三度目ましては左様なら
第56話。
泆嶋流の人生は幸せと言い難いものだった。
流は元々人間だ。人間だった時はそれなりに幸せで、当たり障りのない生活を送っていたと思う。高給取りではないけれど、それなりに裕福で優しい両親。妹もいた気がする。好きな女の子だっていたはずだ。けれど、それのどれも記憶があやふやで、顔すらも思い出せない。それは流が“ゾンビ”になってしまったからか、それとも流にとってその程度の存在だったのかはわからないけれど。
けれど、いつも何かに劣等感を抱いていたのは憶えている。それが流の性格の根幹を司るものだからだろうか。勉強もスポーツもどれも中途半端で、自分より上の人間を見ては妬ましくて、でもそれを認めたくなくて逃げ続けていた。そんな人間だった。
流は自分が“ゾンビ”になったその瞬間を思い出せない。ただ、気がついたら『タカ』に銃口を向けられていて、その事実とともに自身が“そう”なったのだと理解をした。その時は命からがら逃げ果せた。けれども、そんな現実に反して流は自身が“ゾンビ”と呼ばれるものになったことを理解はしていたが、納得はしていなかった。鼓動の音も聞かなかったし、確認のための自傷行為もしなかった。
だから、平気な顔をして家に帰って、家族に罵声を浴びせられる。父親は包丁を振り回して取り乱し、母親と妹は甲高い悲鳴を上げていた。そこからも逃げ出してなお、流は自分が“ゾンビ”であることを認めなかった。
夜の暗闇を歩いて、まるで自分が化け物にでもなったかのような気分だった。ちゃんと意識は泆嶋流としてあるのに、皆はまるでそこらで暴れ回る獣のように流を扱うのだ。それでも、流は己が“ゾンビ”であることを信じなかった。
あの日までは。
流が自分が“ゾンビ”であると認めたのは、ある日の深夜のことだった。流は人間としての癖が抜けなくて、必要もないのに毎日食事を取っている。
その日も食材の調達にコンビニにいた。流は盗みが上手い。深夜のコンビニは店員が少なく、そのほとんどがアルバイトだ。彼らの死角を狙うために、流は週刊誌を流し読みしながら店員の立ち位置を目で追っていた。
そんな時にそれは起こった。
軽快なチャイム音とともに足早に入ってきたフードを深々と被った男が、レジ近くにやる気なさげに立っていた店員を突如として刺したのだ。それも一度ならず、馬乗りになって何度も何度も。一瞬で出来上がった血だまりを少年は青褪めたまま見ていた。
店員がピクリとも動かなくなってから、ずるりと引き抜かれたナイフは真っ赤だった。今でも流の記憶に鮮烈に焼き付いている。その男はそのままレジの金でも狙えばいいものの、手当たり次第に近くにいた人を斬りつけ始めた。幸いだったのは深夜帯であって、人がそんなにいなかったことだろうか。客たちは悲鳴を上げて次々と逃げ出していく。
流も逃げ出そうとした客の一人だった。けれども、彼は店を出る一歩手前で振り向いてしまった。―――振り向かなければ、優しい世界で生きて行けたのに。
流の振り返った先で、床に溢れる血で滑ったのだろう、女性がひとり倒れていた。それを見逃す殺人鬼ではなく、すぐさま女性に向かってナイフを振り上げる。
今思えば後悔の塊でしかない。やめればいいものの、流はその女性を庇ったのだ。
“ゾンビ”になって否定され続けてきた彼は、心のどこかでこの英雄的な自己犠牲が賞賛されればいいと思った。自分が死んでも、ちゃんと自分は『人間』として、人を守って死んだのだと言われればそれだけでよかった。
すっかり自己嫌悪に陥っていた流は自分が死んでもいいと思っていたから。
誰かに認めてもらえれば、『人間』であったと記憶してもらえるだけでよかったのだ。
身体の内に何かが突き刺さる感触だけがあった。授業で習った通り、痛みは全く感じなかった。あるのはひやりとした固いものが肉を食い破る感覚だけ。
確かに殺人鬼のナイフは流の腹に深々と刺さり、血だまりに新たな血を流した。けれど、覚悟していた痛みという刺激を感じなかった故に少年は平然と立ちあがれてしまった。
これは彼が“ゾンビ”になってから初めての怪我だったのだ。
