参拾壱
トクトクトクと、心地よい水音を立てながら液体がグラスの底へと滑り落ちる。
勢いをつけたまま空気を巻き込み、渦を描き、そしてやがて静かな水面になると同時に、それは彼の胃に流し込まれる。
黒川さんはさっきから、まるで水でも飲むかのように軽々と酒を飲んでいる。高級ワインの飲み方じゃない。もっと味わってあげてほしい。葡萄農家さんが可哀想だ。
流石の酒豪も酔ってきたのか、10分ほど前から焦点がおぼつかない。急性アルコール中毒になるのではないかと心配になる。
それでも私は、空のグラスを突きつけられれば注ぐしかない。
黒川佐凜って……英語にするとサリン・ブラックリバーだよなぁ……。
ブラックリバー……ふふ、いそう。
そういえば前の中学のとき、クラスの男子が自分の名前を英語にしてイキってたなぁ。確か奥山龍之介って名前で、ディープマウント・ドラゴンって言ってた気が……。
うわ、超ダサいじゃん。何であの子、こんなんでかっこいいって思ってたんだろう。
あっ……ブラックリバーも同じくらいダサいな……ふふっ……。
嫌になるほど濃い、葡萄の香り。
部屋に漂うアルコールのせいで、一緒にいる私まで酔ってきた。何だか気分がハイになっている気がする。
「サリンもぉ……飲みませんかぁ?」
おい、飲みすぎて語尾が間延びしてるぞ。
この上機嫌の理由は単純に気分が良いからか、アルコールで悪酔しているからなのか。
黒川さんは普段、あまりお酒を飲まない。
飲むとしても休日で、ボトル一本を後藤さんと一緒に飲み切るくらいだ。だから、こんな……こんな、大量に酒瓶が転がっている光景は初めて見た。
「ねえサリンん……返事しないとぉ、キスしますよ。それもとびっきり深い奴……」
「あ、すみません。謝るんでそういうのは止めてくださいマジで」
「真顔で言われると流石に傷つきますぅ……」
良い大人が、しくしくと泣き真似を始めた。
うう、流石にウザい。さっさとシラフに戻れ!
というか、明日までにアルコール抜けるか、これ? 確か明日お仕事だったよね?
後藤さんに頼んで、二日酔いのお薬を買ってきてもらおうか……。
もう何本目になるか分からないボトルをテーブルの上に置いた。
あれ、このお酒、水で割らなきゃいけない奴じゃ……。
換気しようと窓に手をかけると、酔っ払い親父ブラックリバーがまたも突っかかってきた。
「どーしたんですかぁ……?」
「空気の入れ替えです。全く、いくら何でも飲み過ぎです。後で辛くなるのは黒川さんですよ」
「サリンの注ぐ酒ならぁ、何リットルでもいけますよ〜」
「聞いてないなこれ……」
顔が真っ赤。目も虚でだらしない。
これ以上飲んだら、いくらお酒が強くてもやばいんじゃないか?
私は急いで黒川さんに駆け寄り、肩に手を回した。
ソファから無理やり立ち上がらせて、ベッドまで運ぶ。真っ白なシーツに横たわると、夜の闇のような髪が乱れた。それが白に見事に映える。
何か文句を言われるだろうかと身構えていたが、聞こえてきたのは寝息だった。
こいつ、幸せそうに眠りやがって……後始末は全部私がやるんだぞ……!
私は床に転がった空き瓶を片付け始めた。
朝起きたときにこんなに転がっていたら、きっと不愉快だろう。というか私が嫌だ。
数えてみると、何と9本もの瓶が。
とりあえず洗って、リサイクルに出させるか。後藤さんに。
銃で撃たれた肩はもう痛まないが、それは安静にしているときだけ。下手に動かすと激痛が走る。
鎮痛剤を飲んではいるが、ずっと効くわけじゃない。
どうやったかは分からないが、手術後の肩には傷口一つ残っていなかった。誘拐される前と全く変わらない肌だ。
もしかして撃たれたのは夢かとも思ったが、依然残る痛みが、それが現実であると訴えかけてくる。
後藤さんに手伝ってもらって瓶を洗った。そしてそのままバスルームへ直行。
長いようで短かった一日が、シャワーで全部洗い流されるような気がした。
改めて、鏡で撃たれた場所を見てみる。
それは平然とした顔をしていた。
「……傷」
刻まれた黒川真人の文字が、我がもの顔で左腕に居座っていた。
シャワーを浴びるたび、あの夜のことを思い出す。恐怖、屈辱、痛みーーその全てを。あれと比べれば、銃で撃たれた傷なんて大したことない。
着替えて寝室へ戻ると、お酒の匂いが消えかかっているのに気づいた。
春の夜は冷え込む。
まだ火照った身体を震わせながら私は窓を閉めた。
スヤスヤと穏やかに眠る黒川さんからは、いつもの邪悪で極悪非道な様子がまるで想像もつかない。
何だか久しぶりに和やかな気分になってきた。
私もベッドに潜り込み、目を閉じる。
彼からお酒の匂いがしたが、不思議と嫌ではなかった。むしろ、暖かくて心地よいーー
「サリン?」
びっくりして目を開けると、黒川さんと目が合った。
顔が真っ赤で、熱があるみたい。
酔っ払ってすっかり寝ているものかと思ったが、まだ意識があったのか。
「私、サリンがいないと眠れないんです」
「はいはい」
「うう……もっと愛のある言葉が欲しい……」
はよ寝ろ、酔っ払い。
「サリンが隣にいると心が落ち着きます。もしサリンがいなくなったら……不安で不安で、二度と眠れなくなってしまうかも」
「そうですか」
「うわぁ、酷い」
「でも……」
少し人肌恋しくなって、私は黒川さんの胸に顔を埋めた。
「私も、黒川さんといると安心します」
……きっとこれは、春の夜の寒さのせいだ。
ま、マジで。
本当にこれは……本気じゃないから……。
「い、今のはナシです! 忘れてください!」
お願い忘れて!
黒川さんもそんな驚いた顔しないで!! 記憶からデリートして!!
「ハハッ、やっとサリンも私を愛おしく思ってくれるようになったんですね。嬉しいです」
私の心境も知らぬまま。
彼は穏やかな微笑みを浮かべて、そのまま眠りについた。




