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リビングデッドにキスをして  作者: 神川 宙
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遠く、遠く

第五十五話。

 警戒網は敷かれたものの、『タカ』はまだ病院周辺に来ていなかった。どこからか通報が入り、先に警報を鳴らしたのだろう。拍子抜けするほど簡単に七絆と少年は病院近辺から抜け出していた。零といる時といい、七絆はなかなかに運がいいのかもしれない。理論がわからないもの、原因が明確でないもの以外はあまり信じたくない七絆であるが、こればかりは天に感謝するしかない。

 二人は今どこかわからないが、木々が生い茂る森の中にいた。七絆の端末は警報が出た時から電源が切られているため、自身の位置を確認する術はない。“ゾンビ”が出た時には『タカ』は何をしても許されることになっている。噓か真かはわからないだが、端末にもアクセスできるという話も聞いたことがある。七絆の端末は彼女の手により、電源が落ちている間には外部からアクセスが全くできないように弄られている。

 電源を切っている間は端末を使って居所を知られることはないが、逆に端末経由で情報を得ることもできない。胡蝶を呼び出したいところであるが、彼からの端末を壊してしまった今、現代っ子である七絆が胡蝶の電話番号を覚えているわけがなかった。そもそも、七絆は知らないが、胡蝶は毎回違う番号でかけてきているため、憶えていたところで意味はない。

「ここがどこかわからないけど、いい感じに視界も悪い所に来れたから、隠れて時間を稼ごう。きみのアジトがどこにあるかはわからないけど、暗くなってから行動した方がいいでしょ」

 ちょうど二人隠れても問題なさそうな茂みにしゃがみ込んで、七絆は辺りを見回す。獣道も見当たらないくらいの自然の豊かさだ。人の姿は見当たらず、早々は見つからないだろうが、慎重に慎重を重ねすぎて悪いことはない。

 ふうっと一息ついて、七絆は腰を落ち着けた。未だ少年の手を握っていることに気がついて解こうとするが、少年の方が離してくれない。

「……どうして」

「うん?」

「どうして、アンタは俺から逃げない」

「その話はさっきしたつもりだったけど、納得できないんだったらこうしよう。今、きみと私がこうして手を繋いでいるから。『友達』でしょ、私たち」

「……アンタは無関係だ。俺たちみたいなのとはいる場所が違いすぎる。生きている価値観が違いすぎるんだ」

「居場所が違ったって、こうやって手を繋げば繋がれる。言葉を交わせば理解できる。ここには確かに私たちの関係があるんだ。だから、もう無関係じゃいられない」

 そう言って、七絆は快活に笑った。俯く少年の背をばしばしと叩けば、思いの外力が強かったからなのか少年はけほけほと噎せた。

「こうやって、二人で草塗れになったっていう記憶ができた瞬間から、もう無関係じゃないんだよ。私はそう思っている」

「……そんなの詭弁だろ。本当はアンタだって恐いはずだ。だって、俺たちはそう生きられないから。いつだって同じものを経験して、見ていないと信用できない。『家族』のみんなだって、俺のことどう思ってるかなんてわからないし」

「ううん、それは違うよ。きみは気づいていないだけだよ。きみの周りの家族はみんな、私と同じ気持ちはずだから。きみは本当に視野が狭いよね、前から思ってたけど。そうやって否定して否定して、何か得られることはあった? 確かに私たちときみやきみの家族は違うだろう。そりゃあ、別々の個体だもの、当たり前でしょ。けれど、私たちとこの想いはおんなじだ。誰だって幸せになりたいんだから。私だって、幸せになりたい。誰も傷つけられず、笑いあって、好きな人の隣にいたい」

 七絆は少年の手を引っ張って地面に座らせた。いつまでもしゃがんでいたのなら疲れてしまう。少年はむすっとした、納得いかないような表情のまま、七絆に導かれるように座り込んだ。

「その帽子、きみの言うおっさんって人から奪ってきたの? おしゃれじゃん」

「……そうだよ。おっさん、いっつも帽子被ってるんだけど、俺が外に出る時はいつも机の上に置いてあるから」

「なんだ、ちゃんと愛されてるんじゃん。愛されてるって、目に見える確証が欲しいの? じゃあ、きみが被っているその帽子がまさにそれだよ」

「? 言ってる意味がわかんねぇんだけど」

「おいおい、頭を使えって、少年。それ、おっさんの愛用の帽子なんでしょ? それはね、わざわざきみのためにそこに置かれてるんだよ。ちゃんとその帽子と一緒にきみも帰ってきますようにってね。お守りと一緒だよ、きみのための」

