肆拾弐
明日から本格的なJKライフが始まる。
待ちに待っていた高校ーーしかもあの名門『玲海堂学園』に入れるなんて、昔の私が聞いたら何て言うだろう。
ほんの少し前まで、明日の夕食が食べられるかも分からないような生活をしていたのに、今の私は一着20万円の制服を着て、日本でも有数のお金持ち学校に通っている。
人生、何が起こるか分からない。
父は元気だろうか。私の制服姿、見てもらいたかったな。
楽しみにしていた高校だが、少しばかり、行きたくないという気持ちが芽生えていた。
勉強も、学校も、人も、みんな大好きだ。
でも私のせいで誰かが傷つくのは耐えられない。
黒川さんが昨日の一連の出来事を知らないなんてこと、本当にあり得るだろうか?
ボディータッチ未満の交流なら許すと言っていたが、どこまで信じて良いのだろうか?
彼が私を、何の企みもなく自由にするなんてあり得ない。
……まぁ、関わらなければ良いだけか。
それにランス君も私に公衆の面前で振られてるんだから、もう関わってこないだろう。ブルジョア層はプライドが高いっていうしね。
いや、あの男ならワンチャンあるのでは……?
「サリン、どうしたんですか? 顔色が悪いですよ」
いえね、笑顔で駆け寄ってくる金髪の姿を思い浮かべてたら、ちょっと嫌な予感が……。
顔を上げた。
私はこの寝室が嫌いだ。忌まわしい記憶しかない、穢れた部屋。
ベッドの角、あそこの床、ドアの向こうーーあんなにも痛ましい出来事があったのに、全てが何事もなかったかのように振る舞っている。
視線を動かすたび、私には血と涙の痕跡が見える。こびりついて離れない。
目を閉じて、ギュッと拳を握った。
動揺を外に出さないように努めたが、黒川さんにはお見通しのようだった。
黒川さんは私の手を取り、そのまま強く抱きしめてくれた。隠す必要がなくなった途端に私の身体が震え出す。
ああ、この痛みも、苦しみも、不安もーー全部が全部貴方のせいなのに。
どうしてこんなに温かいんだろう。
彼の優しさ。この間まで何とも思わなかったのにーー今は違う。彼は変わっていない。私が変わったんだ。
まるで母親からの抱擁のように愛おしかった。
離したくなくて、彼のシャツにしわを作りながら優しさに縋った。
私はおかしい。
自分を傷つける男に癒してもらうなんて、きっと気が違っている。でも、それでも良いと思ってしまった。
頭を撫でられる感覚が永遠に続けば良いと思った。
日が沈み、光が消えていき、やがて夜がやってくる。本物の夜、そして私たちの夜が、少しずつ着実に忍び寄ってくる。
悪い気配に気づくことなく、私は眠りに落ちた。
***
今朝はやけに体調が優れていたが、反比例するように気分は憂鬱だった。
学園と黒川さんの職場の方向が同じらしい。
中学校は真反対だったからバラバラの車で行っていたが、これからは同じ車で行く。私は途中下車だ。
もし誘拐のリスクがないなら、歩いていくのに。
噴水前で下ろしてもらうと、真っ直ぐ靴箱へと向かった。
公立中学校のような、ただ板で区切っただけの簡素な箱ではない。
流石はお金持ち学校というべきか、小綺麗で一つ一つ扉がついている。中には上履きだけでなく、ちょっとした小物も入れられるスペースもあった。
上履きを取り出したが、その重さに違和感があった。
中を覗く。
金色に輝く尖った画鋲が、私を覗き返してきた。
ふむ、なるほど……。
「ベタだな」
ふははは、甘いな金持ち共!!
この程度の嫌がらせ、今まで散々受けてきたわ! 馬鹿にするなよ!!
ああ〜、この感覚懐かしい。嬉しいわけじゃないけどさ。
上履きに悪戯され始めたのは、小学校4年生くらいからだったか。
画鋲だけじゃ飽き足らず、ネズミの死骸や生ゴミを入れられたり、泥まみれにされたりしたから、流石に毎日持ち帰るようになったけど……。
そういうわけで精神ダメージはない。
ゴミ箱を見つけて中身を捨てると、平然と上履きを履いた。
うーん、もしかして、このままだと外靴にも悪戯されちゃうかな。泥まみれにされたら嫌だし、面倒だけど持っていくか。
教室へ向かう途中、リリアーヌ先生と会った。
「黒川さーん、おはようございまーす」
「おはようございます」
まるで絹のような赤髪をたなびかせながら、リリアーヌ先生は私の隣に並んだ。
おお……おっぱいが大きい……。
リリアーヌ先生、その美貌と完璧すぎるスタイルを駆使して、うちの黒川さんを悩殺してくれませんか?
「昨日のHRの後、教室で何かあったんでーすか? 皆ーさん、黒川さんとフラットさんがどうやらこうやらっと言っていたんでーすが」
「あ、あはは……」
青春の一ページです。
そういうことにしておきませんか。
「何かあったら、いつーでも相談してくださーいね」
「ありがとうございます」
***
リリアーヌ先生は職員室に向かうそうで、私たちは道中で別れた。
できればギリギリに教室に入りたい。
どんな目で見られるか分かったもんじゃない。
それにあの教室の中に、私の靴に画鋲を入れた人間がいるんだ。確実に疎まれていると分かった以上、あまり刺激したくない。
私はたちの悪い金持ちを知っている。画鋲なんてかわいいもの。金にものを言わせて酷い目に遭わせてくるかもしれない。
まだ少し時間がある。
ちょっと校舎を探検してみようかな。
えっ、迷子にならないかって? 大丈夫大丈夫! だって私高校一年生だよ? そんなまさか!
ーーって、思ってたんだけど……。
「ここは、どこだ……?」
迷いました。
玲海堂ってこんなに広いの?! ここ高等部校舎だよね?
……もしかして、途中で渡り廊下を渡ったけど、違う校舎に来ちゃった? 渡り廊下なんて初めて見たもんだからテンションが上がっちゃって、後先考えるのを忘れていた。
私が軽率だった。
高校一年生にもなって校舎探検なんてする私が馬鹿だった。
ああ、こんなことになるんなら、若干怖くても教室に直行すべきだったのに……! 腕時計は後5分でSHRが始まる事実を突きつけてくる。
「ヤバい。初日から遅刻とかヤバいよ……いや、リリアーヌ先生ならワンチャン言いくるめられるのでは……?」
「やめといた方が良いよ。意外と融通きかないから、あの人」
「そうなんですか? チョロそうですけど……えっ?」
「ん?」
すみません、貴方誰ですか。




