小話3 風邪
「は……は……ハックション!」
可愛げのないクシャミで失礼。
昨夜、妙に寒気がすると思ったらーー朝起きてからずっと頭痛とクシャミが続く。うう、悪寒がする。気分が悪い。
......うん、これは風邪だ。
体温計が確か、そこの引き出しの中に入っていたような......。
「おはようサリン。何か探しているんですか?」
「おはようございます。体温計を探してて……あった」
私が電子音を鳴らして脇に挟むと、黒川さんは目を輝かせた。
おい、そんな嬉しそうにするな。
「熱があるんですか?!」
「さあ。ちょっと体調が悪いだけです。ん? 何する気ですか?」
「よくあるじゃないですか。額と額をくっつけて熱があるか確かめるってやつ」
よくあるけど、実際にするもんじゃないでしょ!
「い、や、で、す!!」
「ほら逃げないで」
抱きついてくる黒川さんに抵抗していると、ピーと、いつもと違う電子音が響いた。
『ERROR』の角ばった文字。
「暴れるからですよ」
「誰のせいで暴れることになったと思います?」
もう一度きちんと測ってみると、37度8分だった。
「風邪決定! 学校休みましょう!」
自分は体調悪いってのに、目の前でそんな風にはしゃがれると殺意が湧いてくる。
黒川さんはスマホを取り出し、誰かに電話をかけた。
「ああ。サリンが体調不良で。……ああ、今日は休む」
相手は後藤さんか、それとも仕事の部下か。
それにしても、週初めに風邪を引くなんてついてない。
早寝早起きをして、三食栄養たっぷりのご飯を食べて、暖かい毛布に包まれて寝ているってのに風邪を引くなんて。最近寒暖の差が激しかったから、そのせいかもしれない。
「重役会議? 知らん。お前に任せる。こっちは緊急事態だぞ」
全くもって緊急じゃないよ。
薬飲んで寝たら治るから、とっとと行っておいで。
「今日は仕事を休みますから、何か困ったことがあったら何でも言ってください」
スーツがハンガーに戻っていく様を見ながら、おぼつかない頭をどうにか動かす。頭痛は治まる気配を見せない。
じゃあ早速、風邪薬でも買ってきてもらおうかな。
下手に看病なんてして、黒川さんに風邪がうつったら大変だ。さっさと出て行ってください。
「そんな顔して……もしかして、私を心配してくれているんですか? 気にしないでください。苦しんでいる貴女を放っておくなんてできません」
この男が心を読めるのか、私が分かりやすいのか。
うん、後者だな。
「症状を教えてください」
「頭痛と悪寒が。あと、かなりだるいです」
「典型的な風邪ですね。薬を持ってきます」
「ついでにマスクも……」
薬を飲み、何年ぶりかのマスクをつけてそのまま横たわった。
後藤さんが軽めの朝食を用意してくれていたが、食欲がなかったので食べなかった。ごめんねバナナとヨーグルト。
痛みを紛らわせるため一人会議をする。
議題は「何でこんな目に遭っているのか」。
風邪なんて最後に引いたのは小3だし、インフルエンザやその他感染症の類には堂々の無敗だ。
……まさか、黒川さんに変な薬でも飲まされたか? あの人ならやりかねないな……。
黒川さん、心配しているのは本当のようだが、ニヤつきが隠し切れていない。
病人にちょっかいをかけないでくれると嬉しいんだが。
ふわぁ……何だか眠くなってきた……。
寝るか……。
***
黒川真人視点
サリンが風邪を引いた。
ふふ、ふふふふ……フフフッ……!! ついに、ついにこの日がやってきた! 待ちに待ったこの日が……!
口元が緩んで仕方ない。
確かに心配している。サリンが苦しむなんて望ましくない。でも、それでも少しばかり喜ばしい。
あの、あの滅多に病気にならないサリンが、ついに風邪を引いたのだ。
「ああ、風邪引きサリンも可愛いなぁ」
寝ついたところですかさず写真を撮る。
この間、サリンの写真だけでまたクラウドが埋まってしまった。
俺はサリンに並々ならぬ感情を抱いている。もはやそれは、愛を超越していると言っても良い。
サリンを全てを見たいし、全てを知りたい。喜怒哀楽から、絶望、苦しみまで遍く全て。
今までずっとストーカー……否、愛の観察をしてきた中で、俺はサリンの色々な顔を見てきた。
だが唯一、病気と泣く姿だけは見たことがない。
生理的な涙なら見たことがある。だが、あの子が悲しみに震えて泣く姿は一度もない。父親と離れても、俺に傷つけられても、あの子は普通の人間みたいに泣かない。
強い子だ。心も身体も。
そう、サリンは人よりずっと身体が強い……。
子供の頃必ずかかると言われている、はしかやおたふく風邪にもかかったことがないし、インフルエンザでさえサリンの免疫力には敵わない。
そんなんじゃ風邪なんて引きっこないーーと思っていたが、幸運の女神は俺の味方についたようだ。
これで、サリンの新たな一面が俺のものに……!
「おおっ……風邪で寝ているサリンは、やはり一味も二味も違う……!!」
寝てしまったが最後、俺のターンだ。
スマホの代わりに一眼レフを構え、サリンの寝顔を撮りまくる。色んな角度、距離、構図で。そうだ、ついでにビデオも回しておこう。
頭痛に苦しんでいるのか、時折サリンは辛そうな声を漏らす。ああ可哀想に。
何て愛くるしいんだろう。
顔を赤らめ、喘ぐ姿にーーちらと良からぬ妄想がよぎった。
フフッ。大丈夫ですよ、サリン。私は紳士です。
病人には悪戯しません。
「そうだ。粥を作っておくか」
紳士たるもの、欲望のまま写真を撮りまくるわけにもいかない。
サリンが起きたとき、何と優しく声をかけよう。辛そうにしているとき、どんな風に抱きしめよう。
そうだ。粥を食べる様子も録画しておかないと。
カメラを持ちながら看病するわけにもいかない。早く小型カメラを隅に設置しないとな。
「サリン、今日も本当に可愛らしい……」
全部、俺のものだ。