 少年は七絆の言葉に大きく目を見開くと、帽子をぐっと下に引っ張って顔を隠した。七絆もそれを覗き込むような無粋な真似はしない。繋がれた手が強く握りしめられるが気づかないふりをした。横から嗚咽が聞こえてくるが聞こえないふりをした。

「……お、俺はさぁ、みんなに迷惑、かけてばっかなんだよ。身体も小さくて、施設の掃除くらいしかできることがなくって。役に立ちたかった。認めて欲しかったんだ。昔、自分が化け物だって認められなかった時もそうだった。誰かに『ありがとう』って言われるだけでよかった。施設のみんなは、『家族』はすごいいい奴らばっかりでさ。チビたちにでもできるようなことしただけで『ありがとう』って言うんだ。それはずっと、あの時から俺がずっと欲しかったものだった」

 七絆は静かに彼の言葉を聞いて、小さく相槌を打つ。そんな些細なものを、と笑うことはしない。だって、それは七絆が欲しかったものであったから。

「それから俺、どんどん色々な手伝いをした。ハードルがどんどん上がっていくと勝手に思って、どんなことでも率先してやった。でも、段々とやれることが減っていったんだ。当たり前だよな、自分の中でハードルを上げ過ぎてたんだから。だから、一番危険なことをやろうと思った。夢人ゆめと兄ちゃんがやってるみたいな。そうすれば、定期的にそれができれば、俺はちゃんと『家族』での自分の立ち位置を見つけられると思ったから。でも、それは危ないから駄目だって怒られたんだ。それで、俺はあの日、何も考えずにあそこを飛び出した。そんで、アンタと会った」

「あのジュースぶっかけられた日ね。よく憶えてるよ。とりあえず、あの自転車乗ってたやつは絶対許さん」

「そこはもう許してやれよ。セーター、今度返すからさ。…………やれる、って思ったんだ。どんな危険なことだって。夢人兄ちゃんにはあんずがいるし、いくら強いって言っても、何かがあったら杏が悲しむ。それだったら、ガキん中で最年長の俺が行くべきだって思った。……いや、言い訳だな。俺は他のガキたちを守ってやりたかったんだ。俺がこの先、この薬を安定して買いに行ければアイツらにこの仕事が回ることもないしさ。まぁ、おっさんたちにも止められたわけだけど―――」


「守られるだけじゃなくて、俺だって守りたかったんだ。自分が死んでも、守りたい。一番大切だから」


 そう言うと少年はずびっと大きな音を立てて鼻を啜った。七絆がそちらを見れば、彼は嫌そうに表情を歪めると顔を背ける。どこまでもただの子どもみたいな顔だった。こんな生死を賭けた仕事をしていないで、高校で友達と馬鹿笑いしているのが似合いそうな普通の子ども。

「私だって、大切なものを守りたいよ。その想いはみんな一緒だ。きみも、私も、顔も知らない誰かも。どうして大切に思うのかはわからないし、別に言葉にしなくたっていいと思う。自分の心にそれを誓って、自分だけがわかっていればいいことだから。でも、少しだけ、私ときみは違うよ。―――私は自分も生きていたいって思うから。死んでもだなんて、口が裂けても言えない。それがどれだけ、その大切なものを傷つけるかがわかったんだ。だからさ、きみも生きて。家族を大切にしなくっちゃ。それが一番、みんなが喜ぶことだからさ。その帽子も、ちゃんと返さなきゃね」

 七絆は雲一つない晴れた空の下で、両腕を大きく広げて笑った。大切な何かを抱きとめるかのように大きく広げられたその両腕は、少年にはとても眩いものに見える。目を細めていないと直視できないような、まるで目の前の少女が女神か何かのように感じた。

