きみのヒーロー
第五十四話。
お大事に、という言葉と憐れみを含んだ視線とともに鎮痛剤の入った紙袋を渡され、七絆は病院から出た。あの視線はきっと何があったかをすでに伝えられているが故だろうが、なんとなく居心地が悪く感じた。真っ白な包帯に包まれた左手がゆらゆらと身体の横で揺れる。
竜胆へ行った言葉が嘘であったとおり、七絆を迎えに来る者などいないため、ぼこぼことあちこちが隆起している煉瓦道を歩いていた。白百合病院はこの町の中では大きな病院であり、病床も多い。敷地も広く取られ、自然も取り込まれているため、通りからでも木々の隙間から車椅子を押して散歩している老夫婦たちも見えた。
目の前の信号が点滅し、赤色に変わったので七絆は足を止める。桧兎美から大量に連絡が来ている端末を操作しながら、横目でそれを眺めていれば、見知った人物が人気のない小道へと歩いて行くのを見つけた。
あの特徴的な帽子と背丈はいつか公園で出会い、七絆の手を引いて“ゾンビ”から逃げた名も知らぬ少年だった。胡蝶が言っていたとおり、彼は本当に無事であったようだ。しかし、今の彼の表情は遠目から見ても引き攣っているように見えた。
それが心に引っかかったのと、あの時のお礼を言おうと七絆は青になった信号から踵を返し、少年が向かった小道へと足を向ける。まだその背中が見えていたため、小走りにその後を追っていけば、小道はいつの間にか人一人がようやく通れるほどの狭さになっていった。およそ普通の人間ならばこんな所を通ろうとは思わないだろうその道を少年は迷わず進んでいく。七絆も置いて行かれないように遠くにあるその背中についていく。
少しばかり開けた、とは言っても人がすれ違うのも難しそうな広さだ、その場所で少年は突然立ち止まった。急なことであったため、思わず七絆は道の途中に置いてあったのゴミ箱の影に隠れてしまった。特に隠れなければいけない理由もなかったが、自然と身体が動いてしまったのだ。
少年はきょろきょろと辺りを窺ってから、何事か声を上げる。その声とともに奥からフードを被った長身の人物が出てくると、少年は腰に下げたポーチから金を出した。数千円なんて可愛いものではない。かなりの分厚さがある札束を渡していたのだ。
七絆はすわ脅迫かと身を固くする。しかし、それにしては少年もフードの人物も暴力的な雰囲気ではなく、粛々と己がすべき行動をしているように見えた。緊迫した雰囲気ではあるが、どちらかと言えば交渉、あるいは取引をしているようだ。七絆はそれを固唾を飲んで見ていた。
フードの人物から少年に渡されたものは先ほど七絆が貰ったような小さな紙袋だった。それの中身を取り出した少年が掲げたのは小さなアンプル。透き通るような、陽の光を受けた水面のような青色の液体が入っている。
その瞬間、七絆の頭の中がスパークした。あらゆる音が遠くなり、目の前で見ている景色から意識が引き剥がされる。
あの色を“ ”はよく知っていた。否、何かはわからない。けれど、その色には憶えがあった。深い青色から湧きだす透明な水を通して見るそれを“ ”は―――
記憶の中の“ ”は美しく、それでいながら無垢な子どものようにはにかんでいた。遠い遠い、意識階層を幾つも隔てたその先で笑っていた。花が綻ぶような、なんて陳腐な言葉では言いあらわせないほど晴れ渡る微笑みだった。
それをみて、『私』たち、否、『私』は―――それに強く焦がれたのだ。
嬉しい? 楽しい? 懐かしい? 悲しい? 羨ましい? ―――わからない。
わからないけれど、『私』は―――。
次の瞬間には七絆の身体は勝手に動いていた。頭は茹ったように熱を内包しながら立ち上がり、一歩踏み出していた。その際の物音で少年とフードの人物が素早く振り返る。少年は手元のアンプルを袋にしまい、フードの人物に目配せをした。それを受けてその人物は素早く踵を返すと奥へと走り去っていく。そして、ようやく七絆を見とめた少年の口が驚いたかのように微かに開いた。
