参
バッグはヤクザの人が預かってくれた。
てっきり奴隷のように扱われるかと思ったが、案外そうでもない。
私が促されて乗った車の中には、既に男が座っていた。上物のスーツを着ている。彼が組長だろうか。私は緊張しながら彼の様子を伺う。
目付きが悪く、手が傷だらけ。容姿は百戦錬磨の傭兵のように雄々しく、かなり強面だ。しかしその口元には優しい笑みが湛えられていた。
「サリンちゃん、俺の名前は後藤謙次だ。よろしくな」
「よろしく……お願いします」
「俺は組長にお前さんのお目付け役を仰せつかってる。だから、くれぐれも下手な真似はするなよ? 可愛い女の子をいじめる趣味はないからさ」
お目付け役、ねえ。
逃げるつもりは元々なかったが、こんな強そうな人を見張りにされたせいで、余計逃げるつもりも自信もなくなった。
もし間違いがあって彼から逃げ切れたとしても、関東にいる限り私は蜘蛛の巣に絡めとられたままだ。
「分からないことがあったら何でも聞いて良いからね。……そうだ、組長は絶対に怒らせるなよ? 俺も長生きはしたいからさ〜。とりあえず、組長の機嫌さえ取ってれば大丈夫だから」
車が動き出す。
黒川組の組長……一体、どんな恐ろしい人なのだろう。
「ああでも、意外と大丈夫かもしれないな。あの人はサリンちゃんのこと気に入ってるし」
「会ったこともないのに?」
「曰くうちの組長は、目を見るだけでそいつの本性が分かるらしい。映像でも写真でも関係なくな。組長はサリンちゃんの写真を見たんだ。何か感じる部分があったんじゃないか?」
ヤクザの組長に気に入られるほどの本性って……。
***
車は巨大な豪邸の前に停まった。
ドラマや映画でしか見たことのないような、西洋式の大きなお屋敷。屋敷の周りには3メートルは優に超える外壁があり、門の横にはヤクザらしき男たちが何人もいた。
建物自体はあまり年季が入っていない。代々受け継ぐ屋敷、というわけでもなさそうだ。
ヤクザの組長というと、瓦屋根の古いお屋敷に住んでいるイメージがある。もしかすると、ここに住む以前はそうだったのかもしれない。
後藤さんに連れられて車の外に出る。
じろじろとヤクザたちの無遠慮な視線に晒されながら、私は屋敷の中に入った。
屋敷の外、玄関前までには数え切れないほどのヤクザが並んでいた。
だが屋敷の中に人の気配はない。
実際、後藤さんと一緒に組長の書斎に行くまでに、私たち以外の人を一度も見なかった。確かに、家の中をいかつい連中に跋扈されるのは嫌だろう。
家の説明をする後藤さんの一方後ろを私は粛々と歩いた。あまりに豪華な家具や内装の数々に圧倒されてしまったのだ。
「ここが組長の書斎。中にいるはずだから、ノックして入ってね」
マホガニー製の立派なドアの前。後藤さんは私に先を譲った。
心臓が高鳴る。意を決し、私は恐怖を噛み殺した。
手は震えていない。
二回ノックすると、「どうぞ」と、澄んだ綺麗な声が聞こえてきた。
「失礼します」
部屋は驚くほど質素だった。
書斎というだけあって両脇の本棚にはビッチリ本が詰まっており、デスクとパソコンがあった。
来客用か向かい合わせの黒革のソファがありーーそこに彼がいた。
「やっと来ましたね。いつかいつかと、楽しみに待っていたんですよ」
彼は、私の想像するような男ではなかった。
若く、爽やかな容姿で、見たこともないような良い素材のスーツを着こなしている。
彼を見れば、女性なら誰しもうっとりしてしまうだろう。今人気の若手俳優と並べても遜色ない、いやそれ以上に整った美しい顔立ちをしている。
私も思わず目を奪われた。
「あ、あの……初めまして。赤城佐凛といいます」
「ええ、貴女のことならよく知っています。聞きたいことが山ほどあるでしょうから、どうぞ座って」
恐る恐る向かいのソファに腰かけると、彼は満足げな表情を浮かべる。
「貴女の父親のことは……それはそれは残念に思っています。彼なら何とか返せるのではと思っていたんですが、何しろ5億ですからね」
嫌味ったらしい、馬鹿にしたような声色。私は一気に彼のことが嫌いになった。
「私の送った偽の請求書も、きちんと払ってくれていましたし……頑張っていたんですがねえ」
「は、偽……?!
