表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/151

拾漆


 首に絞められた痕を残しつつ登校できる胆力はなかった。

 流石に心配されるだろうし、最悪、虐待を受けているのではと警察や児童相談所の人を呼ばれてしまうかもしれない。


 あれ、そうしたら穏便に黒川さんが逮捕されるかな……? いや、私が連れ戻される方が早い気がする。止めておこう。


 そういうわけで、首が癒えるまでしばらく休むことにした。



「うわ、こりゃ酷い」


 洗面所で自分の首を見た。

 くっきりと手の痕が残っている。

 やっぱり人を絞め殺すときは、手じゃなくて縄の方は良いんだな。だってこんなにも証拠が残る。


 改めて自分の顔を見ると、何だかやつれているように見えた。絞め殺されそうになって元気いっぱいなわけないが、それでも目に見える変化に気落ちする。


 長い黒髪から、黒川さんと同じ匂いがした。

 無駄に奴は美意識が高く、どこぞの高級シャンプーとコンディショナーを使わせてくる。

 いつも薬局の一番安いリンスインシャンプーを使っていたから、髪のあまりの変化に初めは驚いた。綿糸だった髪が、今じゃ絹みたいにさらさらだ。



 あの人は多分、私を愛しているんだろう。

 頭のおかしな話だ。

 首を絞められたのに、感じたのは愛情だった。

 あの人は私を傷つけたくて傷つけたんじゃないし……それに、酷く苦しそうだった。あれが愛ゆえの行動だと言うならば、そうなのかもしれない。


「あの人は一体、何を考えているんだろう」


 鏡の中の自分が見つめ返してくる。

 曇り空のような濁った瞳だ。一切の生気を感じさせない瞳が、私を見つめてくる。


 あの人は歪んでいる。

 もしかして黒川さんは、人の愛し方を知らないのかな。


「でもそんな人に私は、『歪んでいる』と言われた……」


 私は、歪んでいるつもりはない。

 黒川さんもそのつもりなのかもしれない。


「私は、あの人のこと……」


 嫌いじゃない。良い人だとは思っている。それに今や家族だ。


 ああ、何でこんな気分になるんだろう。

 心の中がぐちゃぐちゃで、どうにも整理がつかない。何も分からない。



 ***



 夕焼けが長い廊下を照らし出す。

 私は夕方が好きだ。世界が太陽から色を得て、新しい姿を見せてくれる。


 書庫へ行こうと廊下を歩く足が、ぴたりと止まった。

 廊下に、私たち以外の誰かがいる。

 この家に入れるのは私と、黒川さんと、後藤さんと……それから特別に許された人だけ。彼がそうであるとは思えなかった。



「黒川さん、会えて良かった」


 彼は私の名前を知っていた。

 そして私もーー


「み、水羽くん……だよね。何でここにいるの」


 そこにいたのは、丸眼鏡をかけた制服姿の少年ーー私のクラスメイト、水羽くんだった。


「どうしても渡さなきゃならないプリントがあってさ。先生に頼まれて僕が届けに来たんだ」

「あ、ああ、ありがとう……」


 困惑しながらプリントを受け取る。

 色々と聞きたいことがあった。


「えっと、後藤さんはどこ?」

「あのいかつい人ならリビングにいたよ」

「……誰がこの家に入って良いって言ったの?」


 私の言葉に、水羽くんは肩を竦めた。

 ああやっぱり。

 後藤さんが、ただの学校の同級生をーーそれに男をーー不用意に家に入れるわけがない。用を聞いて、玄関でプリントを受け取って帰すに違いない。


 彼がここにいるということはーー


「ごめん、君が心配で。不法侵入しちゃった」


 ああもう!


「非常識にもほどがあるでしょ……! ほら、裏口を教えてあげるから早く帰ろう。バレたらとんでもないことになるよ」

「大丈夫。父さんに言ってあるから、僕に何かあっても駆けつけてくれる」

「父さん?」

「僕の父さんは刑事なんだ。黒川組を追ってるんだよ」


 彼は自分が称賛を受けたかのように誇らしく言った。

 お前の兄さんの犯罪の証拠を集めてるんだぞ、って妹に言うかね? 好きに動いてくれて構わないけど、私に迷惑をかけないでくれ。


「早く帰って。私がとばっちりくらうから」

「あれがお兄さんの部屋? 入って良い?」

「ちょっと!」


 許可する前にーーそもそも許可するわけがないのだがーー彼は手近な部屋にずかずかと踏み込んだ。

 運の悪いことにそこは、私と黒川さんの寝室だった。

 見られて困るものはないが、だからといって許せるわけじゃない。


 後藤さんを呼ぼうかーーと一瞬迷ったが、その迷いはすぐに打ち砕かれた。

 昨夜の悪夢が私の脳裏に蘇る。

 あんなに釘を刺されておいて、すぐに男を部屋に招き入れた(勝手に入ってきただけだが)なんて知られたら……きっと明日の朝日を拝めない。


「お邪魔します……うん、良い部屋だね」

「水羽くん!」


 彼は私の言葉など歯牙にもかけなかった。


「へえ、この服はお兄さんのか。ん? こっちは君の……?」


 勝手にクローゼットを開け、引き出しを開けーー私は少しだけ焦った。時々あそこに拳銃が入っているからだーーベッドの下、そしてあろうことか、ベッドの匂いまで嗅ぎ始めた。


 黒川さんは自室に仕事を持ち込まない。

 ここから明確な犯罪の証拠が出てくるとは思えない。


 あの、何でベッドの匂いを嗅ぐの? 黒川さんの匂いにそんな興味がある?

 君も変態か? 君まで?!


「この部屋に二人で暮らしてるの?」

「この家に、二人で住んでいます」


 誤解を招くような言い方をしないでほしい。間違っちゃいないが。

 おい止めろ、勝手に部屋の写真を撮るんじゃない!!


「止めてよ水羽くん……!」


 私は後藤さんに勘づかれないように、努めて小声で叫んだ。


「可哀想に。黒川さん、君は本当に可哀想に」

「は?」

「その首」


 痛いところを突かれた。私はとっさに首元を隠す。

 水羽くんは同情を隠そうとしなかった。


「DVを受けているんだね。それに、お兄さんの慰み者にされているんだろう? このベッドからは二人の匂いがするよ」

「何でそんなの分かるの」

「僕は鼻が良いんだ」


 確かに鼻は良いらしい。頭は良くないようだが。

 壮大な勘違いをしている水羽くんの暴走を、私はもう止められる気がしない。


「分かった。分かったから……せめて部屋から出て。お互いのためにも」

「大丈夫、君のお兄さんはまだ仕事のはずだ。僕の調べだと後二時間は帰ってこない」


 知ってる、水羽くん? そういうのはフラグっていうんだよ……。

 あっ、何だか寒気が……。



『サリンー! ただいまー!!』


 ほら、一階から悪魔の声がする。

 嫌な予感ってのは、最悪な状況に限って的中するんだもんなあ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