川さんはさらに追い討ちをかけてくる。
「貴女の存在は、誰からも望まれていませんよ。逆に疎ましいくらいなんです。誰か貴女を助けてくれる人はいましたか? ……いなかった? それはどうして?」
ま、巻き込まれてくなかったから……。
「ほら、貴女のために誰もリスクを取ろうとしない。誰も貴女のことを嫌ってはいないんです。ただ無意味で必要がないから見て見ぬふりをするだけ。邪魔だから傷つけているだけ。……もしかして、気づいていなかったんですか?」
「そんなこと……」
「いいえ。そんなこと、あるんです」
嫌われているんじゃなく、必要とされていない?
……それなら、それでも良いかもしれない。
意識されないなら一人になれる。私に巻き込まれて酷い目に遭う人がいなくなる。私が大人しくしていれば良いんだから、それでーー
「貴女が必死で守ろうとしている連中は、貴女のことなんてどうでも良い。なのになぜ、あいつらのために自分を犠牲にするんですか」
なぜだなんて言われたって……。
分からない。ただ、そうすべきだと思うから。
……柄にもなく深く傷ついた。私は自分が思っている以上に彼が好きなんだ。だから彼の言葉に感情を揺さぶられる。
それにこの人だけは、何があっても私を肯定してくれると思っていたからーー
「貴女は誰からも愛されず、意識すらされない。可哀想な子。好かれようと努力しても、認められようと勉強しても、結局誰も振り向かない。笑みを向けない。声をかけない」
止めて。
「いくら優秀でも、貴女には大切にされる価値がない。純潔でさえもあの扱いだ」
やめて。
「後藤も桜桃も、今まで親しくした何もかも、サリンのことなんて大切に思っていませんよ。分かるでしょう? 仕事のため、私に近づくため、私利私欲のため、ただ利用するだけの道具です。まさか本心で笑いかけているなんて思ってませんよね?」
やめて……。
何でそんなこと言うの。
何も言い返せない。心臓が抉られているかのように痛かった。
黒川さんがこんなことを言うなんて信じられなかった。拒絶され、思い切り突き飛ばされたような孤独と絶望でいっぱいだった。
誰のどんな言葉よりもーー苦くて重い。
目尻に熱い何かが溜まり、私は顔を上げられなかった。どうにか抑えようとしたが、だんだん服に染みができていく。
彼に顔を見せたくない。
泣き顔なんて見られたくない。こんなことで泣いたなんて思われたくない。
もう絶対に泣かないって決めたのに。
やだもう。
何でこんなことで泣いてるの、私。
「サリン」
とろけるような甘い声。
彼の大きな腕が、私を強く抱きしめた。ふわりと温かくて優しい。
「でもね、サリン。それでも私は……貴女が欲しい」
今彼は、何と言った?
「私の全てを投げ打ってでも、サリンが欲しい。私だけは、サリンを必要とする。私だけは、サリンを心の底から愛する。貴女を傷つける人間なんてこの世界には必要ない。私とサリンだけで良い。でしょう?」
腕の中で小さく頷いた。
「私だけがサリンを求める。下心も妬みもない。ただ一心にサリンが欲しい。大切な私の家族。大切な私の妹」
「私だけを頼れば良い。サリンが傷つくようなことは、もう二度としない」
「私はサリンだけを見る。だからサリンも、私だけを見てください。私だけを必要としてください。私だけを、愛してください」
彼の言葉は毒だ。
私の心を溶かす毒。
蝕まれると分かっているのに、欲しくて欲しくて仕方がない。
もっと言って。
もっと強く抱きしめて。
もっと私を必要として。黒川さん。
「愛していますよサリン。この世界のーー何よりも」