「あんた、なんで……」
漏れ出した言葉が七絆を憶えていることを示唆していた。しかし、それすらも膜に覆われたように反響して聞こえる。景色もぼやけて見える。まるで自分の身体ではないかのように制御しきれない。ふらふらと少年に歩み寄っていく。彼女の瞳孔は見開いており、尋常な様子ではない。見開かれた瞳は血走って、鼻血を出しながらもそれを拭る素振りもなかった。
「……止まれ」
「それはあの子の血だろう」
「はっ? 血?」
あまりに奇異な七絆を相手に警戒を露わにする少年に対して、それは見当違いな言葉を吐いた。意味がわからず、少年は素っ頓狂な声を上げる。
「どうして、あの子は? あの子は何処に行ったんだ? 蘇芳はいたのに、立藤もリーネンもいない。今はいつの時代だ? ボクは、ボクは―――、ボク? えっ、私、何言って。いや、『私』たちは―――」
「な、あんた、何言ってるんだ? 頭おかしくなっちまったのか?」
「あたま、おかしく―――? 『私』たち、私―――」
途端に七絆の全身を覆っていた薄膜が破れたように、五感が受け取った情報が身体に流れ込んできた。それ以上に混乱した脳内はその負荷に耐え切れず、七絆は思わず膝をついてしまう。
高熱を出しているみたいに動悸が止まらない。全身から冷や汗が流れているのを感じる。まるで全力疾走したかのような喘鳴音がやけに耳についた。どろりと流れ出す鼻血が顎を伝って気持ちが悪い。
「おい、大丈夫か!?」
先ほどの警戒心はどこへ行ったのか、少年は上体を丸める七絆に駆け寄ってその背に手をやった。少年は七絆を置いて行くべきだったのに、その優しさゆえ触れてしまった。冷たいその手のひらが心地よく、上がった息を落ち着けるかのように七絆はゆっくりと深呼吸する。
「……やっほー、ひさしぶり」
「久しぶりって顔色でもないし、この状況でよくそんな挨拶できるな。なんか包帯も巻いてるし」
「いや、思いの外平気。それよりも、いいの?」
「……なにが」
「わかってるくせに、わからないふりをするのは利口とは言えないよ。頭ががんがんして朧気だけど、私はきっと見てはいけないところを見たのじゃない?」
七絆のその言葉に少年は押し黙った。けれど、背に沿えたその手は離れない。七絆は垂れ落ちた髪の隙間から少年を盗み見たが、深く被っている帽子がその表情を見せない。
ようやく息が整って、頭の痛みが引いてくる。七絆はカバンから取り出したタオルで汗を拭うと、落ちてきた髪をピンでとめ直した。ティッシュを数枚とって鼻を抑えれば、真白なそれはすぐに赤く染まっていく。
七絆には少年がその手に持つ紙袋の中のアンプルが何かを知らない。けれど、あれほどの大金をこんな小さな紙袋に詰まるくらいの量の薬に使っているのだ。中身は一般的な薬用品というわけではないだろう。それこそ麻薬レベルの表には出せないものだと予想はできる。
「どうしたの、とか、何してたのって聞いて欲しいの?」
その愚直なまでにストレートな質問に少年は虚を突かれたような表情をした。そして、すぐにその顔は怒りで染まっていく。そのまま去ってしまえばいいものを、少年は勢いよく七絆の胸倉を掴み上げた。
「ッ、自分たちが上だとでも思ってんのかよ! いつも、アンタたち人間はいつもそうだッ!」
その勢いのまま上を向かされて、口内に鉄錆の味が広がっていく。鼻を抑えていたティッシュは衝撃で七絆の手から地面に転がり落ちた。
「……アンタには、アンタたち人間には、俺たちの惨めさがわからないだろうな。いつだってそうだ。味方だ味方だって言いながら、本当のことを知ると手のひらを返して、化け物でも見るかのように見るんだ。殺せ、殺せって喚き始める。ほんっと、反吐が出るんだよッ!」
「いきなり何? それとも感傷に浸りたいお年頃かな。私は私のことはわかるけど、その他大勢、他人のことなんてわからないよ。言いたいことがあるのなら、理解してもらえるように言うべきだと思うけれど」
