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リビングデッドにキスをして  作者: 神川 宙
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懺悔

第60話

 家に帰った七絆を見て、零は口をぽかんと開いたまま固まった。しかし、次の瞬間には俯いたままの七絆の手を取り、その冷たさに驚愕した。

「ど、どうしたの!? 病院に行ってきたんじゃなかったっけ!? な、なんでそんなに血塗れに――いや、そんなことより手が冷たいよ! 僕、お風呂入れてくるね!」

 早く七絆の身体を温めた方がいいだろうと零はようやく操作方法を覚えた風呂を沸かそうと踵を返す。が、あまりにも七絆が動く気配がないので、一瞬だけ逡巡した。けれど、とりあえずは湯を沸かそうと風呂場まで走る。

 栓が閉まっているのを確認してからボタンを押せば場に不似合いな軽快な音が鳴った。玄関に戻ろうとして、そこで零の動きが一度止まる。

 零だって彼女に起こったことがわからないわけではない。何せ彼女からは同朋の血の匂いが強く香っているのだ。七絆が何かしら“ゾンビ”絡みの事件に巻き込まれたのは明白だった。

 けれど、七絆があそこまで傷ついている意味までは推し量りかねた。

 何かがあったことは推察できるが、何が起こったかはわからないのだ。それを聞いていいのか判断ができずに、零は迷った末にあの場を脱したと言っても過言ではない。彼女の傷口を広げるようなことはしたくなかった。

 だが、いつまでもここで迷っているわけにはいかない。きっと七絆は心が抜けたまま、あそこに立ち尽くしているのだから。隣にいてあげるべきだと思った。何よりも零がそうしたいと思った。

 零は湯船に映る自分の赤い瞳を見つめてから、喝を入れるかのように自身の両頬を叩いて頭を上げた。そのまま、まっすぐと玄関へと向かう。やはり、七絆はそこに立っていた。靴も脱がずに、下唇を噛みしめたまま。まるで誰も知らない人間の死を悼む棒切れの墓のように見えた。

 零は彼女の手を再び取ると、膝を折って俯く彼女の瞳へと姿をさらした。

「―――おかえりなさい、ナズナ。きみが話したいと思うまで、僕は何も聞かないよ。僕は不器用だから、きみの話したくないことを探ろうとしてより深く傷つけてしまうかもしれない。だから、今は何も求めないよ。でもね、ナズナ。これだけは言わせて。もしきみが僕のことで、僕に繋がる誰かのことで傷ついているのなら、いつかはそれを話して欲しいと思っている。それはナズナだけが抱えるものじゃなくて、僕も一緒に抱えるものだから」

 零はそう言って、七絆の薄い身体を抱きしめた。零が膝を折っているせいで少し不格好で、まるで零が七絆に縋りついているようにも見える。零の身体は冷たくとも、確かに生きている匂いがした。噎せ返るような、こびりついた血の匂いすらも先ほどまでとは違ったもののように感じる。

 呼吸をするたび、七絆の胸が膨らんで凹んで、生きている証拠を感じさせる。零はそれを瞳を閉じて感じていた。

 触れあっているところから、七絆は自身を確立させていく。零がナズナと呼ぶ少女に戻っていく。ずっと靄がかっていた思考が晴れていくようで、それとともに、名前も知らない少年への自責の念が襲ってくる。

 今にも零に吐きだしてしまいたかったけれど、それはきっと七絆自身が楽になりたいだけだった。自分を救うためだけに、彼女が取りたかった、逃げたかった、自己本位の選択だ。それを己の手で選ぶのは許せなかった。けれど、何かに縋ってもいたかった。相反する想いに押しつぶされて頭がひどく痛む。ぐるぐると視界が回る気さえする。