有疵性無死症候群の患者が“ゾンビ”と呼ばれ始めた頃から、“ゾンビ”に痛覚がないことは知れ渡っている。一般人なら立ち上がるのはおろか、死んでいてもおかしくない傷なのに流はまるで怪我などしていないかのようだった。
それを見た彼の背後の女性は唇を震わせながら後退ると、次の瞬間には悲鳴を上げて逃げてしまう。ナイフを持った殺人鬼すら呆然と立ち尽くす流を見て恐怖に腰を抜かしている。
少年にはわけがわからなかった。
どうして。
どうして、俺が守ったのに。
それなのに、どうして―――
みんなそんなに化け物を見るみたいに俺を見るの。
流はそんな世界が、そんな自分が恐くなって、そこから逃げ出した。泣きながら、臓物を半分垂れ流して、走った。
恐くて恐くて恐くて恐くて、堪らなかった。自分が“ゾンビ”であるという、『人間』じゃない怪物に成り果てた事実を信じたくなかったのに。周りの反応が正しいものだと信じたくなかったのに。それなのに、流は死ねなかった。
逃げて逃げて逃げて逃げて、その先で血を失いすぎたからか、流は汚い裏路地で倒れ込みそうになった。けれど、彼の前には先客がいて、その背中に思い切り頭突きをする。そのままずるずるとその人物の足元に蹲れば、“ゾンビ”になったからか霞む視界でも暗い路地の様子が見えてしまった。
そこには多くの『人間』の死体があった。思わず喉から引き攣ったような音が出てしまう。服装からして『タカ』の人間だろう。恐らく、いやきっと流が先ほどぶつかった人物の犯行に違いない。路地裏には鼻が馬鹿になりそうなくらい、濃い血の匂いが充満していた。まだ広がっている血だまりが、目の前で折り重なって倒れている人間が先ほどまで熱を持っていたことを示している。
嘔吐きそうになるが、喉がひくりと痙攣するだけで声すらも出ない。恐怖と失血で動けなくなった流は目を瞑って、刺された箇所を抑えながら己の行く末を祈った。
それを知ってか知らずか、目の前の殺人犯は流のパーカーの首元を引っ掴むと、己の目線まで持ち上げてまじまじと彼を見る。そして、腹部の傷を見ると僅かにその青みがかった瞳を見開く。
『お前、“患者”のひとりじゃねぇですか』
『はっ? かんじゃ?』
自身を形容する聞きなれない言葉に流は鸚鵡返しのように男の言葉を返せば、男は『ええ』と頷いた。
『痛みは感じてねぇんじゃないですか。そもそもこんなとこまで走ってこれるとは思えねぇですし。…………ああ、合点がいった。この『タカ』ども、お前のところに向かってたやつらですね。偶々鉢合わせちまったんで、めんどくさくて殺しちまいましたけど』
あまりの発言の過激さと己が辿るべき命運を知ってしまい、流は開いた口が塞がらなかった。この男が『タカ』を殺してくれなければ、流は『タカ』に殺されていたのだ。男はひとりでうむうむと納得したように頷いて、
なぜか流のことを肩に担ぎあげた。
『はっ? えっ?』
『一応会っちまったからには見放すってのはなかなか寝覚めがわりぃもんですからね。それにここで無駄に『タカ』と会い続けるのはごめんですから。少しばかり走りますが、舌を噛まねぇように黙っていやがってくださいね』
戸惑う流を他所に男は軽くビルひとつ分を跳躍した。男の忠告がなければ今頃流の舌は半分になっていただろう。少しばかり走るという男の言葉は嘘ではないようで、男は息ひとつ乱していなかったが、法定速度を超えた車以上のスピードは出ていたと流は後々思った。
そのままどこかの森に辿りつくと、流を肩に担いだまま男は地面を弄り始めた。流は失血と運搬方法の酷さでほとんど意識がなかったので、この辺りのことはよく憶えていない。
気がついたら、綺麗なベッドの上に寝かせられていて、帽子を被った無精ひげを生やした男がにこにこと笑っていた。そして、その男は言ったのだ。
『ようこそ、“穴熊”へ』
「どうしたら夢人兄ちゃんみたいに強くなれんだ?」
「どうしやがりました、唐突に」
