佰参拾伍
寒くて目が覚めた。
無意識に手を伸ばした先には誰もいなかった。
遮光カーテンの隙間から差した朝日の道筋を、寝ぼけ眼のままぼんやりと眺めた。部屋を舞う埃が光の粒になって輝いている。
「……寒い」
クーラーを切ってまた毛布にくるまった。
自分で自分を抱きしめる。孤独だから寒くなるわけではない。寒いから孤独がよりいっそう深まるのだ。
私は常に時計がないと落ち着かない質だった。リゾート地お約束の「時間を気にせずゆっくり過ごしてもらうため」のお気遣いはただのお節介。
腕時計は手錠を思い出すから、壁かけ時計が理想だ。しかし例に漏れず「お気遣い」に優れたリンダンには壁かけ時計どころか枕元の小さなデジタル時計すらなかった。
唯一の確認手段はスマートフォンだけ。
「七時か。もう起きないと」
隣でおはようと言ってくれる人がいないのは案外寂しい。
耳を澄ますと、重厚に見えるドア越しに人の声が聞こえた。テレビでもついているのかと思ったが声の主は聡だった。
すでにスーツに着替えた後藤さんがコーヒーをすすりながら、視線だけを聡に送っている。ローテーブルにのった新聞には式典の大見出し記事が掲載されていた。
「サリンは、家ではどんな感じなんですか?」
私は友人の後頭部に空手チョップを飛ばす衝動にかられた。
後藤さんと一瞬目が合う。すると彼は何にも気づいていないふりをして、わざとらしく天を仰いだ。
「聞いちまうか。がっかりしても責任とらないぜ」
「そう言われると俄然知りたくなります」
「あのな」
後藤さんが秘密の話をするように声を潜めると、聡は身を乗り出した。
後ろに本人がいるとも知らずに……。
「ああ見えて家だとだらしないんだ。休日はパジャマ着たまま食っちゃ寝、食っちゃ寝」
「なんか想像つくな……」
「風呂上がりなんてタオル一枚でウロウロするから目のやり場にこま──おっと。これは言っちゃいけなかったかな」
「そ、それはちゃんと注意しないと駄目ですよ! タオル……」
おい。ガチな話をするな。
「いやいや、昨日も言ったけど俺は家族だからさ。タオル一枚でも気にならないくらい信用があるの」
「はい? いや、はは」
聡はため息のような笑いを漏らした。
「信じられない。サリンがそう言ったんですか? だとしても俺は安心できません」
「どうして?」
後藤さんの口角が上がる。相手を弄ぶときの口調だった。
私はそれとなく自分の存在に気づいてもらおうと思った。きっと聡は私に聞かれたくないだろう。
「だって後藤さんが──」
「おはよう」
言葉を遮られた聡は肩をバウンドさせた。
さびついた機械のようなぎこちない動作で振り向いた彼の顔は、今までに見たことがないほど引きつっていた。
「おはようサリンちゃん。良い朝だね」
「ええ」
真人に負けず劣らず底意地が悪い。私もすぐ声をかけなかったから同罪だ。
私は寝巻きを人に見られる気恥ずかしさもなく、そのまま洗面所に行こうとした。タオル一枚ならともかく寝巻きくらいなら見られたって構わない。
「いつから聞いてたんだ?」
「『家ではどんな感じなのか』あたりから」
後ろ歩きをしながら答える。
それを聞いた聡は目に見えて安心したようだった。男同士の会話だ。異性に聞かせられない、まずい発言があってもおかしくない。
顔の水気をタオルで拭き取ると、ターコイズカラーの香水瓶型のボトルから少量を手に取る。これは真人が買ってきた化粧水だ。
断りもなく勝手に人のものを増やしていくのだから、本当に迷惑な男だ。まぁ使うけどね。
手に残った化粧水は首と肘に塗ると良いという玲海堂OBの言葉を信じ、最近はいつ効果が出るとも分からない美容法を試す朝が続いている。