ーー偽の、請求書?
まさか私がバイトして稼いだお金は、ほとんど無駄だったってこと? 父に確認せずに払っていたのが仇になったのか。
「フフ、知っていますよ。貴女のお金でしょう? せめて請求書だけでもと健気に働き、わずかなお金で喜ぶ貴女の姿は痛快でしたよ。父親のため、ですか」
腹の奥底から怒りがこみ上げてくる。叫ばないだけまだ冷静だ。
そうかこの男は私を、私たちを見て楽しんでいたのか。
「しかしあんな落ちこぼれ、気にすることないのに。貴女は賢いし容姿も良い。逃げ出して施設にでも入れば、幸せになれたかもしれないのに」
落ちこぼれだって?
ああきっと、この人には分からないんだ。人生が万事上手くいっているようなこの人は、家族がどれほど大切なものかが分からないんだ。
どんなに貧しくても、私は父が隣にいればそれで良かった。この人にはそんな相手がいないんだ。
少しだけ、目の前の男が哀れに思えた。
「おや、すみません。少々口が過ぎました」
構わない。いくらでも私を辱めれば良い。
こんなに組長の近くにいられるんだ。必ず犯罪の証拠の一つや二つ出てくる。そうなれば、警察にでも突き出してーー
「もしかして、いつか警察に突き出してやろうなんて考えてます?」
図星をつかれても、私は表情には出さなかった。
男は楽しそうに笑うと、懐からあるものを取り出した。
ーー銃だ。
「おや、初めて見ましたか。そうですね、下っ端には持たせないので」
ほら、もう犯罪の証拠が出てきた。立派な銃刀法違反だ。
彼は私の眉間に銃口を突きつけた。今まで平静を保っていた私も、流石に怯んでしまう。見惚れてしまうほど美しいせいか、余計に恐ろしく見えた。
「いくら証拠を掴んだところで無駄です。警察が私を捕まえることはない。もし貴女が無駄な危険を冒そうものなら、私は貴女を殺します」
撃鉄の音が嫌に響いて聞こえた。
殺す、殺すーーか。
「私は死んでも構いません。殺すなら、今すぐ殺してください」
真っ直ぐと彼の瞳を見つめる。
それからしばらく私たちは見つめあっていた。ほんの数分だか、一時間だか分からない。だが私には永遠の時のように長く感じた。
ついに彼は銃を下ろし、笑顔へと様変わりした。
「では、こういうのはどうでしょう。四肢を切り落とし、目を抉り、耳を削ぎ落とし、死なない程度にいたぶってーー私がいないと何もできない人間にしてしまう、なんてのは」
男の瞳は狂気に囚われていた。
何かに取り憑かれたかのように恍惚としている。
「ああそうだ。貴女の父親を殺しましょう。もちろん、ビデオに撮って貴女にも見せてあげますから! 最初から最後まで!」
こんな恐ろしいことを大真面目に言える人間がいるのか。
銃なんて、彼の狂気に比べればおもちゃみたいなものだ。彼はもっとずっと恐ろしい。人間の持つ残酷さの全てが濃縮され、私の目の前に姿を現しているようだ。
「あ、貴方は……一体何がしたいんですか。あー……」
「ああ、自己紹介がまだでしたね。私の名前は黒川真人。祖父からこの黒川組を受け継ぎ、現在は組長の地位にいます。これから、末長くよろしく」