過ぎ去ってしまえ
第59話
今まで失敗という失敗をしたことがない、機械みたいな人間だったと自分で思う。
それを隠すように人間のお手本のような感情を見せて、努めて目立たないようにしていた。だからと言って能力を鈍らせるようなこともしなかった。運動は初めから苦手だと知っていたから、恥でも失敗でもない。要はデメリットをどのようにイーブンにするかということが問題なのだから。
だから、この胸に泥のように停留する気持ちは何なのだろうか。愛してもいない者に、動かされる感情などあっていいのだろうか。
けれど、胸が痛むのだ。息が詰まって、上手く呼吸ができなくなる。胃の奥底から熱いものがせり上がってくるくせに、吐き気は訪れない。その熱いものはそのまま脳を穿ち、目の奥を燃え上がらせた。それがひどく苦しい。
早く、早く。
こんな想い、過ぎ去ってしまえ。
どれほど歩いたのだろうか。先ほどまで明るかった空は夕焼け色の光を伸ばして、徐々に夜の帳を降ろそうとしている。深く入りすぎたのだろう、辺りは相変わらず木々に囲まれたままだった。平坦な道はいつしかなだらかな坂道になっているところを見ると、山に迷い込んだのかもしれない。全くもってここがどこだかわからない。カバンの中の端末を使えばすぐにでもわかるだろうが、七絆がその選択肢を取ることはなかった。その思考にすら辿りつけない。
明確な目的もなく、ただ足が動いている。心と体が乖離したまま、勝手に体が動いているだけだった。赤く焼け付く光は七絆をも赤く染めていく。自分の手を見れば、爪先には赤黒く乾いた血がこびりついていた。他人の死に触れた、手のひらだった。
『俺にはどうにもきみがどこか遠くの、誰かを見ていたような気がしたよ』
最後に叴人に懸けられた言葉がぐるぐると頭を回る。何をおかしなことを言っているんだろうかと笑い飛ばしたくて、乾いた喉からは音も何も出なかった。口の端すら持ち上がりそうにない。
あの死体を通して一体誰を見るというのだろうか。あれは名前も知らない少年の躯に変わりないのだから。
そうだ。あんな光景に見覚えなんてあるはずがない。もしもそこに何かを見出すとするならば、それは七絆と零の最悪の結末だろう。それを回避するために七絆は奔走しているのだ。
だから、この胸に巣食う淀んだ不安と寂寞感だって感じなくてもいいのだ。零が無事であれば、七絆はそれだけでいい。そのはずなのに、七絆はぽつりとひとり暗闇の中立ち竦んでいる。歩けなくなって、蹲ってもその冷たい暗闇の手からは逃げられそうにない。
面白いものだ。“ゾンビ”というものは死に難いが故、自己犠牲が過ぎる傾向がある。少しばかり話したことのある少年だって、七絆を庇って死んだのだ。きっとあのような場面になったら零は迷わず同じことをするだろう。残された人間の心も知らず、いっそ誇らしいほど真っ直ぐに七絆の前に立って。
そして、短い七絆の手はどこにも届かず、高く舞い上がるのを見るだけなのだ。
あの少年の最期の言葉は至って平凡なものだった。ともすれば、道すがら別れるかのようなごくごく普通のものだった。この先永遠に履行されない約束への謝罪は七絆を苛んでいる。結局七絆が取った行動は自己満足ですらなかった。自己満足すらもできないものだった。四代に言われた偽善ですらもなかったのだろう。何にもできなかった七絆だから。
その事実に唇を強く噛んだ。そうだ、結局彼女は“人間”で、彼は“ゾンビ”だった。
たったそれだけの話だ。七絆は“人間”であるから生かされ、少年は“ゾンビ”だったから殺された。
当たり前のように庇護下にいる七絆は何も語れない。そもそも立っている場所が天と地ほど違ったのだから。七絆の行動は貴族が貧乏人に食べ物をやる、そんなものだ。そのせいで彼は自身に相応しくない舞台に引っ張り出されて、脳漿の入り混じった赤い花を咲かせた。
