弐
「サリン、今まで隠してすまなかった。実はーー」
夕食のとき、父は全てを話した。
ヤクザから借金をしていること、それがとても払える金額ではなくなってしまったこと、奴らがいずれ私を連れ去るかもしれないということーー
「……そう、だったんだ」
ギリ、と自分の歯が軋むのを感じる。
何もかも全部知っているなんて、どうして言えよう。父は必死に、自分だけでどうにかしようとしてくれていたのに。
「サリン、次に奴らが来る前に逃げよう。今すぐには難しいが、アテならある。奴らから守ってくれる人たちがいるんだ」
「そう……それなら、良いけど」
どうにも上手くいかない気がした。
*
翌日、何だか体調が思わしくなく、学校を早退して帰ってきた。いつもより三時間も早いから、父は仕事に行っていないかもしれない。
「あれは……」
思わず足が止まる。
アパートの前に、似つかわしくない黒塗りの高級車が停まっていた。
明らかに、いつものヤクザの車ではない。かといって、こんなボロアパートに高級車で乗り付けてくる友人を持つ住人がいるとは思えない。
私は警戒して、陰から様子を伺った。
玄関ドアの前には父の姿があった。
そして、いつもの倍はいるヤクザに詰め寄られている。
「へっへ、良い知らせだぞ、赤城のおっさん」
「組長に聞いてみたんだ。お前の処遇について。すると何て言ったと思う? 『その娘が俺のものになるなら、もう二度と関わらないし、借金も帳消しにしてやろう』ってさ!」
血の気がひいた。
急に足に力が入らなくなる。
「まさかあの子を?! 娘は……娘は渡さんぞ!」
「断るんだったら仕方ねーな。赤城、アンタを殺すよ」
ヤクザの言葉に、父は覚悟を決めたように目を閉じ、そのまま俯いた。
父は私がまだ学校にいると思っている。
誰か、誰か周りに人はいないのか。
急いで辺りを見回すも、人どころか、いつもは騒がしいカラスまでもが、太陽と一緒に雲隠れしてしまっていた。
そして、道の脇に落ちているパイプに目がついた。
「じゃあな、おっさん。長い間お疲れ様でしたぁ〜!」
ヤクザがナイフを振り下ろした瞬間ーー私はパイプを持って呼び出した。
そしてすぐさま間合いをとり、ナイフを持った男の頭を思い切り殴る。
「いってぇ!」
「てめぇこのクソアマ、何しやがる!」
所詮は中学生の浅知恵。
大したダメージは与えられなかったものの、ヤクザはナイフを取り落とした。パイプにはほんのり赤い筋がついた。
「さ、サリン?! 学校にいるはずだろう!」
「お腹が痛かったの!」
勇気を振り絞るため、あえて大声を出した。
父は今にも泣き出しそうだった。
「私ね、昔っから……頑張るお父さんの姿を見てきたよ。私は、ずっとお父さんに守られてた……だから最後くらい、私にお父さんを守らせて」
パイプを捨てて、私はヤクザたちに対峙した。
「組長さんに伝えてください。私は貴方のものです、と。そして、もう二度と父に関わらないでくださいとも」
「分かった。別れを惜しむ時間くらいならくれてやるが、すぐにお前を連れてこいとのお達しだ。逃げさせないようにな」
「逃げたら父は殺されるんです。そこまで馬鹿じゃない……」
父を見る。なんて情けない顔だ。
きっと私もこんな顔をしているんだろう。
「サリン、父さんはーー」
「今すぐ、本当に必要なものだけをこの中に入れて持ってこい。衣服などはこちらで用意してある」
父の言葉を遮り、ヤクザは私に大きめのボストンバックを渡してくる。
私は泣き叫ぶ父の声を無視し、家の中に入った。
思い出のたくさん詰まったアパート。戻ってくることは、きっともう二度とない。
これから私は慰み者として扱われるのかな……。
良い大学に行って良い会社に就職して、父に楽をさせてあげたかった。
部屋の隅にある勉強机の上には、使い古した参考書や教科書が並んでいた。全部は持っていけないから、特に愛着にあるものだけを選んだ。
ふと、机の上の写真立てに目がついた。
私がまだ幼く、母が生きていた頃ーー家族三人でピクニックに行ったときの写真だ。まだ借金もなく、平和な日常だったに違いない。私はもう覚えていない。
持っていきたい衝動に駆られたが、私はそっと、写真立てをうつ伏せを倒した。家族とは違う人生を歩む。
もう二度と関わらない赤の他人になるんだ。
六畳一間の家から必要なものをかき集めるのに、そう時間はかからなかった。
玄関先に父が座り込んでいる。すっかり絶望的な表情をして呆けていた。私はそっと歩み寄り、優しく肩に手を置く。
「サリン、行かないでくれ……私はもう死んでも良いんだ。だから、あいつらなんかに……」
「ごめんなさい。でも、お父さんを助けるためにはこうするしかないの。分かって。止めないで」
父は泣いている。
お父さん、愛しています。
貴方は私を男で一つでここまで育ててくれた。母がいない分まで愛情を注いでくれた。何よりも大切にしてくれたーーちゃんと恩返しできなくて、ごめんなさい。
「今まで、ありがとう」
涙を見られないように背を向け、私は車に乗り込んだ。