 今までどこか凝り固まっていた少年の価値観が、彼女の言葉で雪のように溶けていく。その背後には後光のような白い影が揺れているような気がした。


 この手を取れば、目の前の少女と同じような優しい“にんげん”になれるのではないか、と。

 彼女みたいに笑って、全てを受け止められるのではないか、と。

 もう一度『家族』に会って、強がって伝えてこなかった自分の想いを伝えたい。

 そう思った。

 そう思っただけなのに。


 ちかりと遠くで白く何かが輝いた。するりと背筋を撫ぜていく気配に―――

「あ」

 次の瞬間、七絆は少年を抱き込んでぬかるむ泥の上に倒れ込んでいた。先ほどまで少年が座っていた後ろの樹には深く切り込みが入っている。少年は状況がつかめないまま目を白黒させていたが、七絆は彼を抱え込んだまま泥の上を這いずり、別の樹の後ろに姿を隠した。

 七絆の頬に一筋汗が伝う。自分でもよく反応できたと思っている。転がった際に右目に泥でも入ったのかひどく痛んだが、そんなことを気にしている場合ではない。

 明確にこちらに向けられた殺意。そして、その殺意をそのまま飛ばしてきたかのように迫ってくる何かに気がついた時、七絆の身体は勝手に動いていた。あのままいれば、少年の首は高々と空を舞っていたことだろう。樹の切り込み具合から当たれば体の一部なんて簡単に吹き飛ぶだろう。いつか見た、土手の上の“ゾンビ”のように。その先に血だらけの自分の死体があるように思えて、背筋を冷や汗が伝っていく。

 学園祭の打上げの時、だりあと凍雲の会話が思い出される。七絆の記憶と合致するとすれば、七絆たちを攻撃してきたのは―――


「ったく、この俺が外すとはな。いや、ちげぇな。避けられるとは思わなかったぜ。完全に不意打ちだったはずだ」


 地を這うような低い声が聞こえてきて、七絆は思わず身震いした。緊張のせいか、それとも恐怖のせいか心拍数が跳ねあがる。

 七絆はこの声を覚えていた。彼とはすでに二度会っている。

 一度目は簡単な挨拶。二度目はゾンビの死体越しで。

「隠れているのはわかってんだよ。さっさと出てきて、死ね」

 七絆たちがいる方に向かって銃を構える灰狼のような男―――生田四代だ。その身体から立ち上る隠しきれない殺意はまるで見境のない獣のようだった。

 今もっとも会いたくない、一番最悪であるカードが切られてしまった。『タカ』と会うのは予期していた最悪である。このまま夜がくるのをただ待っていられればそれに越したことはないが、一応予想はしていたことだ。ただし、彼が来るとは思っていなかった。

 これなら彼のバディである生方叴人が来てくれた方がよかった。彼の方が話ができる。見逃してくれるとは思わないが、作戦を練るだけの時間は稼げるはずだ。

 けれど、四代は駄目だ。“ゾンビ”を前にした四代は餌を前にした飢えた獣のようだ。敵を屠る狂犬でしかない。話し合いなんて以ての外、出て行ったら最後、首と胴体が分離していることだろう。暴力でしか物事を解決できない男なのだ。

 七絆の頬に汗とともに血が流れ落ちていく。不幸中の幸いだが、ここは見通しの悪い森の中だ。それに偽造薬もこちらの手元にある。もしかしたら、白を切り通せるかもしれないと思ったところで、七絆は気がついた。

 少年の手がやけに冷たいことに。

 つまり、彼は偽造薬を打っていないことに。抱えた小さな身体の胸元に手をやるが、こんな状況にもかかわらず一切の鼓動を聞かせてくれなかった。

 その事実に七絆は唇を噛んだ。きっと、四代には少年が“ゾンビ”であるということがわかっている。その上でのこちらを撃ってきたのだ。そもそも四代という男が人間である七絆の無事まで考えているとは言い難い。今ここに偽造薬のアンプルはあれど、注射器がないのでは彼に打てない。それに打ったところで時既に遅し。言い訳が聞く相手とは思えない。

『おい、応答しろ馬鹿! 今発砲音が聞こえたぞ! まさか<Schisma>使ってないだろうな! というか、どこにいるんだ馬鹿!』

「さっき通報のあった“ゾンビ”を見つけた。だから始末する」

『俺が行くまで待て! 何のためのバディだと思ってんだ! いいか、俺がい―――』

 聞こえてきた声が途切れる。恐らく四代が端末なりなんなり切ったのだろう。聞こえてきた声は間違いなく叴人のものだ。『タカ』のことだ、居場所なぞすぐに押さえてくるだろう。そうすれば、叴人が来てくれるかもしれない。