これを七絆のせいじゃないと言えるだろうか。言えるわけがない。何よりも七絆自身が言いたくない。自分を責めて、責めて、この罪悪感を払拭してしまいたかった。けれども、己を責めれば責めるほど、辛い思いが溢れて止まらないのだ。いっそ笑ってしまえるくらいの悪循環から抜け出せそうになかった。そこまで七絆は器用でもなければ、薄情でもない、本当にただの人間だった。
未だに死の匂いが残っているようで、七絆は嘔吐くが胃の中身はからっぽだ。僅かばかりの胃液がただただ喉を焼くだけだった。
零が待っているのだから、早く帰らなければと心では思うのに、足は一歩も動きそうにない。いつの間にか七絆は蹲って夜を待っていた。
このまま暗闇に溶けてしまえば、今日のことも何もかもどうでもいいと思えるだろうから。
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なんだかとてもお久しぶりな気がしますね。えっ? そうでもない? 私の顔は見たくなかった? よよよ……私とても傷ついております。
顔が笑っている? 元からこんな顔でございますとも。いえ……ええ、ええ、正直に言いますと、不肖この私、お久しぶりに貴女様のお顔を拝見でき、お恥ずかしながら心があちらこちらへぴょんぴょんと。宛らアリスを誘う白兎でしょうか。兎には見えない? こんな真っ赤な目をしているというのに? はははっ、手厳しい。
……いけませんね。思いの外、私浮かれているみたいです。貴女の目覚めを誰よりも待っておりましたから。同士はほとんどいなくなりましたよ。今いるのは希望という幻想に釣られた能無し共だけ。ほんの一握り、使える人間はいますが、それぞれ他の者を心に宿しているようですから。統率はなかなか難しいですね。どちらかと言えば、私めは束縛されたいタイプなので。そんな顔をしないでくださいませ。興奮してしまいます。
えっ、まだ起きていない? 今言う? ……本当に貴女は人の感情に水を差すのが上手であられますね。ちょっと私、愕然としてしまいます。言葉が出ませんね、ええ、ええ。怒りも湧きませんよ。
そんなに笑わないでもらえます? えっ? お、わ、私も笑っている? わ、笑ってなどおりませんよ! こう見えて私結構怒って―――いえ、ふふっ、そうでもなかったようです。どうしてでしょうか。あれほど常に怒りを渦巻かせていたというのに、貴女といると全部どうでもよくなってしまいます。貴女に会えたら言ってやりたいことが山のようにあったのに。これじゃあ私ばかりが不利益を被っています。言いたいことくらい、言いたいのに。
やはり、私が貴女を愛しているからでしょうか。
…………そんなこと、言われなくでもわかっていますよ。いや、いつも言われすぎて逆に傷つかなくなってきました。別に私は貴女に愛されたいわけではありませんから。私は私の愛を貴女に一方的に捧げたいだけなんです。貴女はそこにいて下さるだけでいいんです。いてくれさえいれば、私はどこにも迷わずに貴女の元まで行ける。どんな形であっても、人間じゃなくたって、犬でも花でも虫であっても、貴女の魂さえあれば、いいんです。
台詞回しが役者くさいって……好きでしょう? そういうの。広がる暗闇に石を投げ込んで星と呼ぶほどのロマンチストですからね、貴女は。そんなことしたことない? 嘘だぁ。
んんっ、ごほん。申し訳ございません。少しばかり素が出てしまいました。逆に嘘っぽい? 私、こう見えても純情で真っ直ぐ誠実な青年でありますよ。星に届かないけれど、月には届きそうなほどの時間を、ただ一人のために費やせるほど。そんなに経っていない? 気持ちの問題ですかね。それほどに恋焦がれていたとでも思っていただければ。
