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佰陸

 

 黒川 真人視点



 初めてあの子の写真を見たとき、真っ先に感じたのは懐かしさだった。

 まるで物心がつく前のアルバムを見ているようだった。自分は何一つ覚えていないのに、脳の奥底にしまいこんだ記憶がうずく感覚。


 そして分かった。



 サリンはどうしようもなく歪んでいる。



 優しくて暗い目の内に、俺と同じ色があることに気づいた。

 この子なら俺を受け入れてくれるかもしれない。

 与えられた役割のためだけに生きる俺を、友人相手にも仮面を外せない俺を愛してくれるかもしれないと思った。


 しかしサリンは俺にはどうすることもできないほど歪みきっていた。



「私は死んでも構いません。殺すなら、今すぐ殺してください」



 初めて会ったときの会話を一言一句違わず覚えていると言ったら、サリンはどう反応するだろう。きっとあまりの思いの深さに感激して抱きしめてくれるだろう。決して気持ち悪いなどとは言わないはずだ。

 ちなみに後藤に復唱してやったらドン引きされた。


 愛する父親を生かすため、サリンは生も死も、全ての権利をも捨てる覚悟を決めていた。サリンはもはや俺のもので、呼吸するにも心臓を止めるにも俺の許しが必要だったからだ。

 弄ばれた挙句に殺されると思っていたのだろうか。あの日はひどく怯えていた。


 まあ、まだそこまでなら普通の範疇と言えるかもしれない。

 家族や愛する人のために命を賭す人間は大勢いるし、俺もサリンを守るためなら何だってする。


 サリンのおかしさはそこではない。



 あの子の愛は、あの子自身に向かない。



 女神のごとく慈愛は隔てなく、家族や友人、少し話しただけの知り合い、赤の他人にさえサリンは愛を注ぐ。

 そして彼らの生のためなら何だってしてみせる。俺の殺意を連中から逸らすためなら、尊厳だって喜んで捨ててみせるだろう。


 異常なまでの自己犠牲愛。

 どこまで堕ちたって構わないという自虐。それがサリンの歪みだった。


 俺と似ているなんて勘違いもいいところだ。

 自分のためだけに生きる俺と、他人のためだけに生きるサリン。全く正反対の人生だ。



 だからこそ嫉妬が洪水のように停滞してうずまく。


 どうして俺だけを愛さない。

 どうして有象無象のために命を賭ける。


 どうしてーー


 閉じこめてしまえば悩む必要なんてなかった。俺と二人だけの世界に放りこめば嫌でも愛してくれるだろう。

 いずれそうするのも悪くない。


 でもね、サリン。

 私は貴女の博愛の眼差しが大好きなんですよ。


 貴女の愛は人を選ばない。こんなに薄汚れた私さえ除外しない。



 貴女が歪んでいればいるほど、私への愛は深まる。



 だから俺はサリンを壊そうと思った。

 学校へ行くことを許したのも、西園寺たちとの交流を許したのも、外へ連れ出したのもーー後から全部めちゃくちゃにしてやるため。


 何もかも全て、自分のためだ。




 ◇◇◇◇◇◇




 最高裁判所長官の一筆と区長の口添えさえあれば、戸籍の改変なんて容易い。


 家を出入りしても不自然でないよう黒川の姓に迎え入れた。

 遠い親戚扱いにしても良かったが、適当な縁故がいなかったため妹にするしかなかった。幸運なことに両親はとうになく、俺の決定に口出しできる人間は誰一人としていなかった。