 痛いのだ、胸の奥が。

「もう少し」

 七絆は零の頭を己の胸の中に抱き込んだ。首元が触れあえば、彼の白い髪が首筋を擽る。

「もう少し、」

 頭の裏に回した腕に力を入れる。髪がくしゃりと指に絡みつく。二人の身体はぴったりとくっついたけれど、鼓動の音は一つしか聞こえない。

「うん、大丈夫。わかってるよ、ナズナ。もう少し、このままでいよう」

 零も七絆を抱き寄せれば、冷たくなっていた七絆の身体も体温を取り戻し始める。それが緩やかに零へと移動していき、零も体温を持ったようだった。

 それでも鼓動は一人分。心も一人分。

 ――もう少しだけ、『人間』としてのこの感情を。

 これはきっと、どれだけ手を伸ばしてもすり抜けて行ってしまうものだ。生命なんてそんなものだ。脆弱な肉体と、摩耗する精神と。そして、誰にも助けられない愚かさと。

 だからこそ、『人間』なのだろうと七絆は思う。今七絆が抱きしめているこの愛おしい白色も確かに『人間』なのだ。あの顔を失った少年もそうだった。死体を『人間』らしいと感じてしまう自身が滑稽だ。

 けれども、彼らは誰かへの愛以上に臨むものがないのだ。それは敬虔な神の徒のようにも見えた。

 七絆は目を閉じて、己の鼓動に耳を傾ける。このまま考えを巡らせても、どんどんとナズナが乖離していってしまいそうだ。

 脳裏にあの少年が最期に見せた笑顔が過ぎる。

 それでも、生きてここにいることに安堵している自分に反吐が出そうだった。後悔を感じている癖に、それ以上に再び零と触れ合えたことを悦ぶ自分を認めたくなかった。

 出たのは一粒。彼を思って流れた一筋の涙だけだ。



 結局、あの後も七絆は何も言えなかった。勇気がなくて言えなかったのだ。自身を恥じて言えなかった。あれほど零に自分の想いの丈を語っておいて、この顛末だ。きっと零は優しいから七絆を責めたりはしないだろう。けれど、その優しさこそが七絆の首を真綿で絞めていくようだった。

 二人が動き出したのは、湯が沸き上がったことを伝える音と零の「お風呂に入っておいで」という言葉だった。七絆は幼稚に首肯し、よたよたとおぼつかない足取りで風呂場へと向かう。

 鏡に映った自分を見れば、ひどい有様だった。頭から血を被ったせいで髪には血がこびりついて、触れればぱらぱらと赤茶色の粉を落とす。右目は真っ赤に充血していて、まるで異形の様だ。頬には一筋の赤い線が残っているだけで血は流れていない。その頬を撫でる左手の包帯は自分のものではない血で赤黒く染まっている。制服も血みどろだったが、七絆にはもうこれしか残されていないのだ。どうにか染み抜きでもするしかないと洗面台に脱ぎ捨てた。

 七絆にはまだ明日があるのだから。

 包帯も何もかも投げ捨てて、七絆は風呂場に入ると頭からシャワーを被った。冷水が身に沁みるようだった。こびりついていた血が徐々に流れ落ちて、薄赤色の液体が排水溝に流れていくのを七絆は遣る瀬無い想いとともに黙って見ていた。

 けれど、それを見ていたらあの光景を思い出してしまった。広がり続ける血だまりと首のない身体、半分破裂した頭部。生きていたのに死んだもの。

 七絆は耐え切れなくなったようにその場に蹲る。ぎゅっと太腿を抱え込んで、少しでもこの世界と触れ合う面積を減らそうと小さくなった。いつの間にかシャワーから落ちてくるのは湯に変わり、冷え切った七絆の身体を温めようと躍起になっている。

 身体は温かくなっているはずなのに、どうしてか身体の真ん中に空洞が開いたみたいに冷えていく。湯は七絆の身体を叩く前に冷たくなって、まるで雨のようだった。あの日の、雨みたいだった。

 あの日零に誓ったことは嘘ではない。零がその生に罰を求めているのだとしたら、七絆もそれを背負うと決めたのだ。あらゆる枝葉の先に傷ついた人がいて、その根元に零がいるのならば、七絆はその人たちを助けようと。そして、いつかはその根源ごと断とうと。

 それなのに、今まで傷ついてきた人々は全て七絆が呼び水となっている。七絆のせいで死んだ者も、七絆のせいで殺した者も。七絆の周りで傷つく者は七絆の存在が原因なのだ。

 あの日の誓いが脆く崩れてしまいそうだ。簡単に人とのつながりを持ってしまったから、無関係ではいられなくなってしまったから、こんなにも揺らいでいる。揺らいではいけない部分が揺らいでしまい、七絆としての自己確立も不安定だ。