首に液を浸透させながら考える。
──あの二人、あまり仲が良さそうには見えない。
彼らの会話は不健康だ。
聡が何か理由をつけて後藤さんに食ってかかり、後藤さんが薄笑いで彼に反論するのがお決まり。
親しい二人がいがみ合っているだけで心苦しいのに、会話という形で見せつけられたら余計にストレスを感じる。
聡はどうして後藤さんが気に食わないんだろう。
いくら嫌いでも、あんな風に子供っぽく文句を言う人じゃないのに。
言い合わないでほしいという願いはすんなり叶った。聡と後藤さんはそれぞれ熱中できることを見つけたようだ。互いへの興味を失っていた。
ルームサービスのメニューをめくる聡の脇に立ち、上から覗きこむ。モーニングだった。
「また見てるの? もう決めたじゃん」
昨夜、ルームサービスのオーダー期限ギリギリの夜十二時まで悩んで決めた。
メニュー表に写真はなかったが、文字だけでも料理の見た目を想像するのは難しくない。メニューは多岐に渡り、世界各国の朝食料理、フルーツの盛り合わせなどのサイドメニュー、がっつり系の肉料理まで様々だった。
メインはコンチネンタルスタイルの朝食だが、あんなおやつみたいなラインナップで食べ盛りの若者がお腹いっぱいになるわけがない。
私が頼んだのはアヴェリアスタイルの朝食でお馴染みの甘いドーナツ、ポンティスのモーニングセットだ。二人は決めるまでにかなり時間をかけたが、私は一目でこれに決めた。
「手持ち無沙汰なんだよ。サリンはポンティスだろ。朝から食えるか?」
「もちろん」
ポンティスは揚げドーナツの一種で、橋のような半円状をしている。フルーツジャムやクリームをトッピングして食べるのが通例だ。
確かに朝から食べるにしては重い。
しかしアヴェリアでポンティスを食べないなんて、イタリアでパスタを食べないようなものだ。本場の味を堪能するのが旅行者の義務というもの。
「聡も同じのにすればよかったのに」
「家でよく出てたから、わざわざ食べるほどじゃない」
「ランスと同居してたんだもんね」
「同居って言うな」
腕のいいシェフの朝食だ。さぞ美味いのだろう。
二人の了解をとってテレビをつけた。
どこのチャンネルもアヴェリア王室の話題ばかり。ガレツィオ三世の回顧録や王室の歴史、チャンネルによっては王太子のルカ王子や話題の隠し子にフィーチャーしていた。
今日の式典は、テレビ、インターネット、ラジオ等、多様な媒体でライブ配信されるらしい。
ニュースによると、動画投稿サイトYoutubeの枢密院公式チャンネルのライブ待機画面には、のべ三万人もの人がリアルタイムでアクセスしているとのこと。
映らないよう影を潜めておくか……。
大学が再開して、知り合いに「黒川さんにそっくりな人がアヴェリアの式典に出てたよ」なんて言われたくない。
朝食を終え──言わずもがな、ポンティスは食べても食べ足りないほど美味しかった──迎えが来る前に着替えを始めた。
毛布をとっぱらったベッドにドレスを広げ、気休め程度にしわを伸ばした。ハンガーにかけていたが、少し足元にしわが寄っている。今さらどうしようもない。
外国来賓として行くのだからと、はじめは和装にしようと思っていた。
が、桜桃さんと相談して何着か候補を決めていた矢先、外務省から「洋装で統一することになった」との通達が入った。
ついでに「華美すぎない色で」と公立中学のマフラー指定のようなことを言われた。華美とは何なのか三日三晩悩んだものだ。
そうして(真人が)悩んだ末に、紫色のアフタヌーンドレスが私の手元にやってきた。日本人のアイデンティティを誇示するため桔梗色とでも言っておこうか。
