弐拾陸
「どうかな? 今から俺を殺して、人殺しになるってのは」
誘拐犯の言葉が脳内でリフレインする。
彼の言う通り、私は人を殺したことがない。
だがーー彼らが行く手を阻むというのなら、私はこの引き金を引こう。彼らが私を家に帰してくれないのなら、私は罪を犯そう。
私を救う?
ふざけるな。
当麻さんの申し出は、嘘でも本当でも、私にとって喜ばしく、嬉しいものだ。
でも、でも……綺麗事なんて幾らでも言える。
ーー私の覚悟を、救うなんて安い言葉で穢すな。
「......クソが」
「あっれれー? もしかして、それが君の本性だったりするわけ? 良いねぇ! 良いよ! 真面目な可愛い子ちゃんの化けの皮が剥がれる様を、 俺にもっとよく見せてよ!」
「止めろ石井。煽るような事を言うな。……可哀想に」
可哀想......可 哀 想 ?
ああ、この男はどれだけ私を愚弄すれば気が済むのか。
”哀れみ”に満ちた表情……こいつにまで同情されるほど、私は落ちたのか?
どっちが悪者か、もう分かったもんじゃない。
当麻さんの言葉が嘘か誠か、私には判断のつけようがないし、理解したくもない。彼の言葉が何であれ、私の行動は変わらない。
「早く……伏せてください」
それでも当麻さんは一歩一歩、私に近づいてくる。
思わず何度も引き金を引き、彼の肩を。腕を。髪を。足を。鉛玉で貫いた。
痛みに表情を歪めることもなく、彼はただ淡々と歩いてくる。動くたびに傷口から血が滴る。
ーーやはり、私に頭を撃つ勇気はない。
さっきまで必要とあらば殺せるだの豪語していた割には、貧弱な心だ。
引き金の音が空になる。
咄嗟にもう一丁取り出そうと構えたが、すぐ目の前まで来ていた当麻さんが、 私を強く抱きしめた。
あまりに唐突で、あまりに意外で、思わず脱力してしまう。
私は当麻さんと一緒にその場にへたり込んだ。
一体この人は、何がしたいんだ?
心なしかーー当麻さんがすすり泣いているような、そんな声が微かに聞こえた。
「っ、離して!!」
一瞬の迷いはすぐ断ち切れた。
目の前の傷だらけの男を振り払うことさえ、助けを拒むことさえ、私はもう厭わない。
私は当麻さんを突き飛ばし、立ち上がった。身体の奥底から熱がこみ上げるような感覚と同時に、片目から何かが溢れ出す。
新しい銃を抜き、私は彼の頭に突きつけた。今ここで引き金を引けばーー彼は死ぬ。
でもそんな事……やっぱり出来ない。
人を殺めるなんて私には出来ない。
私は弱いんだ。
私の中で、理性が葛藤している。
ああ、これ以上手を穢したくない。
黒川さんの喜ぶようなことをしたくない。
当麻さんはそれでも動かない。
逸そこのまま、私を返り討ちにしてはくれないだろうか?
彼はただピクリとも動かず、小さく呟いた。
「君は……それほどまでに、あの男に侵されてしまっているのか」
「何の話ですか?」
「愛しているのか? 黒川真人を」
黒川さんを、愛しているか?
それは……私にも分からない。
私はあの人が嫌いだ。
だがそれと同じくらいーー愛しているとまではいかないが、好きだ。
大嫌いで、大好きで……一体何て名前の感情なのか、私には皆目見当もつかない。黒川さんに対して抱く感情に、果たして名前はあるのか。
だから私は、口をつぐむしかなかった。
ーー答えられない。
「そうか。答えないのか。では、これだけ教えてくれ。何故、君はそんなにも黒川真人に執着する?」
この男の一言一言に腹が立つ。
彼を殴りたい衝動が、私の中で波打つ。けれど出来ない。
人を傷つけると、同時に自分の心も傷つく。私は今日それを知った。
人の痛みは、自分の痛みだ。まだ私は人の心を持っていたい。黒川さんのようになりたくない。
この男の言葉は全て正しい。
だって私は、本当に黒川さんに侵されているんだから。
そう、日々を重ねる毎に私は、彼に依存し、いつしかその背中さえ自ら追うようになった。大嫌いなのに、失うのが怖い。まるで麻薬みたい。
全て疎ましくて、全てどうでも良くてーーけれど彼は、そんな私を見て、誰よりも優しい笑みを浮かべる。彼に全てを委ねるのがどうしようもなく楽だ。廃人と呼ばれても仕方がない。
少し人間味のある機械みたいだ。
それでも私の中には、まだ幾つか意思が残っている。
「私の、父……」
震える唇から、小さな声が溢れた。
耳を澄ましてようやく聞き取れるほどの、蚊の啼くような声だった。
自分の口にした言葉で、黒川さんによって塗り潰された記憶が鮮明に蘇る。
父と過ごした日々は、何よりも楽しかった。
お金がなくても、いじめられても、楽しい日々だった。
互いを重んじて、大切にする家族だったんだよ、私達はーー今にも爆発しそうな感情が、自分の中で行き場を失って漂う。
「私が逆らったら、父は殺されるんです。だから、早く私を帰して!」
今まで私を守ってくれた、愛してくれた父を。今度は私が守るんだ。助けるんだ。愛するんだ。
だから、早く家に帰してよ。
私はどうなっても構わない。
どんなに苦しもうが、どんなに酷いことをされようが、折檻されようが、ナイフで刺されようが、火あぶりにされようが売られようがバラバラにされようが殺されようがーー私は、 父が笑顔ならそれで良い。
父が平和な日々を送れるなら、それで良い。
そんな私を見て、誘拐犯は嘲笑を浮かべた。
「本当、純粋で馬鹿だなぁ君は!」
「うるさい!」
「いやいや! 君のそういう所も、俺は好きだよ。……でも、死にたくないから一つ良い事を教えてあげよう」
私は当麻さんに銃を向けながらも、視線を誘拐犯に向けた。
両者の鋭い視線が重なったその時、彼はとんでもないことを口にした。
「ハハッ……殺されたよ、君の父、赤城翔太は。黒川真人にね。」
途端、全身の力が抜け、私は銃を取り落とした。