夢人と手合わせという名のチャンバラを終えて、流は無機質な天井を見ながらそう言った。肩を上下させながら息を整える流を他所に、夢人はペットボトルを傾ける。その額には汗のひとつも見当たらない。自身の力不足がまざまざと見せつけられるようであり、それでいて夢人への憧憬も揺らがないので彼は不思議な魅力のある人だった。
そんなことを思いながら、流は夢人から受け取ったペットボトルのキャップを開けた。
「いや、こうやって手合わせしてもらっても掠りもしないし、本当に俺、強くなってるのかなって思って」
「別にお前が強くなる必要はねぇでしょう。ここには僕がいますし、ああ見えて息吹さんも銃の腕前はそれなりですし。言わずもがな、美杜さんも戦えますからね。それに時哉も。数えてみると結構な戦闘員がいやがりますね。まぁ、このアジトがバレる確率はかなり低いとは思いますけど。やれることをやれる奴がやるってのがモットーですし」
「……俺だってみんなのこと守れるくらい強くなりたい。身体だって小さいし、力だってみんなほど強くない。だから、ちょっとでも強くなって、みんなを―――」
「馬鹿言ってんじゃねぇですよ。僕たちは守られるほど弱っちくねぇですし、お前は守れるほど強くねぇのです。僕とお前たちとでは授けられた権能がちげぇんですから。身の丈以上のことをしようと思うと、この世じゃあっという間におっちんじまいますよ」
夢人は呆れたようにそう言うと、流の頭を小突いて部屋から出て行ってしまう。流は不貞腐れたようにその後ろ姿を見送った。
“ゾンビ”になると身体強化も為されるという話だが、流はそれを疑っている。夢人はあり得ないほどの怪力だが、流は多少一般人より足が速くて体力がある程度のものだ。それも夢人より遅い。
その話を息吹にすれば、彼は快活に笑って流の背中を強く叩いた。思いの外の強さに流は噎せてしまう。
『そりゃあ、流、夢人には叶いっこないさ。俺も勝てないからね! 夢人は俺たち“患者”の中でもとびっきりの良個体だ。何て言ったってここに来る前かでは『鷹狩』の異名であのいけ好かない『タカ』どもに恐れられてたくらいなんだから』
そんなことを気にせず、息吹はばしばしと叩いてくる。美杜に止められるまで、息吹の口から夢人がどれほど強いかを語られた流は完全に膨れっ面だった。
『流にぃに! あっちでかくれんぼしようぜ!』
他の大人はそれぞれ自分の仕事で忙しそうだったから、専ら年少組の世話をするのが流の仕事だった。別に年少の子どもたちの面倒を見るのがいやだったわけじゃない。弟分の椋は懐いてきて可愛いし、杏がたどたどしくも今日あった出来事を語るのも愛らしかった。時たま夢人の視線が突き刺さってくるのを除けばの話であるが。
けれど、血を流しながら外から帰ってくる『家族』を見ていると、自分だって危険な仕事ができるはずだと思ってしまう。誰も血を流さないようにしたいと強く願った。そして、それは“ゾンビ”になった自分にならできると思ったのだ。
それから流は度々無断で外に出ては、貴重な薬や包帯を店からくすねてきた。知らんふりをしながらそれらを薬品箱に入れておいて、数が増えていることにみんなが首を傾げているのを満足げに遠くから眺めていた。本当は自分が盗ってきたんだと伝えたいけれど、それを言うと心配されて外に出してもらえなくなる。だから、何も言わなかった。
それでも、誰かの役に立っているという喜びがあれば十分だった。
それを冷ややかな目で夢人が見ているとは知らずに、間違った全能感に流は酔っていたのだ。
「流」
今日も今日とて隠れて物資補給に行こうとしていた流は背後からかけられた声にぴたりと動きを止めた。嫌な予感を感じながら振り返れば、そこには夢人が腕を組んで立っている。その視線は流を責めるようで、流は思わず目をそらしてしまった。
「最近、よく外に出てやがるみたいですね」
「……別に」
「ここのところ物資が不自然に増えているみてぇじゃないですか」
「数え間違えでもしてたんじゃねぇの」
「そうかもしれません。けれど、そうじゃねぇかもしれません」
夢人は流が物資調達の犯人と確信しているのだ。突き刺さるほどの視線を感じて、流は俯いたまま顔を上げられなかった。