これなら黒いスーツにも紛れるし、変に目立つこともないだろう。
後ろが大きく空いたデザインのせいで、髪を結うと、背中が涼しくなった。
最後のピンを留めると、日本で何十回と練習したヘアメイクが完成した。もう目をつむってでもできる。
化粧をして、髪を整えて、すべての準備が終わった鏡の中の私と向き合うと、自分がまったくの別人になったような妙な気分になる。向こうの私が今にも意思をもって動き出しそうだった。
全体のバランスに目を凝らして、左右非対称がないか念入りに確認した。
「うーん……口紅が濃い気がする……」
桜桃さんが自分に合わないからとくれたブランドもののルージュだが、残念ながら私にも合わなかった。もったいないから絵具にでもしようか。
ティッシュで不自然な赤を拭き取ると、さっきよりはいくぶんマシになった。
こういうときは真人がいても役に立たない。あの男は寝起きで髪の毛がボサボサでも世界一可愛いと本気で言うのだ。
「おう。似合うじゃん」
私が居間に戻ると、聡は開口一番そう言った。
彼は何のこだわりか、「綺麗」だの「可愛い」だの典型的な褒め言葉を使わない。
この間なぜかOB会に来ていた巴ちゃんが、
「私が『この服どうかしら』と聞いても、この男は『いいんじゃねぇの』しか言わないんですのよ! ほんと! こんなんだからモテない!」
と、本人を目の前にして言っていた。
きっと、聡は褒めるのが照れくさいだけだ。巴ちゃんも知っていて文句を言い立てる。
私としてはこれくらい適当に褒めてくれる方が気が楽だ。
こっちは輪ゴムで一つ結びにするだけで大げさな賛辞を並べ立てる人と生活しているんでね。
「ありがとう。聡もかっこいいよ」
すると聡は誇らしげに胸を張った。
褒められ慣れている二人には、頬を赤らめて照れるという選択肢がなかった。
テレビを見ながら団欒していると部屋のチャイムが鳴った。
鳴らしたのは枢密院のSPだった。どうやら後藤さんをご指名らしい。
「悪い。ちょっと出る」
「分かりました」
あと二十分で迎えが来る。何かの最終確認だろう。
忘れ物がないかバッグの中を確認していると、聡が遠慮がちに声をかけてきた。
「リボンが片結びになってるぞ」
「うそ。ちゃんと確認したのに」
背中に手をやった。
……おかしい。さっきまで横向きだったリボンがなぜか縦向きになっている。こんな反抗的なリボンは初めてだ。
「サリン、俺が結び直すよ」
「お願い」
リボンの布擦れの音がして、背中がさらに涼しくなった。脱がされているような気分がして不意に恥ずかしさがこみ上げてくる。
自然と背筋が伸びた。
私は黙ってことが終わるのを待ったが、聡はなかなか結ぼうとしない。
彼の視線が私の背中を這っていた。まるで静電気のようで、火傷するほど熱く、ピリピリと感じられた。
やがて聡は──結び終わりたくないのではと思うほど──必要以上にゆっくり、丁寧にリボンを結んでいった。
もうずっと長い間こうしていたような気がする。
自分の鼓動と、彼の微かな吐息が聞こえる。
決して触れられていないのに、愛撫するような優しい感触を背中に感じてしまうほど五感が敏感になっていた。
私は石にされたように動けなかった。
「普通の蝶々結びは解けやすいんだ。解けないやり方がある」
呟くような声が私の硬直を溶かした。
「あ、ありがとう」
「ああ」
振り返って、聡と手が触れ合うほど近くにいることに驚いた。互いに交差した目が一瞬で逸らされる。
体が火照るように熱かった。ここに後藤さんがいなくて良かった。彼は敏感に私の動揺を感じ取ったに違いない。
冷静になろうとバッグの確認を再開したが、底にあるリップクリームを指で転がし続けるだけだった。