 サリンが来てから一週間と少し。


 まだ警戒されているが、それなりに仲良くやれていると思う。少なくとも腕の中で痛みに耐えるような顔をすることはなくなった。

 男に興味がないことは知っていたが、俺を前にすればそれなりに女を出してくると思ったのに。さすがに少し傷ついた。

 絆すのに時間はかかるだろうが、簡単に股を開くような連中よりずっと良い。


 睡眠の質は格段に向上し、悪夢も見なくなった。

 抱擁がストレスを軽減するという論文を読んだことがあるが、もしかしてその効果だろうか。サリンを抱きしめて髪に触れる時間が二十四時間の中で一番落ち着く。


「……どうかしましたか?」


 恐る恐る、といった様子で私を見上げるサリン。

 どうやら私の機嫌を損ねたら拷問されると思っているようで、いつも言葉を慎重に選んでいた。

 嫉妬させなければ怒らないと教えてやっても良いが、びくびく怯えるサリンが可愛くて、いつまでも伝えずにいた。


 しかし二ヶ月もすれば俺の感情の地雷原をすっかり理解して、軽い文句すら言うようになってしまった。

 見た目によらず皮肉っぽい子で、遠回しな嫌味をさらりと言ってくる。後藤がそれを面白がるものだから向かっ腹が立つ。


 楽しい日々だった。



 サリンも新しい生活に慣れたようだし、男女の関係になるのもそう遠い未来ではないだろう。

 いずれ互いに思いが通じ合い、愛を深め、ロマンチックな生活を送り、一生を共に過ごす間柄になるはずだった。



 しかし、ただ一つだけ誤算があった。


 サリンの目に俺は映っていなかったのだ。


 俺に抱きしめられるときも、いじめられるときも、話すときも、愛を囁かれているときでさえいつもーーサリンはどこにいるかも分からない父親を思っていた。


 許せるはずがない。

 父親が生きている限り、サリンは俺を義務としてしか受け入れない。そこに本物の愛はない。


 違う。

 違うんだ。


 心から愛してほしいのに。



『借金を帳消しにし、黒川組は赤城翔太と二度と関わらない』



 サリンが私のものになる条件はこれだった。



 ああ、サリン。

 貴女が許してくれるか分からない。


 私は一度だけ、約束を破った。




 ◇◇◇◇◇◇




 いっそ壊してしまおうと思った。

 依存の気が強い人間は、拠り所を失うとまるで砂糖細工のように脆くなる。サリンが何を思うかなんて考えもしなかった。


 サリンの父親をーー赤城翔太を殺せば、きっと俺の世界はさらに素晴らしいものになる。

 父親が死んだと知ったサリンは俺だけを見るだろう。

 世界中のどこを探したって、俺ほど献身的な愛を注ぐ男なんていない。唯一の肉親を失った悲しみを俺が埋めてやるんだ。



 部下に車を出させ、町中が寝静まった真夜中に家を出た。


 向かう先は赤城翔太の住むアパート。

 監視によると何度か自殺未遂を繰り返したようだが、どれも死ぬところまではいかなかった。心のどこかに迷いがあるのだろう。

 他人に楽にしてもらえるなんて運の良い奴だ。



「つきました」


 数時間かけて神奈川の郊外へ。

 若いのに始末させても良かったが、この男だけは自分の手で殺したかった。


 赤城の部屋から漏れ出た光が辺りを照らしている。

 引っ越すべきと分かっているだろうに。日銭を稼ぐのに手一杯で退去費用すら出せないのだろう。

 ここらは治安が悪いせいか、借金取りのチンピラが騒ぎまくっても部屋を追い出されないらしい。上の階の住人もうちの負債者だし、半グレも多い。


 サリン......こんなところに住んで、よく健やかに育ったものだ。

 こればかりは赤城に感謝しなければならない。永代供養の費用くらいは出してやっても良い。


『ーー番は橋本。三塁の位置にーーしてーー』


 入ってくれと言わんばかりにドアが開いており、ラジオの音声が聞こえた。


 俺は乱暴に土足で踏みこみ、みすぼらしい男の背中に銃を向けた。髪はぼさぼさで覇気がなく、着ているシャツもしわだらけだ。

 狭いワンルームにはインスタント食品のゴミや脱ぎっぱなしの服が散乱しており、唯一整った机の上にはアルバムと、何十枚ものサリンの写真があった。


 俺の存在に気づきながら家主は叫び声すら上げない。


「赤城翔太。お前を殺しに来た」

「いずれ来るだろうと思っていたが。ずいぶんと遅かったな」


 そこに恐れはなかった。


 声は疲れ切っており、生への諦めがあった。


「遺言はあるか?」

「そうだな。……では、おたくの組長さんに一つ伝えてくれ。『()()()()()()()()()()』と」

「……お前」



 俺は赤城の背を蹴り、力づくで仰向けに動かすと顔を見た。

 小汚い中年の顔。


 俺の、あの父親では、ない。


 あいつの顔はもっと端正だし、順当に歳を食っていてもここまで老けるなんてありえない。それにこの男と黒川のつながりは借金だけだ。

 一体どういうつもりで言った。

 何か知っているのか。


 赤城が大きく目を見開いて言った。



「お前……()()()?」


「まさか、そんな……ありえない」



 俺の父親は、物心ついた頃に母親を連れて夜逃げした。


 先代の一人息子で、黒川直系の濃い血を引いているにも関わらず、父親は黒川に相応しくなかった。才能がなかったのか度胸がなかったのかーー早々に見切りをつけた先代は父親に組を継がせなかった。