 ――よくない、と思う。鏡に縋るように顔を上げた七絆はまるで病人のように青白い肌をしており、常に光を湛えていた瞳も濁ってしまっている。

 他人だった。彼も他人であることを求めていた。そこに踏み入ったのは七絆の方だ。強引にその手を取り、駆け出したのも七絆だった。繋がりを見出したのだってそうだ。

 勝手に関係を結び、勝手に傷ついて、傷つけて、挙句の果てにこのざまだ。こんなことならあの時横断歩道で彼を見かけて追いかけなければよかったと思う。そうしたら、彼は死ななかったかもしれない。

後悔は後から悔いるからこそ後悔なのだ。今更時は遡れない。だから、七絆はこの悔しさにも似た悲しみを切り捨てられもせず、誰にも縋れないまま虚像の自分を抱いている。

 こんなにも苦しいのなら、とっとと切り離してしまえばいいのに、と。彼は零ではないのだ。零は七絆にとって唯一無二だけれど、彼は結局のところ他人だ。触れ合った時間も多くはないし、名前も知らない。姿かたちでさえも今では朧気で、顔を思い出そうとしても地面に広がる血だまりの上の肉塊ばかりが思い出される。虚ろに転がった眼球の色すらもよく憶えていない。

 この感情を捨ててしまうのが一番だ。七絆にはきっとそれができる。それができるはずなのに、どうしてだろうか、したくないと思っている自分がいた。感情を切り離すという行為は『人間』には与えられない救いだからだろうか。『人間』である七絆にはそれができなくなってしまったのかもしれない。

 けれども、苦しい。苦しいのだ。

 息が詰まったかのように肺に広がる澱みが、左胸に開いた穴が広がり続けていて。

 ひとりでそこにおちていくみたいだった。


「ナズナ?」


 曇りガラスの向こうから不安そうな声が聞こえ、七絆は僅かに肩を揺らした。シャワーは相変わらずタイルを叩いてばかりいる。恐らくドアの向こうの彼には一定のリズムを刻むその音しか届いていないのだ。心配しているのだろう、長身の彼の身体が動く度に影がつられて揺れた。

「ナズナ? 大丈夫? 気分が悪くなったりしていない? さっきからずっと動きがないから……」

 控えめにガラス戸が叩かれて固い音を響かせる。七絆はシャワーを止めることも、零の言葉に応えることもできず、そのまま俯いた。湯で濡れた髪が頬に張り付いて煩わしい。

「ごめん、ナズナ。あとで怒られるから―――」

 数分の沈黙の後、焦れたように零がそう言った。次の瞬間、湯気が七絆の後方へと流れていき、外気の冷たい空気がその身体に触れた。今ならわかる。零が七絆の白い背を見ていることが。曇りガラスを嵌めたドア越しではなく、直接見ていることを。

 零は項垂れたままの七絆に駆け寄ることはなかった。体調面が優れないというわけではないとわかっていたからだ。彼は掛ける言葉を探しあぐねるように視線を揺らし、口を開いては閉じた。

 けれど、七絆の様子を見ていられなかったから、零は意を決して視線を上げる。

「どうしたの、って聞いた方がナズナは楽になるの?」

 その言葉に七絆の肩がぴくりと動いた。それは七絆にとって甘やかな響きを持った言葉だった。

 きっと話せば楽になるのだろう。優しい零のことだから、自分のことのように胸を痛めてくれるだろう。そして、七絆は悪くないのだと、そう慰めてくれるだろう。

 それでいいのだろうか、と七絆は思うのだ。七絆は零に優しくされて、今回の失敗を忘れたいだけだ。甘やかして、認めてもらって、自分は悪くなかったと言って欲しい。自分が生き残ったことに安堵したように、自分だけが赦されたいだけだから。

「……ナズナが悩んでるのはわかるよ。だからこそ、僕は言うけれど、僕は今日ナズナが経験したことを知りたいと思ってる。きみが僕に言ってくれたように、僕もまた、きみの罪を共に背負いたい。だってそれは、その想いは僕がいなければきっとナズナが感じなかったものだから。何よりも、僕がただきみに寄り添いたいんだ。きみが感じた想いを僕も感じたい。きみがした経験を僕も経験したい」