ええ、ええ、知っていますとも。この感情が恋などという甘ったるい、吐き気を催すほどのものではないということは。そんなに嫌そうな顔をしないでくださいませ。それでも愛していることには変わりないのですから。
貴女はまた眠るのでしょうね。今も微睡みの淵を揺蕩っているのでしょう。ええ、ええ、でも貴女が確かに存在するとわかりましたので、恐れはありませんとも。これまでのような光差さぬ森を歩むような心地はしません。
これまで以上に、貴女の“器”の警護を万全にいたしましょう。どうしてかその娘は暴力の中心にいることが多いので、少々骨が折れますが。まったく、どうしてこうも厄介ごとを持ち込めるのか不思議でなりません。貴女の血がそうさせるのでしょうかね。それとも生来のものでしょうか。いえ、その娘のルーツは知っておりますが、その先の情報を入手しあぐねておりまして。人為的に消されたか、そもそも存在しなかったかは謎ですが……そのような顔をなさらないでください。興奮してしまいます。
ああっ! 椅子を蹴るのはやめてくださいませっ! そのような加虐的な行為をされると、下半身が―――ああっ! おやめくださいませっ! いえ、もっと! その視線、とても久しぶりですね! 昂ってしまいますっ!
…………ねむいのですか? ねてしまわれるのですか? ふふっ、そんな顔をしているとまるで子どものようですね。えっ? 私の方が子どもみたいな顔をしている? ……ええ、ええ、貴女がそう言うのならそうなのでしょう。私は、貴女の子どもですから。
それはもう。母を慕う子のように、貴女を愛しています。
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柔らかな地面が僅かに揺れている。
七絆はその振動にゆっくりと瞼を持ち上げる。億劫そうに頭を持ち上げ、視線をずらせば窓の外の光景は次から次へと置き去りにされていた。それを覆う空は真っ黒で、一等星だけが悲しく光り輝いている。まだ鮮明にならない思考ではあったが、どうやらここが車内だということに気がついた。
「おや、お目覚めですか」
平素より落ち着いた声ではあるが、七絆はこの声を知っている。ルームミラーを見れば、そこにはやはり口の端を吊り上げたいつもの吊木胡蝶がいた。七絆は声を上げる気力もなく、僅かばかり口を緩めただけに留まる。空気が抜けた風船のように息だけが漏れる。
車内は暖かいが、七絆の身体は未だ体の芯が凍っているように寒い。長く寒空の下にいたからだろうか、それともこの胸に広がる感情のせいだろうか。血塗れの帽子を握りしめている指も固まってしまったかのように動かない。動かないのか、動かないと思っているだけなのかはわからないけれど、その帽子の有様がありありと七絆の胸中を指し示していた。
「……相当参っていらっしゃいますね、クイーン」
七絆を気遣ってなのか、トーンを落とした声で胡蝶が話しかけてくるが、七絆はそちらに視線すら向けずに俯いていた。ミラーから胡蝶の黒い瞳がこちらを向いているは知っている。けれども、七絆は今誰かと話せるような胸中ではなかった。
「あの少年が死んだのがクイーンのせいだとでもお考えで?」
その言葉にわかりやすく七絆の薄っぺらな肩が跳ねる。それを見て、胡蝶は口の端をゆるりと持ち上げた。
「ふふふっ、もしもそうお考えなのであれば、それはとんだ間違いでございますよ。ええ、ええ、天と地がひっくり返るほど」
「―――えっ?」
「彼は確かに守ったのですよ、彼の守りたいものを。いいえ、いいえ、言い方が悪うございましたね。彼は貴女様に希望を視たのでしょう。あの少年の意思が継がれることを信じて、彼は貴女様の盾となった。結果として死したとしても、その貴き志がいつかは彼の“家族”を、延いてはこの世界を救うと。その次の次まで繋がると考えたのでしょう」