 ―――それに賭けるしかない。どうにかして叴人が来るまでに少年を逃がし、その上で七絆自身を叴人に保護してもらう。

 なぜかはわからないが、叴人は七絆を疑っているようだった。憶測でしかないが、何かしら七絆から情報を引き出すまでは殺さないだろう。それに、これは勘だが、彼は七絆に同情めいたものを抱いている。

 とはいえ、銃口の前に自らの意思で身を晒すなんて初めてだ。あの夜、“ゾンビ”に襲われた時よりも恐いかもしれない。指先がぶるぶると震えている。

 恐い。そうだ、恐怖を感じている。この身が張り裂けそうなほどに、七絆はあの男を恐れている。否、その先にある死を恐れている。


 ―――あぁ、どうして私はいつもこんな目に。


 今回に関しては自分で首を突っ込んだとういうのに、七絆の心の中に浮かんできた言葉はそれだった。死にたくない。死にたくないのだ、七絆だって。零をひとり残して、死ぬわけにはいかない。だから、とても恐くて、何もかも投げ捨てて逃げ出してしまいたかった。

 人間である七絆だってこんなに恐怖を感じているのだ。ふと少年の様子が気になって、視線を落とす。

 腕の中では彼がぶるぶると震えていた。見開かれた瞳は焦点が合わず、ぼたぼたと涙を流している。彼は小さな声で「こわい、こわい」と譫言のように呟いては、歯の根が合わないのか、歯を打ち鳴らして恐怖していた。頭を抱えて震えていた。

 当たり前だ。あんなものを見て、恐くないわけがないのだ。そして、この状況で何よりも危険なのは“ゾンビ”である少年だった。人間である七絆より、よっぽど恐いに決まっている。

 よっぽど、死に近いのだから。

 死ににくい癖に、常に隣に死がいるのだから。


「……私が囮になるから、きみは逃げて。私は―――大丈夫だから」


 信じられないように少年の目が見開かれた。七絆は微笑んだつもりだったが、口元は固く歪に持ち上がっている。

 七絆は影が揺れないように慎重に立ち上がった。七絆だって恐くてたまらない。膝はがくがくと震えているし、少しでも力を抜いたらその場に座り込んで立てなくなってしまいそうだ。

 けれど、ここで彼を見捨ててしまえば、それは零を見捨てたも同義だ。今守るべきは己が身ではなく、この心優しい少年だ。あの時、“ゾンビ”に襲われないと言って囮になってくれた、七絆を守ってくれた少年だ。

 ならば、今度は七絆が立ち上がらなくてどうする。

 右手を左胸に当てて、深呼吸をする。この下には鼓動があり、七絆が確かに人間であることを証明していた。

 ふうと深く息を吸って、吐いて。七絆は決意に満ちた瞳を開いた。


「こんにちは、生田四代さん」

 努めて。努めて、冷静に、落ち着いて。平静を装った、何処か余所行きの七絆の声が森に吸い込まれていった。

 やはり大方の場所の辺りはつけていたようで、姿を現すと同時に銃口が向けられる。ノータイムで撃たれたらどうしようかと思っていたが、人間かどうかを確認するだけの理性はあったようだ。七絆は両手を肩まで上げて、武器等持っていないことをアピールするが、銃が降ろされることはない。予想はしていたことだが、やはり銃口を向けられていい思いは全くない。

「『タカ』の生田四代さんですよね。お久しぶりです。この間会った時も同じような光景でしたよね。今日は生方さんはいらっしゃらないんですか?」

「退け。その辺りにいんのはわかってんだ」

 その言葉に七絆は一つの確信を得た。どうやら『タカ』は“ゾンビ”と人間を見分けられる方法は持っているが、視認しないとどこにいるかまではわからないようだ。この森が常緑樹で出来ていてよかったと心から思う。隠れられる場所が多いというのはこちらにとって大きなメリットだ。例え、七絆が丸腰であったとしても。

「憶えてないんですか? あの土手の上で今みたいに銃向けてくれちゃって。ああ、そう言えば今日はあの日と同じ、生田さんの相方さんみたいな色の空ですね。人生で最悪の気分ですけどね」