「どうしてこんなことを? 無断外出は認められねぇはずですが。まぁ、特に罰則もないのでどこまで機能しているかはわかんねぇんですけど。特に年少組は息吹さんが厳しく躾けてるんじゃねぇですか」
問われていることに流は答えなかった。夢人は既に流が無断外出していることを確信しているから、何と答えてもそれは言い訳にしかならない。そして、夢人はいつだって人の真意を見抜く者だった。
流が何も言わないことに夢人はため息を吐いてから口を開く。
「別に僕もとやかくは言いたかねぇんですけど、ここには杏がいますからね。お前のその身勝手でアジトの場所でもバレてみやがれ。ここの平和ボケした奴らが何人生き残れると思いますか?」
夢人の言っていることは正しい。昔酔っぱらった息吹から聞いたことがあるが、潜在型の“ゾンビ”は大抵集団行動を取るのだ。現在もいくつかのグループ、言い方を変えれば派閥がある。中でも『穴熊』はその名の通り、争いを好まない非戦闘を主義とする派閥だった。だから、戦えない“ゾンビ”が多く集まっている。戦わず、引きこもって外を窺っているだけの集団だ。
『まぁ、とはいえ、まったく戦えないってわけじゃないのよ。おじさんもこう見えて銃の腕前はそこそこだし? ……でも、きっと多くは守れない。―――ああ、いや、だめだなぁ。酒飲んでるとついつい弱気になっちゃうぜ。美杜ちゃーん、ビールもうひとび……ごめんなさい、嘘です』
きっと流も戦えない、守るべき対象として見られているんだと感じた。それは戦える者たちからの視線ひとつからわかる。現に夢人もはっきりと言われたことだってある。戦闘訓練だなんて言っているけれど、あれは子供騙しのチャンバラごっこにすぎない。
「……お前が仲間を大切に思っているのは知ってますよ。身の丈に合わないことをしようとするくらいに、ね。けれど、それはちげぇんですよ。お前が年少組の世話をしてくれることで、他のヤツらが各々の仕事ができてるんです。お前にはお前にしかできねぇことがあります」
流は俯いたまま、唇を噛みしめた。夢人は夢人なりに流のことを励ましてくれているのはわかる。
けれど、それは流の欲しい言葉じゃない。流の望んだものじゃない。
流が欲しいのは、誰かを守れる力だった。
だから、流はアジトを飛び出した。酒を飲んでぐうぐうと眠っている息吹の帽子を掠め取って。『タカ』を一人でも殺してみせると、ナイフを懐に隠し持って走った。
けれど、実際にあの黒服を目の当たりにしたら、死への恐怖で足が竦んだ。結局、何もできないまま逃げるようにその場を後にして、当てもなく歩いていた。
そこで黒髪の少女に出会った。ジュースをかけられて、丸くなった黒曜石の如き瞳の奥に夢人と同じような強い人間の意思を見た。
同じ痛みを知らなければ、真にわかり合うことはできない。奴隷と貴族がどれだけ仲が良くなったとしても、奴隷の屈辱は貴族にはわからない。世界とはそういうものだ。
だから、“ゾンビ”と“人間”は永遠にわかりあえない。
それなのに、ありもしない夢を見た。
『家族』に物資調達のことを咎められて、自暴自棄にナイフを持って走ったその先で出会った彼女は、当たり前だが流が“ゾンビ”であることを知らない。ただの一人の“人間”として流を扱ってくれたのだ。だから、流も“人間”の振りをしていた。人あるまじき冷え切った体温に触っても、少女は顔色一つ変えずに流と共にいてくれた。
けれど、
あの日、初めて“人間”を守れた。それに少女は流のことをまるで“人間”であるかのように心配してくれた。少女を止まっていた車に叩き込んでから息を切らしながら走っていれば、いつの間にか“ゾンビ”は見えなくなっていた。どこかしらに人間でもいたのだろう。そもそも“ゾンビ”は“ゾンビ”を襲わないらしい。穴熊に入ってから息吹から聞いたのだ。稀に共食いと呼ばれる現象もあるらしいが、流は見たことがなかった。
きっと少女は流が“ゾンビ”であることに気がついていないだけだったのだ。それでも、最後まで心配してくれた。それが嬉しくて、流は夢人に止められていたのにも関わらず、彼女にセーターを返すという建前で地上を探し回った。結局、今日という日まで会えることはなかったけれど。