「世界を救うって、目の前の少年も助けられなかったっていうのに?」
「そもそも『助ける』という考え方をおやめなさい。それは力のある者にしか許されない傲慢ですよ。貴女様が『助けられなかった』のは必然、それだけの力が貴女様になかったからに他ならないのです」
胡蝶に諭すようにそう言われて、七絆は口を噤んだ。言い返す言葉が見当たらなかったのだ。正論は正しさ故、深く深く臓腑に突き立てられる。今も例外でなく、七絆は心から溢れだした血で呼吸がしづらくなったように感じた。
「傷ついている場合ではありませんよ、クイーン。今度はオフィーリアのように水底にでも揺蕩いましょうか? そうではない、そうではないでしょう、貴女様は。後悔などと言う足枷で歩みを途切れさせている場合ではないのです。クイーン、ねぇ、クイーン。私はどこぞの御伽噺のように勇者が暴力的解決で起こす平和より、貴女様が夢見る互いに手を取りあえる、共存の後の平和こそが尊ばれるべきものだと考えます」
「それが私にできるって、胡蝶さんは言いたいんですか」
「ふふふっ、面白いことをおっしゃる。クイーン、貴女には世界を救う権利があるのです。いえ、言い直しましょう。貴女にはその義務がある」
ルームミラー越しに視線がかち合ってしまえば、その強い眼差しを受けてしまったら、七絆は弱音なんて吐けるわけがなかった。
あれは信じている人間の目だ。会ったばかりの少女に何をそんなに捧げるかはわからないけれど、その瞳を七絆はずっと前から知っていた。
思わず手の中の帽子をぎゅっと握り込めば、手のひらに血の巡りを感じる。無機物にも体温があるかのように手の中が熱くなった。それがなんだか―――あの少年が背を押してくれた気がして、七絆は目の奥から溢れだしそうな熱を必死で押し込める。それでも抑えきれなくて、どうしようもないそれが頬を伝っていく。
胡蝶はそれを見て、少しだけ目を見開いたが、すぐに視線を前へと移した。きっと見ないようにしていてくれたのだろう。僅かに細められた瞳の感情は読めないけれど。
「今回の件は仕方のなかったことだったのだろうと、私めは思います。しかし、ええ、しかし、憶えておいてくださいませ、クイーン。あの少年を殺したのは確かに『タカ』ですが、元々の発端は善良なる一般市民の通報からです」
緩やかに車はスピードを落としていく。窓の外の景色はいつのまにか七絆の家の近くまで来ていた。彼女の家を見つけると、その少し手前で車は止まる。
運転席から降りた胡蝶が後部座席のドアを開け、七絆に向かって手を差し伸べてきたが、七絆はそれを押しやって自らの足で地面に降り立った。血塗れの制服のまま住宅街に立つ彼女は異様に映るが、そんなことを気にする人間はここにはいない。
胡蝶は恭しく一礼すると「それでは御前を失礼いたします」と車へと戻っていった。七絆は何も答えず、再びエンジンをかけた車を他人事のように眺めている。そうしていれば運転席の窓が開いて、ちらりとこちらを窺う黒い瞳が車内のランプを反射して赤く光った。そして、胡蝶が七絆を見上げて口を開いた。
「最終的に貴女様の敵は、人間なのですよ」
そうとだけ告げて胡蝶は窓を閉めることもなく車を発進させる。見る見るうちにそれは小さくなり、ついには見えなくなった。
置き去りにされた気持ちは未だに整理がつきそうにない。
けれど、どうしようもなく、零の隣に行きたかった。今すぐにでも自己を確立してくれる彼の傍で泡沫の夢に微睡んでしまいたいのだ。それは人間の特権だから。
一カ月近く空いた気がします。可愛い四足歩行の家族が増えたので、戯れていました。
完全にストックを失ったので、また亀更新になります。気長に待っていただければ。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