 あいつは逃げる前に俺にも声をかけたがーー拒絶したに決まっている。


 誰が好き好んで、自分を疎ましく思っている人間と逃げなきゃならないんだ。先代は俺に次期組長としての英才教育を施していたし、俺も自身の将来を「そういうものだ」と受け入れていた。

 母親も説き伏せられて去ったのだから同罪だ。


 あいつらは俺を捨てたんだ。



 俺は両親の消息を知らなかった。

 どうやって逃げたのか、生きているのか死んでいるのかすら知らなかったし、興味を抱いたことすらなかった。


 ああ、そうか。だからーー



「真人? 真人なのか? 本当に!?」

「……ああ」


 名前を呼ばれた瞬間、怒りが腹の底から湧き上がってくる。

 いまさら父親づらして名前を呼ぶな。

 握り締めた拳に爪が食いこみ、傷を作っていく。俺はどうにか自制心を保った。ひとたび感情を表に出してしまえば、勢いあまって殺してしまいそうだったからだ。

 殺すのはまだ早い。

 こいつに聞かなければならないことがある。


「私のことを覚えているか? お前の父親、黎人(れいと)だ」


 そのまま老けたにしてはやはり不自然だ。


 整形したのだろう。

 先代の追手から逃れられるほどの変わりようだ。こいつに金があったとは思えないが、かなりの金額をかけたに違いない。

 顔も名前も変えて、新たな場所で新たな人生を生きていこうとしたのだろう。それなのにまた黒川組に関わって。

 因果というやつは本当に恐ろしい。


「……復讐のつもりか? お前は父さんだけじゃなく、サリンまで奪うんだな」

「感動の再会だってのにそれしか言えないのか。吐き気がする」


 昔からやけに邪険にされていた理由が分かった。

 自分を見放した先代に期待される息子が気に食わなかったのだ。

 本当にくだらない男だ。そんなに黒川が嫌なら、もっと早くから逃げ出していれば良かったものを。


「サリンには由美子の面影があるだろう? だからお前と違ってサリンのことは心から愛せた」

「あの人はどうした」

「由美子か? ……癌で死んだ。あんなに、あんなに愛していたのに」


 母親との思い出はない。顔も覚えていないほどだ。

 この男と違って、母親には親の情があったらしく、先代に取り上げられた俺を連れ戻そうと躍起になっていたようだった。


「サリンはお前たちの実の子供なのか? 父親が違うということは......」

「そんなわけがあるか! 正真正銘、私と由美子の子だ。......お前の妹だ」


 そうかーーだから、サリンのことが無性に懐かしく感じたんだ。母親に似ているから。

 実の妹と知らず、妹として迎え入れるなんて、もしや超次元的な未知の力でも働いているのか? 

 あまりに数寄な巡り合わせに思わず笑ってしまいそうになる。


「真人、私を殺せ。どうせ自殺で消える命だ。由美子とサリンのいない世界に価値はない」

「……そうか」


 謝罪も後悔もないこの男が憎らしく、羨ましかった。

 愛を免罪符に罪を重ね、自分勝手に生きる。サリンにこんなにも愛されているのに、どうして簡単に死のうなんて思える?

 どうして何もしていないこの男が愛されて、なすべきことをなす俺が孤独でなきゃならないんだ。



「殺してやっても良いが、せっかく再会したんだ。哀れみと情をもってお前を生かしてやろう」


 殺すよりもっと良い方法がある。

 俺は携帯を取り出した。


「絶対に自殺なんてさせない。俺はサリンと二人で、一生幸せに暮らしてやる」


 北条に連絡を取ろう。

 監視好きのあいつなら喜んでこの男を管理してくれるはずだ。

 以前から戦嶽との不可侵の話が出ていたし、こいつを預かることを条件に取引しよう。



「せいぜい苦しめ」



 これが俺の、精一杯の復讐だった。




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