「……その名前を出すな、不愉快だ。そもそも何わけのわからねぇこと言ってやがる。手前が取れる行動は二つ、とっとと退くか、そこにいる雑魚を引き渡せ」

「そこにいる? おかしいなぁ、ここには私しかいませんよ。さっきいた彼は私の友達です。ここ、視界が悪くてかくれんぼにはちょうどいいんですよ。向こうの方にも何人かいましてね」

「べちゃくちゃとうるせぇな。こっちは仕事で来てんだ。テメェのお喋りに付き合う義理はねぇ。退け」

「ここにいるのは“人間”だけですよ。そっちの装置、故障でもしてるんじゃないんですか? そもそも、いきなりそんな物騒なものぶっ放されて。万が一当たったらどうするんですか」

「殺す。それだけだ。手前も人間だからなんて関係ねぇぞ。特例法は知ってるだろ。殺されても文句は言えねぇぞ、手前のやってることは」

「たったそれだけで? それだけのことで一般人を殺そうとしてるんですか? それじゃあ、ただの獣と変わりないですよ。善悪の区別もつかない殺人鬼ですか? ははっ、国の狗が聞いて呆れる」

「なんとでも言え。良心の呵責でも期待したか? 生憎そんなもんはとっくの昔に置いてきた。……だが、手前を殺すとうるせえのが一人いるからな。もう一度言う。殺されたくなかったら退け」

「殺されたくないも何も、殺される理由がわからないんですけれど。理由もなしに殺すんだったら、まだ獣の方が賢いですよね」

「わかってねぇようだが、俺は殺すと言ったら殺す。あのくそ鬱陶しいヤツが来る前に殺しちまった方が早いからな。だから、退けよ。退かねぇなら殺されても文句は言うんじゃねぇぞ」

 四代の指が引き金に引っかかり、静かな森の中で僅かに音を鳴らす。

 ―――多分、もうこれ以上は無理だ。

 焦燥感を抱く中でも、どこか冷静に頭の片隅でそう思った。これ以上、四代を引き留めるのは無理だ。恐らくこれが最後の忠告だ。あの男は撃つ、躊躇いも見せずに七絆を殺すだろう。思いの外、時間が稼げなかった。

 どこまでいっても平行線の会話だ。知らずに握りしめていた手の内に汗が滲んでいく。先ほど四代の言ったとおり、良心の呵責を期待したわけではないが、もう少しまともな受け答えができると思っていたのが本音だ。これなら本当に獣と話しているのと変わらない。まだ、彼らの方が可愛げがあるくらいだ。まさか、ここまで話が通じない人間だとは七絆も思ってもいなかった。

 叴人が来るまで会話で引き延ばすことはできそうにない。七絆の方も先ほど避けた際に、怪我をした右目が熱を持ち、痛みを持って疼き始めて、考えがどうしてもそちらに引っ張られてしまっている。全くと言っていいほど、打開策が見つからない。

 少年はどれほど逃げ果せただろうか。現状、七絆が一番安全に事を収める方法は、少年を見放して四代に差し出すことだ。そうすれば、きっと四代は七絆を殺しはしないだろう。彼だって進んで人間を殺そうとは思っていまい。


 もう、無関係ではいられないから。

 七絆がそう決めた以上、彼女は逃げ出すわけにはいかない。

 本当は恐くて、恐くて、逃げ出したくて仕方がない。相手は指先一つで簡単にこちらの命を奪えてしまえるのだ。“ゾンビ”にも襲われたが、あの時は無我夢中でそんなことを考えている場合ではなかった。それに彼らは獣だ。交渉も出来なければ、命乞いだって無意味だ。逃げるしか選択肢がなかった。

 対して、今は七絆の目の前にはいくつかの選択肢があった。言葉も交わせれば、きっと命乞いくらいは聞いてくれるかもしれない。およそその確率は低い相手ではあるが。

 がくがくと両膝が笑って、今にも地面にへたり込んでしまいそうだった。右目が痛くて痛くて堪らなかった。恥も外聞も捨てて泣き叫んで、零に抱きしめてもらいたかった。

 零に助けて欲しかった。

 けれど、ナズナは零に誓ったから。どれだけ恐くてもここから逃げ出すことだけはできない。零は許すだろう。けれど、他ならぬ七絆が許せなくなるはずだ。一度逃げ出してしまえば、それは傷となっていつまでも七絆を苛むだろう。そして、その痛みに耐えかねてまた逃げ出すのだ。

