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佰弐

 


 後藤 謙次視点



 死に物狂いで追跡を続ける部下たちを尻目に、俺はタバコをふかしていた。


 焦ったって仕方がないし、筋肉しかない俺はここじゃ何の役にも立たない。唯一できることは、頑張ってる連中に組長の怒りがいかないよう気を配ることだけ。


 数年前は紙巻きタバコだったが、サリンちゃんに嫌な顔をされてすぐ電子タバコに乗り換えた。組長もやってた時期はあったが、俺ほどハマらなかったらしい。一月ちょっとで吸わなくなった。

 電子だとちょっと味気ないが、匂いがつかないわ煙がないわで大助かりだ。

 こうやって部屋で吸ってても文句を言うのは組長くらい。


「北条宅や戦嶽組関係施設のカメラも確認していますが、今のところそれらしい出入りはありません」

「まだ足取りがつかめないのか……」


 途中で何度も車を乗り換えられているせいで、なかなか見つからない。

 少なくとも関西圏には入っており、今大阪県警に協力を仰いでいる最中だ。ヤクザもんが警察に手伝ってもらうなんて情けねぇが、一番効率が良いんだから仕方ない。


「戦嶽はどうして妹さんを誘拐したんでしょうか。うちへの切り札にするには扱いが難しすぎやしませんか?」

「俺もそう思う」

「抗争を起こそうとしているのでしょうか?」

「いや。それなら単に殴ってくれば良いだけだ。サリンちゃんを使うということは連中、俺と組長を引っ張り出すつもりだ」


 ただ揉め事を起こしても、互いの滅亡へのカウントダウンを早めるだけだ。


 俺や組長が逮捕されることはないが、警察が目を光らせている昨今、抗争なんて起こそうものなら下部組織が丸ごと持っていかれちまう。

 あっちだってリスクは避けたいはずだ。


 それなのにわざわざ組長を刺激するってことは、組長本人を交渉の場に出させるつもりだ。サリンちゃんを人質にとって事を有利に進めようとしている。

 おおかた中部から関西にかけての勢力ラインを広げたいのだろう。


 うちがその気になれば、戦嶽なんて簡単に潰せる。

 潰さないのは潰す必要がないから。

 それに連中が関西全域に幅を利かせ始めたのは今の代になってからだ。その前までは数ある組の一つに過ぎなかった。

 先代とは因縁があって揉めていたが、そのとき常に優位に立っていたのは黒川だ。


 しかしまあ。姑息な連中だ。

 人質を盾にして、対等ないしそれ以上の態度を取るつもりだろう。



 サリンちゃんは組長にとって唯一の、そして最大の弱点だ。



「ん? まさか奴ら……」

「どうかされました?」

「いや」


 すっかり失念していたが、戦嶽にはもう一つ弱みがあるんだった。


 突かれると”痛いところ”と言った方が良いかもしれない。中学時代の黒歴史、昔の知り合いへの負い目みたいなもんだ。

 取るにたらないくだらないことだが、()()も交渉材料になり得るか……。

 簡単に切り捨てられるものだが、気にしておくに越したことはない。



 するとポケットのスマホがバイブレーションした。

 組長かと思ったが、発信者は非通知。


 すぐ部下に目配せし、スマホとパソコンをプラグで繋いだ。



『もしもし後藤。久しぶりやなぁ』



 懐かしい声。

 玲海堂時代ーー関西弁に憧れを抱いていた俺は、組長に北条を紹介してもらった。軽率そうに見えるが芯のある真っ直ぐな男で、俺は組長と違ってこいつのことが好きだった。