この関係は流が“ゾンビ”であることを彼女に伝えない限り続くものだった。流がそれを伝えない以上、少女は自分を人間として彼方の世界で受け入れてくれているのではないかと夢を見た。
しかし、その夢も偽造薬を買っていたところを見られて終わるはずだった。あの時、彼女は甲高い悲鳴とともに少年の元から去って行くはずだった。そうであるべきだと流も思う。そうでなければ、人間ではない。
なのに。
それなのに、どうして。
目の前の名前も知らない少女は自分から逃げないのだろう。
彼女は決して流と同じ立場ではない。それなのに、彼女は逃げなかった。それどころか流の冷たい、人ならず手を取ってくれた。
その行動にかつて捨てたはずの想いが甦ってしまいそうで恐ろしかった。手酷く裏切ったのは『人間』なのに、それを癒せるのも『人間』で。あまりにも真っ直ぐ見つめてくるその視線があまりにも真摯で苦しかった。
けれど、同時に彼女に報いたいとも思った。『タカ』は“ゾンビ”を匿う人間にも容赦しない。その話は“ゾンビ”の間でも有名だった。殺すまでいくケースはそう多くないそうだが、それでもその人間に罰を与えはする。ただし、流はそもそもそんな奇特なことをする人間は見たこともなかった。
それでも少女は恐怖に立ち竦む流の手を引いて走った。きっと彼女だって恐くて仕方がないだろうに。実際、流の手を掴んだ彼女の手は微かに震えていた。
『私が囮になるから、きみは逃げて。私は―――大丈夫だから』
嘘吐け。流を真正面から見る少女の声は震えていて、笑おうとしたのか口の端が歪に持ち上がっていた。流は少女にそう言ってやりたかったが、声すらも上げられない。決意を固めたかのように立ち上がる少女を止めたかったのに、指先一本も彼女に伸ばせなかった。
そのくせ、身体は少女の頼みを聞くかのように、音を立てないまま後退りを始めている。少女はもうこちらを見なかった。なんとか時間を稼ごうと『タカ』に向かって声を掛けている。張り上げた声は流の出す物音を掻き消すためだろうか。それとも、恐怖に震える彼女自身を叱咤するためだろうか。
あの『タカ』は少女を殺すだろう。そういう類の人間だ。ほとんどの『タカ』は“ゾンビ”に多かれ少なかれ憎悪を抱いている。その中でもあの男は異常だった。“ゾンビ”を殺すことに執着すらありそうなほどだ。
それは彼女も承知の上だろう。本来的に『タカ』は人間を守る立場なはずなのに、人間である彼女があれほどまで震えていたのだ。あの男が“人間”すらも殺せるとわかっている。
それなのに、少女は両手を大きく広げて流を守っている。流より足も遅くて、腕力もなくて、簡単に死んでしまうのに。
そして、少女の言葉どおり流は逃げている。そんな脆い命の少女を置き去りにして、我が身可愛さに走っている。
走って、逃げて。
流の人生はいつもそんな繰り返しだ。何かに立ち向かえたことなどないくせに、人一倍なりたい自分に夢を見ている。死んだら強くてニューゲームだなんてことは現実にはあり得ないのだ。死んだところで何も変わらない。
実際にそうだ。流はなんにも変わらない。弱くて、誰かを羨んで、妬んで、努力が実を結ばないことを恐れて、何も行動に起こせない。
“ゾンビ”になったって、逃げ続けてばかりだ。一つも自分に誇れるものがない。だから、“ゾンビ”になっても逃げ足くらいしか速くならなかったのだろう。
夢見た自分になりたかった。けれど、周りを見回して自分よりずっと強い意志を持つ者たちを見て、敵わないのだと理解した。あれはもはや生来の差だと、自分を納得させて諦めた。
諦めたふりをして、その想いに蓋をした。
けれど、蓋をした程度であれば簡単に開いてしまうのだ。なくなるのではなく、見えなくなるだけ。だから勝手な行動をとって、『家族』を困らせた。結果は今も無様に逃げている自分の姿だ。
きっとこれから先も逃げ続ける人生だ。それでも今死ぬくらいだったら、何倍も魅力的だった。
―――本当に?