 だから、彼女はここに立っている。

 いつかのように誰かに守られるのではなく。いつものように、誰かの後ろに隠れるのではなく。

 きっと零ならそうする。そうであるのならば、彼に寄り添うナズナもまたそうするのだ。彼女の意思は今、零と共に在るのだから。


「……チッ。何度も言わせんなって言ってんだろ! さっさと―――」

「退きません!」

 焦れたように舌打ちをする四代に、七絆は声を張り上げて応えた。胸を張って、大きく両腕を広げて。構えられた銃口に堂々と対峙する。

「あ゛ぁ!?」

「退きません、退きません! 何度言われても、私はここから動きません! ここにいるのは私の友達なんです! 私のことを、“ゾンビ”から助けてくれた友達です!」

 それを聞いた四代は口元を引くつかせる。その瞳は怒気に満ちており、米神に青筋を浮かべて彼は怒鳴った。

「何言ってんのかわかってんのか、手前は!」

「わかってますよ! ええ、ええ、ええ!! ここにいる誰よりもわかっています! この行為が愚かだと言われるものだってことも! 誰にも理解されないってことだって!!」

「それだけわかってりゃあ上出来だなぁ! だからこそ退けっつってんだよ! 自分のやっていることがどれだけ無意味かってこともわかってんだろッ!」

「無意味じゃない!」

「あ゛ぁ?」

「無意味じゃない! たった一人を守ることで、私は大勢の命を救える! 家族が悲しむこともない! なにより、―――私は友達を守るんだ!」

 『家族』という単語に四代は動揺したように、僅かばかり銃口を揺らした。しかし、それは七絆に逃げるだけの隙を与えずに、また七絆に向けられる。一瞬だけ苦痛に耐えるように顔を顰めたが、その動揺すらすぐに消えていった。その瞳には先ほどよりも大きな、憎悪に似た怒りの炎を灯している。

「んな化け物に家族なんているわけねぇだろうが! 惨めに捨てられて、それで終いだ! ただの害悪共にそんなもんあってたまるかってんだよ!」

「いるから言ってんでしょ! 大切なものがあるから、愛したものがあるから、ひとりでだって外に出てきたんだ! 何よりも、あの子が化け物であるって証拠はどこにあるんですか!」

「通報が入って俺がそうだと認識した! 殺すにはそれで十分だ!」

「十分なわけあるかっ! きみはそれだけの情報で人を殺すのかよ!」

「人じゃねぇって言ってんだろ! 笑わせんな! あんな人の肉を喰い散らかして、好き勝手した相手すらも化け物にするような奴らのどこが人間だって言えんだよッ!」

 あまりの気迫に気圧されて七絆は上手く言葉を紡げなかった。彼の血を吐くような怨嗟の籠った怒声は当事者にしかわからない苦しみを伴っていた。完全に頭に血がのぼっているのか、四代は血走った目で七絆を睨みつけている。

「そんな奴らに『家族』だ? 寝言は寝て言え! 人間が化け物共のせいで失ったものを、化け物にだけ認めろって手前は言うのかよ! それは手前が何も奪われたことのねぇ甘ちゃんだからだ! 手前は一時の偽善を振りかざしているだけだ! そうやって、何かを守った気になってる。手前は知らないだけだ! あの醜悪な化け物に殺されていく人間を、その死んだ人間が化け物になっていくさまをっ! 見れば手前みたいなやつは掌返して、新しい正義を振り回して、振り回されるだけだ!」

 四代の言葉は七絆の心に的確に刺さった。少年にも言われた言葉だ。七絆は人間にも“ゾンビ”にも何も失ったことのない子どもだと判じられたのだ。

 ナズナは失ったものを思い出せないだけだ。太陽に翳すと紫色に透ける×髪、空の色、×い瞳、笑った××の顔。どれもこれもきっと大切なものだった。そこにあった大切なものを失ったのに、忘れてしまったから。