 だが、今となってはただの敵だ。



「……お前。どういうつもりだ」


 部下と目を合わせ、首を縦に振る。

 数秒もかからず逆探知が成功し、北条の現在位置が割り出された。


『いやぁほんま、久しぶり言うても九月に一回会うたけどな。黒川は元気か?』

「元気なわけあるか。今まで見たことがないくらい怒ってるよ。俺も怒ってる」


 こんなに腹わたが煮え繰り返りそうになったのは初めてだ。


 戦嶽は俺たちを裏切りーーあろうことか、サリンちゃんに手を出した。


 可哀想な子だ。

 黒川に迎え入れられたばっかりに、あの子は人の何倍もの災難を背負った。本来なら得られるはずだった平穏や幸福はもう二度とない。


 自分の不甲斐なさと戦嶽への怒りで、俺の心の中はぐちゃぐちゃだった。


『まーまー。そうかっかするもんやない。ストレスが寿命を縮めるって話やで。俺様、後藤も黒川もベストフレンドやと思い寄るから、早死にしてほしくないわ』

「早死にするのはお前だ」

『おお怖っ』


 俺に電話がかかってくるなんて思いもしなかった。

 この男なら学生時代と変わらず、自分自身で組長をおちょくりたがるだろう。挑発したいのなら本人にかけるべきだ。


「サリンちゃんは?」

『……お前が”ちゃん”づけするの、なんか気味悪いなぁ。キャラじゃないやろ』

「答えろ。サリンちゃんは?」

『怪我一つない……はずや。うちの石井に任せたから大丈夫やろ』


 石井ーー戦嶽組の若頭だ。

 元々は黒川組の構成員だったが、組長に楯突いたせいで顔に傷を負い、そのまま破門された。戦嶽に拾われたと聞いていたが、若頭にまで出世するとは驚いた。

 悪いやつじゃなかったが、あいつの反骨精神旺盛さには指導役も手を焼いていた。北条は上手く飼い慣らしたってわけだ。


「信用できない。直接無事を確認させろ」


 石井は俺と組長を恨んでいるかもしれない。

 サリンちゃんが丁重に扱われている保証はどこにもなかった。


『何で? まぁ上の部屋におるからできんこともないけど階段のぼるの面倒やなぁ。友達の言うことくらい信用せえ』

「友達の妹を誘拐する奴があるか」

『ちょっと借りとるだけやって。……黒川のイヤホンみたいに』

「......俺は黙っといてやったんだからな」

『げっ。やっぱ後藤にはバレとったか』


 学生時代、教室で動画を見るため北条が組長のイヤホンを借りたことがあった。


 珍しく親切で貸したイヤホンは組長の元に返ってこず、組長はそのまま貸したことすら忘れてしまった。

 一方北条は、クラスが違うからバレないとでも思ったのか卒業するまで組長から借りパクしたイヤホンを使い続けた。

 俺はそのことに気づいていたが、組長が新型のイヤホンを買っていたから何も伝えなかった。

 もしかすると組長は全て承知の上で、北条に廃品回収をさせたのかもしれない。


 ーー懐かしい思い出だ。

 卒業してもこの関係が続くと思っていた。


 北条が組長をいじり、組長がガチギレして、俺がなだめるーーああ、構図は大して変わっちゃいないな。


 でも俺たちは全員変わっちまった。



『後藤、今そこに自分以外の奴はおるか?』


 周囲に目をやる。

 十数人の部下たちがこちらを見やった。


「いない」


 嘘をつくのは簡単だ。ただ嘘を口にすれば良い。



『そうかそうか。……ほな後藤。戦嶽(うち)に来んか?』



「……は?」



 言っている意味が理解できなかった。


 戦嶽に来いだって?