 いつの間にか止められたシャワーの下、細い肩を水滴が流れていく。響くのは水が垂れ落ちていく音だけで、七絆の黒髪に寄り添い落ちていった。

 じわりと、握りしめた手のひらの内に力が入るのを零は感じていた。今までいつだってこう言った時は七絆から話し始めてくれていたのだ。零には他人の慰め方がわからない。だから、これがあっているのかもわからない。


「……聞いて欲しいって言ったら、零は聞いてくれる?」

 静かな。

 静かな、声だった。

 水滴とともにぽつりと落ちたその声は、感情が抜け落ちてしまったような伽藍洞な音だった。


「もちろん。ナズナが聞いて欲しいと願うのなら、僕はどんなことでも、どれだけ長くても、きみの言葉を聞くよ。……そんなことしかできないけれど、それがきみのためになると信じてる」

 零はバスタオルを手に持って、一瞬だけ逡巡したものの、七絆に向かって一歩踏み出した。裸足の裏側で水が跳ねて音を立てる。

 その音は七絆があの少年元へと踏み出した音と一緒だった。違うのは命が失われたか、そうでないかだ。それはどこまでも似ているようで、決定的な違いを七絆に突きつける。ただの水なはずなのに、赤色に見えてしまう。噎せ返るような鉄錆の臭いを探してしまう。

「今日ね、零と同じ存在の子が死んだよ」

「うん」

「前に私がセーターなくしたって言ってた日があったでしょ? あれ、なくしたんじゃないの。貸してあげたんだ。服が汚れてしまったから、洗ってあげて、でも乾かなくて。きっと寒いだろうと思って、貸したんだ」

「うん」

「その子にはそれっきりじゃなくて、一度だけ顕在型のゾンビに襲われた時、守ってもらったの。自分は大丈夫だからって、私だけ車に押し込んで」

「うん」

「―――私、初めて会った時から、この子、零と一緒なんじゃないかなって思ってた」

「うん」

「明確にこうだからって、理由はないの。でも、ちょっとした仕草……例えば、熱い缶を握りしめていたのを見たときとか、私を引っ張って逃げるときの力の強さとか。ああ、そうなのかなって、なんとなく」

「うん」

「だから、私、彼が“そう”なんだってわかった瞬間、すぐに助けなきゃって思った。考えるよりも前にその手を取って走り出してた。絶対に助ける、助けられるって、助けなきゃって」

「うん」

「……ッ、か、家族がいたって、言ってたんだ。かぞくのためになりたいって言っていたんだ。すごく、幸せそうだった。辛い境遇にあったはずなのに、私なんかよりよっぽど家族を想ってたの」

「うん」

「……なんでしんじゃうかなぁ」

「――うん」

 言葉にしてみれば、あまりにも呆気なかった。ほんの一呼吸の内にあの名も知らぬ少年の生命を終わらせてしまえるのだ。

 七絆の声は滲んでいた。あの少年の最期の言葉が、彼のなんてことない一言が耳にこびりついて離れないのだ。心底不思議そうに、けれど悲しみが含まれた彼女の声に零は静かに頷くことしかできない。

「私、わたし……。零しか大切じゃないんだよ、本当だよ。だから、だからこんなの痛くないんだ。痛くないって思わなきゃ。この想いは、零の為だけにあればいいんだ」

 七絆は背中を丸めて、まるで自分に言い聞かせるかのように耳を塞いだ。外界を拒絶するように丸くなったその姿は殻のようだ。

 正しく、それは七絆にとっての殻だった。中身がどれだけ空虚であっても、虚勢を張っていなければいけない。中身が伴っているように見せなければならないのだ。この中に詰まっているものは零への愛だと、信じ込むためにも。

 そんな彼女の背を零は見ていた。痛々しいまでのその背中を見て、零は視線を揺らす。けれど、何か決意したかのようにまっすぐと彼女を見つめると、水音を立てて一歩踏み出した。


「ナズナ」

 そして、そっと零の手が七絆の背に触れた。その冷たさに赦されたような気がして、七絆はぎゅっと目を瞑った。この想いを肯定して欲しかった。この痛みが間違いだと、彼に否定して欲しかった。