 忘れていいものではなかった。だから、今、その大切なものを取り戻そうと必死で藻掻いているのだ。愛したものを、愛すべきものを、愛を知る心を。

 四代は“ゾンビ”を醜悪な化け物と表したが、彼らにだって心はある。零にも、少年にも。もしかしたら、あの引き裂かれた“ゾンビ”にも愛があったのかもしれない。


―――醜悪。醜悪か。ああ、確かに醜悪だった。

―――けれど、そんなもの“人間”も変わりやしない。欲に塗れて、汚くて、利己主義で、すぐに保身に走る。


 一体何が違うというんだろう。“人間”という生物を学んできた彼女にはそれが理解できなかった。

 偽善だと言われるのなら、それを甘んじて受け入れよう。たったその程度の誹りで少年を、彼を守れるのなら。彼の『家族』の愛と、優しくて可愛そうな白い化け物の愛を守れるのなら。

 そう考えた途端に七絆の心は凪いだ。先ほどまで恐怖で震えていた思考が晴れていく。こちらに怒りを向けてくる四代が遠いものに感じた。その怒声すら、意識の膜の外側から聞こえてくる。右目の痛みもいつの間にか遠のいた。あらゆる感覚が遠ざかり、届かない月に手を伸ばすような感覚だ。

 代わりに貪欲なまでの知識欲が七絆の身を支配していく。いつかも誰かにこんな疑問を問うた気がするけれど、それがいつのことだったかは思い出せない。


「誰かの為を想って為すことの、何が悪いのですか?」

 『私』の中で深紅の獣が腹を抱えて嗤っている。あの星降るような白色の髪を垂らして、星見をするかのように遠くから。

 きっと、それは『私』を嗤っているのだろう。


 気がつけば、七絆の口からは言葉が漏れていた。怒りに満ちていた瞳の四代も、一瞬呆気にとられたかのように微かに見開かれる。この場から音が抜け落ちたみたいに、風に吹かれた木々の騒めきだけが響いていく。

「どうして、それが悪いのですか? 誰も彼も、結局は自分の心を守りたいだけなのではありませんか。他人のためと言いながら、結局は己自身が一番大切で、壊されたくないに決まっています。自分の欲求を満足させたいだけでしょう。それはきみもそうなのでは? 誰もきみが一般市民を守りたいという意志でそこに立っているとは思ってもいませんよ。誰もがそれを認めないでしょう。なぜかって、それはきみ、ただ自分の八つ当たりのために、復讐のために、『人間』の形をしたものを殺したくて、そこに立っているからに決まっているからじゃないですか」

 七絆としての意識ははっきりしている。自身を律することもできていると思っている。けれど、口から零れ落ちる冷たい声を拾い上げることができない。思考がひとりでに歩いて行くのだ。七絆の、ナズナの『意識』が目の前の疑問に対して、不思議でたまらないとでも言うかのように考えを巡らせて言葉を紡いでいく。

 七絆にも追いつけないスピードで、それは探求心のままに駆け巡る。しかし、それもまたナズナであることに変わりはない。『人間』について問う、その心もまた。

 相対する四代は突如異様なプレッシャーを放ち始めた少女に気圧されていた。先ほどまでは全身を震わせ、馬鹿みたいな正義感を振り回す人間の顔をしていたくせに、今では心底不思議そうな表情で小首を傾げて四代を見ている。瞬き一つすることなく、右目から血を流しながら、こちらを見ているのだ。

 どうしてだろうか、四代にはこの少女が恐ろしく思えてしまった。こちらは銃を持っていて、相手は丸腰にも関わらず、死すらもイメージしてしまうほどに。まるで何かに憑りつかれたかのような彼女の豹変ぶりが、背筋が凍るほどに恐ろしかった。

 吹き出した汗で銃のグリップが滑ってしまいそうで、けれど構え直すほどの余裕はなく、四代は小さく舌打ちをする。撃てば死ぬ。当たり前のことだ。先ほど確認をした時、彼女の心臓は確かに脈を打っていた。人間なのだから、殺せるはずだ。何よりも四代がその手に持つ<Schisma>は確実に“ゾンビ”を殺せるだけの威力を持っている。人間なんて容易く引き裂ける。

 なのに、目の前の少女を殺せるビジョンが持てないのだ。

 そして、ついに彼女は銃口に臆することなく、至極不思議そうに首を傾げ、四代を指差してこう言った。


「きみはただの“人殺し”ではないのですか?」


 その言葉に四代は何も言い返せなかった。頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を受けて、銃口が下に向きかける。焦りを見せないよう握り直したグリップはいつもより強く握りしめられていた。