 俺を知っていて、どうしてそんなことが平気で言える。俺がどんな思いを抱いて組長と共にあるか、俺たちを見てきたお前なら知っているはずだ。


 失望感に襲われる。

 仮にも友人と呼べる数少ない人間が、俺を、後藤謙次という男を軽んじている失望感に。

 でも、ああ。もうずっと前の話だ。


『俺様もなぁ、色々考えたんやで。……なぁ後藤。サリンちゃんと黒川、どっちが大事や?』

「どっちも大事に決まっているだろう」


 考えるまでもない。

 どちらも俺の守るべき大切な人だ。


『なら尚更サリンちゃんを優先すべきや。俺様はあの子を返すつもりはない』

「ふざけるな! 何か欲しいものがあるなら要求すれば良いだろう。組長はサリンちゃんのためなら何でもするぞ」

『ああ。するやろうな。何でもするやろう。でもそしたらサリンちゃんは帰らなあかん。帰ったらどうなる。え?』


 北条の剣幕に言葉が詰まった。

 この男の言いたいことが、俺には何となく分かってしまった。


『俺様は見たで。左腕の酷い傷跡ーー何やあれは。日頃から暴力を受けとるんとちゃうんか? あいつは昔っからすぐ手が出る奴やったからのう』


 何も言えなかった。

 組長がサリンちゃんを傷つかなかったと言えば、それは真っ赤な嘘になる。


 あの人は自らの劣情と嫉妬を殺すことができぬままサリンちゃんを傷つけ、時には壊そうとした。

 擁護する言葉なんてない。

 黙ってそれを見ていた俺も、サリンちゃんを傷つけた汚い加害者だ。


『色々と調べさせてもらったで。どういうつもりかは知らんが、陰湿ないじめも放置しよったようやし……家に軟禁してた時期もあるようやな』

「……でもそれは全て、愛ゆえの行動だ。組長はサリンちゃんを何よりも愛してる。あの子もそれを受け入れてる」


 今度は北条が押し黙る番だった。

 納得したからではない。

 沈黙が北条の、憐憫と呆れと怒りが溶けこんだ空気を俺に伝えてきた。


 俺は自分の発した言葉の愚かさを分かっていた。


『自分ほんま……愛があれば何してもええって、本気で思っとるんか? あ? 愛してるなら傷つけてええんか?』


 反論しようと口を開いたが、いつまでたっても言葉が出てこなかった。

 何を言えばこの男を納得させられるのか、どうして自分が納得しているのかーー考えれば考えるほど泥沼にはまりこんでいくようだった。



『後藤。自分は黒川の愛っちゅうけどな……それは愛やない。ただの()()や』



「それは違う」

『何が違う言うねん。暴力で従わせて、洗脳まがいのことまでして、それでサリンちゃんが本当に幸せやと思っとるんか?』


 サリンちゃんは幸せだ。

 毎日美味い飯を食って、大好きな本を新品で読んで、良い学校で良い友人に囲まれて、家では俺たちとふざけて笑い合う。

 幸せそうなサリンちゃんを見たら組長が喜ぶし、俺も嬉しい。


『俺様は別に、黒川の考えを改めさせたいわけやない。ただサリンちゃんを可哀想に思っただけや。だからこそ俺様は、後藤ーー自分に来てほしいと思っとんねん』

「どういう意味だ?」

『そうすりゃ黒川も大人しなるやろ。自分らに預けられた()()のこともあるし、サリンちゃんの保護のこともある。問題が山積みや! 自分がいといてくれた方がこっちも都合がええ』



 そんなものはついでに過ぎない。


 この男は最初からそのつもりで話を進めていた。


 ”黒川の番犬”と称される俺を引きぬいたとて、黒川組の戦力は変わらない。

 しかし番犬がいなくなれば、裏社会全体の勢力図が大きく変わる。今まで味方だった者が敵となり、敵だった者は敵のまま。

 番犬に噛みつかれることを恐れていた連中が、これ幸いと組長の首を狙いにくるだろう。


 無論そんなことでやられるほど柔な男じゃないが、殺されるリスクが格段に跳ね上がる。



 そりゃあ俺が戦嶽につけば、連中の後処理も楽になるし、サリンちゃんを黒川組の干渉から完全に守ることができるだろう。

 サリンちゃんは組長から遠く離れた場所で、きっと大きな幸せを得る。


 良い人と出会って、結婚して、子供を産むかもしれない。

 きっと可愛い子供だろうな。結婚しなくても、サリンちゃんなら充実した生活を送るだろう。


 キャリアウーマンも良いな。バリバリ働くスーツ姿のサリンちゃん……おお、かっこいいな! 

 上司や仕事相手にしつこく言い寄られたら、俺が追っ払ってやろう。


 老後は大切な人と時間を過ごして、最後は心から満足して死ぬ。


 十代の日々を忘れて、組長のことも忘れてーー



 良いシナリオだ。

 最高のハッピーエンド。でもそこに組長はいない。



 サリンちゃんは大事だ。



 ーーでも組長はもっと大事だ。




「悪いが断る。盃を飲み干して誓った……俺の人生は、生きるも死ぬも組長と共にある」


 俺の覚悟を乾いた笑い声が一蹴した。


『ハハハッ! 自分も黒川と一緒か。黒川の番犬らしい答えやのう。俺様は”後藤謙次”の答えが聞きたかったんやが』

後藤謙次(おれ)は、友人、黒川真人に一生の忠誠を捧げている。真人(あいつ)の幸福は地球より重い」

『サリンちゃんよりもか?』


 無言が答えだった。

 口に出したくはない。 


『俺様は自分らのこと、ずっと友達やと思っとるで』


 似つかわしくない優しい声が、尻すぼみになって消えていった。


「最後にもう一度だけ言う。サリンちゃんを返せ」

『無理や』

「そうか。では我々はそれを宣戦布告と受け取り、不可侵関係を解消する。先代からの因縁に蹴りをつけよう」

『……残念や』


 相手より先に電話を切ったのは、ある種の意地のようなものだった。


 近くの部下がおそるおそる俺を見上げる。何かを殴りたい衝動をどうにか押し殺した。組長ならこうもいかないだろう。

 組長を呼ぶよう指示を出すと、俺はソファに深く座りこんだ。このまま眠ってしまえたらどれほど楽か。


 でも俺は休んでいられない。

 素晴らしい日常を取り戻す責務がある。



 全ては組長のために。




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