「その胸の穴を、僕への感情で埋めるのは違うよ」

 けれど、零は溶けそうなほどの甘さを赦してはくれなかった。

 望みとは真逆の言葉に七絆は出しかけた言葉を呑み込んだ。耳を塞いでいた両腕で頭を抱え込んで、丸まったつま先をぼんやりと眺めた。感情も思考も霧散して、掻き混ぜられて、空っぽでいたい。

 しかし、それを上回る自己嫌悪に七絆は口を覆った。零に嫌われてはいないだろうか。呆れられてはいないだろうか。見捨てられないだろうか。ぐるぐるとそんな言葉が頭を回る。まるで乱気流に乗ったかのように情緒が落ち着かない。

 先ほどまで少年の死を悼んでいたはずなのに、今は相変わらず自分のことしか考えられない自分に嫌気が差した。

 もうこれ以上何も聞きたくない。

 もうこれ以上何も見たくない。

 もうこれ以上何にも触れたくない。

 それなのに。

 それなのに、ぎゅっと後ろから零が七絆を抱きしめた。わずかに冷気を伴った手が冷たくて気持ちがいい。少し痛いくらいの力が心地よい。

「痛くていいんだ。きみの世界を僕ひとりで埋めなくていいんだよ。僕だけが大切じゃなくていいんだ。その痛みはナズナが人間であることの証明だから。きみが、とても優しい人だから」

 優しいヒト。いつかの日も言われた言葉だ。その時から七絆はずっと否定し続けている。だって、本当に優しいヒトであるならば、こんな独りよがりな想いを抱いてぶくぶくと思考の海に沈んでいたりはしない。

 あの少年の死を想って、悼んで、痛んで、その死に寄り添おうとするはずだ。七絆のように自分のことばかり考えていたりはしないのだ。七絆は零さえいてくれればそれでいい、そんなことを思う人間だった。

 優しくなんて、なりたくない。

 心のリソースを知らぬ誰かに割くようになんてなりたくない。

 それはいつか七絆にとって大きな障害となるはずだから。

「ナズナはやさしいよ」

 そんな想いを見透かしたかのように、零は言葉を重ねた。

「人の死を直視する機会なんてそうはない。特に目の前で誰か、知り合いを殺されることなんてもっとない。だからね、ナズナ。きみはきっと今、少しだけ混乱しているんだ。思考が感情に追いついていないだけで、その感情に理由をつけられていないだけだよ。大丈夫、きみはきちんとその子を想えているから。だから、今は泣いていいんだ。涙を流すことは決して弱さじゃない。泣いたって、いいんだよ」

 他者から自覚させられてしまえば、崩壊はあっという間だった。目の奥が熱を持って、鼻がつんと痛む。唇から湿った吐息が吐き出されれば、気がついた時には頬を水が伝っていた。

 七絆がしゃくりあげる度に、彼女の身体は大きく上下する。けれど、鼓動の音は一定だった。確かに、七絆は生きている。零たちとは違う命の音がする。


「――わたし、なにもまもれなかった」


 今日、七絆の前でひとつ命が失われた。その場に立っていたのは、何もできない無力な嘉翅七絆という存在だった。それを直視させられて、なにも守れないのだということに気がついて、その事実を認めるのが恐い。

零を守るという意志が、義務が、決意が揺らいでしまいそうだった。

「……ナズナは今日、その子の命を助けられなかった。それはきっときみの中で事実として確立しているんだろう。でもね、誰も、何も守れなかったわけじゃないよ。ナズナは今日まで僕のことをずっと守ってくれている。今日だってきみの命と、彼の誇りを守れたのだから。胸を張って、とは僕からは言えない。僕はその子の死の発端であるけれど、その現場に立ち会えなかったから、ナズナがどれだけの痛みと恐怖を感じたかを理解できるだなんて言えないから」