 誰かに褒められたいわけではなかった。ましてや、この行いが賛美されるものとも思ってはいない。

 先ほど七絆が指摘したように、生田四代は“ゾンビ”を殺したくて殺している。いつか自身の手から零れ落ちて消えていったものを取り戻すかのように。それが絶対に戻らないものと知っていて、殺し続けている。穴の開いた柄杓で水を掬い続けているようなものだ。

 伽藍とした心の隙間はきっと二度と埋まらない。

 けれど、きっと認められたかったのだ、あの人に。


『大丈夫、四代のことは兄ちゃんが守ってあげるからね』

 幼少期、そう言って包帯塗れの腕が幼い四代の頭を撫でた。細くて弱々しい子どもの腕だった。その身体が随分冷たかったのを今でも憶えている。長く垂れた黒髪の隙間から覗いた空色がひどくからっぽだったことも。


 ぱんっと軽い音がして、七絆の頬に鋭い痛みが走る。変わらず銃口は七絆を見つめていた。脅しのためにわざと外されたのだ。その痛みとともに、外界を遮断していた七絆の意識の膜が弾ける。

「―――手前の言う通りだろうよ。俺はただの人殺しだ。だったらなんだ? 失ったものは戻らねぇってのがこの世の摂理だ。俺はただ“ゾンビ”を殺せればいい。誰かを守るなんて、―――守られるのなんてまっぴらごめんだ。俺が殺したいものを、俺が殺してる。この行為にそれ以上の意味はねぇよな」

 四代の瞳には先ほどまでの怒気はなく、代わりに仄暗い光が宿っている。皮肉気に持ち上げられた口元がこちらを嘲笑ってくる。

 数回瞬きをして、七絆は悟った。どうやら七絆の問いかけは四代の地雷を踏み抜き、そして彼にある種の開き直りをさせてしまったらしい。先ほどまで凪いでいた七絆の心は平静を保っているものの、人間じみた漣は立っている。

「もう一度言う。退け。これ以上は殺す」

 低く唸るような声に、死の予感が七絆の身体を走り抜けた。これ以上、四代は待たないだろう。七絆の口から次の問いかけが出た瞬間に引き金は引かれる。そういう確信めいたものを感じる。

 その最後通牒を受け取って、七絆がすべきことはひとつだ。


「走れ!」


 撃たれても構わない。七絆は四代を見据えたまま、そう吼えた。少年の姿を確認するわけにも、目で追うわけにはいかない。それが向こうに利を与えてしまうし、何よりも七絆は四代から目を逸らすわけにはいかなかった。

 四代の言葉に嘘偽りはなく、七絆が声を上げた瞬間に引き金にかかった指が動く。真正面に立つ七絆から照準を変えることなく、まっすぐと。それでも、七絆は逃げも隠れも、目を瞑ることすらしなかった。

「撃つな、四代!」

 そんな言葉がどこか遠くから聞こえてくる。全部がスローモーションに見える。四代の指がゆっくりと引き金を引く。弾はまっすぐにしか飛ばないのだから、射線から逃れればいいのに、七絆の身体は少しも動かない。

 意識ばかりが覚醒したように鮮明だ。焦燥感もなく、死への諦念もない。痛みへの恐怖も何もない。

 なんにもなかった。


―――きみはしなないよ。

 頭の片隅で月の現身のような、幽鬼のような獣が囁いた。

―――そうだ。『私』は死なない。

 信じれば。

 信じれば、それは私の中では本当になるのだから。

「私は、『私』は死なない。そんなものじゃ、私は殺せない」


 けれど。

 一瞬だけ、

 優しげに微笑む零の姿を想ってしまった。

 まだ、

 人間でいたいと思ってしまった。


 きっと放たれた弾丸は間違いなく七絆を討つだろう。寸分狂わず、狙った通りの場所へ吸い込まれて、彼女の身を二つに分かつだろう。

 一瞬の気の迷いで、嘉翅七絆という『人間』は生を捨てるはずだ。


 それなのに。

―――どうして。

 どうして、七絆の身体は後ろに倒れようとしているのだろう。

―――どうして。

 どうして、七絆の前にあの少年がいるのだろう。


「セーター、返せなくてごめん」


 赤い花が散る。手の届かない、遠い、遠い、その先で。

 嘉翅七絆はヒーローにはなれない。


さよなら、ヒーロー。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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