ぱんっ。
呆気ないくらい軽い音だったが、それが聞こえてしまったら、もう駄目だった。
もう随分と『タカ』たちから距離がとれたと思う。このまま進んでいけば、とりあえずの窮地は脱せるだろう。機会をうかがってアジトに戻り、これに懲りたとアジトから出なければいい。あそこには流を守ってくれる大人がたくさんいる。安穏と、いつか訪れる終わりが来るまでいればいい。
彼女に報いたいと思った。それはもはや使命感に似た何かだった。
彼女を守りたいと思った。身体が突き動かされるほどの激情を感じた。
不思議と恐怖は感じなかった。間違いなく、死ぬだろうと感じてはいたけれど、流の身体はもう震えない。しっかりと足は大地を蹴って、彼が今一番向かいたい場所へと向かっていく。
その間にも思い浮かぶのは『家族』のことだ。
初めて夢人と出会って、彼に『穴熊』のアジトに連れて行ってもらった。息吹はいつも酒を飲んでばかりだったけれど、頼りになる時には頼りになった。彼の右腕である美杜はいつだってクールだったけれど、ひとりで落ち込んでいた時はそっと頭を撫でてくれた。椋だって杏だって、あんな地下暮らしなのにいつもにこにことして我が儘ひとつ言わない。時哉はいい兄貴分だったし、その弟たちにも世話をかけたりかけられたりしていた。金糸雀と水姫の作る食事はいつだって美味しかった。
夢人だってあんな物言いをしたのも流を心配していたからこそなのだろう。ああいった物言いしかできない人だから誤解をされやすいが、誰よりも『家族』のことを想っている優しいヒトなのだ。
―――夢人兄ちゃんの言うとおりだった。俺は結局誰かを守れるだけの力なんて持っていやしなかったんだから。
知らず涙が出てきた。今更になって恐くなってきたのかもしれない。吐き出した息は命もないのに人間みたいに白かった。
泆嶋流はこれから死ぬ。あの黒づくめの男に首を吹き飛ばされて、殺される。
この命を賭して、あの少女の命を守る。
本当なら生きて、少女を安全なところまで連れて行って、そこまでして守ったというべきだろう。けれど、それだけの力が流にはなかったから。
そうだとしても、少女の優しさに応えたかった。それにここで逃げてしまったら、流はきっと“人間”としても駄目になる。一生この後悔が足に纏わりついて、『家族』の顔もまともに見られなくなってしまう。これから先、一度たりとも自身を赦せなくなるだろう。
最期くらい、自分に誇れる自分になりたいのだ。
元の場所に戻った時、少女はまだ立っていた。先ほどの銃声は威嚇射撃だったのかもしれない。だが、きっと掠りはしたのだろう。彼女の頬からは赤い血が滴っていた。遠くからも香り高いその匂いは“ゾンビ”のみが感じられるものだろう。
男は銃口を少女に構えたままだった。何かのきっかけがあれば、男は引き金を引く。今度は逸らしもせず、少女へとその弾丸は向かうに違いない。
そして、そのきっかけはいとも容易く訪れた。
「走れ!」
彼女は流を見ていないから、流がとっくの昔に逃げ出していたとは知らなかったのだろう。自身の弱さに笑ってしまいそうだった。
その言葉に男は引き金を引いた。流は彼女の言葉通り、走った。今まで走った中で一番早く。
少女の元へと走った。
走る勢いのまま、彼女の肩に手を掛けて思い切り引き倒す。そして、そのまま少女の前に立った。引き金は引かれ、弾丸は既に放たれた。
流に遺されたのは数秒にも満たない時間だけだ。
「セーター、返せなくてごめん」
最期に出た言葉がそれかと自分でも笑ってしまいそうだったけれど、逆に自分らしいとも思えた。
少女の呆然とした表情が目に焼き付いている。黒々としたそれが木漏れ日を受けて輝いていた。それは流が最期に見るに相応しいと満足だった。それも、きっとすぐに流の意識ごと何もなくなるだろうけど。
己の人生に悔いがないとは言えない。いつだって後悔ばかりの人生だったから。
けれど、今この瞬間に後悔はない。穏やかなまでの充足感が胸に浮かんでいる。
あ。
結局、最後の最後まで名前、聞きそびれたなぁ。
たかく。
たかく、たかく。
たかく、たかく、たかく。
それは跳んだ。
誰の手も届かないその先まで。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