 実際に経験したことのないことに『理解できる』だなんて、それほど空虚な言葉もないだろう。零は七絆のその心の内はわからない。

 けれど、そんな零にだってできることはある。

「だから、僕にもその胸の穴を埋める手伝いをさせてくれ」

 冷たくなった七絆の手のひらに自身の手のひらを重ねる。触れた瞬間、彼女の手がびくりと動いたが、すぐに大人しく収まった。

「確かに今の僕らは誰も救えないのかもしれない。きみにはそれを為し得るだけの力がなくて、僕にはそれを実行するだけの勇気がない。でもね、ナズナの問題は僕の問題で、二人揃ってようやく前に歩き出せるんだ。でも、忘れないで。ナズナにはたくさんの人を救うことができることを。きみができると信じている限り、諦めない限りそれは起こせるはずだ。一時の感情に振り回されて、そのことを忘れてしまわないで。……元はと言えば、彼らは僕のせいで生まれたものだ。その死についてナズナが誰かから責められることはあってはならない。きみは無視してもいい、消費されてもいい命の前に、守るために立ったんだ。だから、ナズナも自分を責めないであげて」

 優しい手のひらが七絆の背を撫でる。何度も、何度も。七絆の傷を労わるように、滑っていく。

 心の穴が埋まったとは言えない。自分を赦そうとは到底思えない。

 だからと言って、泣きじゃくって下を向いているだけではいけない。そんなことをして澱みに足を取られて、どこにも行けないことだけは絶対に避けなければならないのだ。それでは、七絆がどうして零とともに生きることを決めたのかがわからなくなってしまうから。

 だったら、七絆はいつまでも俯いているわけにはいかない。自分の足元にどれほどの血だまりが広がったとして、七絆たちはそこを歩き続けなければいけないのだ。その中には今日の少年もいるだろうし、これから先知っている人間の屍が転がることもあるかもしれない。それは道が見えなくなるほどのものでもあるかもしれない。少しでも少なければいいと思う。けれど、それは七絆の中の希望的観測でしかない。

 それでも、いつか光が射す方向へ。その光が星の煌めきであっても、月の薄明かりであったとしても関係ない。七絆と零とで、いつか彼らを取り巻く存在を救うその日までは立ち止まることも、逃げ出すことも許されない。きっと辛くて、泣きたくて、見ていられないほど厳しい道のりだろう。立ち止まることは甘美で、逃げ出すことは魅力的かもしれない。

 だからこそ、愚直なまでに前を向かなければいけない。

 何もできずに死んでいくのは嫌だったから。殺されるのをただ黙って見ているのは嫌だったから。

「――零、私、頑張るよ」

「……うん。でも、この先も僕にきみの痛みを分けて。ひとりで無茶しないで、傷つこうとしないで。今日の痛みはきっと忘れられるものではないし、忘れてだなんて口が裂けたって言わない。できれば、その傷はきみの夢の糧として忘れないで。僕も、憶えているから」

 零はもう一度七絆を抱きしめると、その背から手を離して立ち上がる。すっかり浴室は外気で冷え切ってしまっていた。これでは七絆が風邪をひいてしまうだろうからと、零は曇りガラスの戸を潜る。

 きっと、七絆はもう大丈夫だから。

「ねぇ、零」

 背後からかけられた声に零が振り返れば、青白い背中がこちらを見ていた。もう項垂れていない頭はまっすぐ向いている。

「もし、……もし仮に私と零が危険な状態になっても零は私を助けないで。守らないで。庇わないで。――私に、きみを守らせて」

 零は何も言わなかった。曖昧に口元を緩ませて、眉を下げるだけだ。けれど、七絆はそれ以上何も言わなかった。

 零は頷くことも何もせずにその場から立ち去った。それでいいと、七絆は思う。これは約束なんかじゃない、ただの一方的な宣誓だ。零は間違いなくそんな状況に陥れば、七絆の安全をまず考えるだろう。そんな時、その行動に甘えないようにするための自戒だ。

 己だけが、己だけを守れるのだと思って生きていく。運動もできない、特別な力もない七絆にできることがあるとすればそれくらいだった。

 冬の空気で冷え切った身体にはなかなか体温が戻らない。どんどんと冷えて、冷たくなっていくだけだ。けれど、これだけでいい。これがいい。

 真っ赤な瞳の獣になるには、これでいい。

4か月空いていたという驚きの空白になってしまいましたが、一応またぽちぽち書き始める予定です。スランプというより、やりたいことがありすぎて爆発してました。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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