七絆に向かって吐き捨てられる言葉を涼しい顔で彼女は躱す。何が少年の琴線に触れたかわからないのだ。確かに七絆の言葉は優しくもなく、どちらかと言えば察して欲しいと願う人の心を突き刺したものだろう。けれど、七絆はそれに気がつかない。言葉にしなければわからないから。
少年は手に持っていた紙袋を投げつけた。その中から転がり出てくるのは先ほども見た、青色の液体が満ちたアンプルだ。それを見ると、また先ほどのように産毛が逆立つような、血液が逆流しそうなほどの熱に侵されそうになる。視線が縫い留められて、瞳孔が開いていくのを七絆は感じた。思わず口を押さえれば、熱っぽく湿った呼気が手に当たる。
「それが何か知ってるか?」
無理矢理視線を外して少年を見れば、彼は七絆の胸元から手を離す。
「人間偽造薬、って言えばわかるだろ?」
少年は皮肉気な笑みを浮かべたまま。馬鹿にしたような口調でそう言った。その単語に七絆の記憶の片隅がちらつく。
“ゾンビ”の簡単な判別の仕方。鼓動がなく、体温がない。だから、その胸に耳を当てれば、その手に触れてみればわかってしまう。特に『タカ』は特殊な機械を持っており、その人物を見れば心音の有無がわかる。とても簡単な“人間”と“ゾンビ”の見分け方であるが、潜在型で言ってしまえば、それ以外に見分ける方法がないのだ。
つまり、それさえ誤魔化してしまえば人間と見分けがつかなくなる。そして、それを可能にする薬があると。人間のお遊び程度の噂であるが、そんな話を七絆は耳にしたことがあった。
そして、それを買っているということは、この少年は―――
「ほら、逃げろよっ! 今まさにアンタの前にいる男の子は化け物でしたって! さっさと人通りの多い所に行って、助けてくださいって叫んでみろよ! 普通に暮らしてる、誰にも命を狙われないアンタにはわからないだろ。早く行けよ、急に殺しにかかるかもしれないぜ?」
少年の言葉は自嘲めいていて、その表情には諦念が浮かんでいる。どこか疲れ切ったようにも見えて、それでいて縋るような顔つきだった。
あの夜に見た、彼と同じ表情で。
それを見た時点で七絆からは『助ける』という以外の全ての選択肢が消えていた。
七絆は地面に散らばったアンプルを紙袋に詰め込んだ。少しぬかるんだ地面に落ちたそれらを少しばかり強引に入れていく。人が通りそうもない見通しの悪い小路であるとはいえ、今は昼真っ盛りだ。太陽は頂点に上り、辺りを明るく照らしている。探検心の強い人間が入ってこないとは限らない。そうしたら、二人の姿は丸見えだ。
「は、あんた、なにやって……?」
それに加えて、少年が大声を出したこともある。ここがいくらどん詰まりであったとしても、音は反響して外に響いていく。風に乗って誰かに聞こえていないとは限らないのだ。
七絆は膝が汚れるのも構わず、紙袋に偽造薬を入れきった。いつの間にか止まっていた鼻血を左手で拭えば、白い包帯に僅かばかり赤色が走った。そして、少年に向かって紙袋を突き出す。
突き出された紙袋と七絆の顔の間で視線を往復させる少年は眉根を寄せて、信じられないものでも見るかのようだった。
「正気か? 気が変わって、口封じのためにアンタのこと殺すかもしれないんだぞ?」
「正気も正気。それに“ゾンビ”にはもう二度ほど殺されかかってるからね。その時は全力で抵抗させてもらうけど、『タカ』は呼ばない。これは私ときみとの喧嘩だから、第三者が介入するのはおかしいでしょ」
少年はいよいよ目の前の少女が理解できなくなった。理解ができないものには恐怖を抱く。困惑が見えた少年の顔には徐々に恐怖の色が現れてきた。
「は、早く逃げろよ……。俺は―――」
「逃げないさ。私は優しい“ゾンビ”を知ってるから。きみはいいやつだ。二度も私のことを助けてくれたんだから。ああ、いや、何も言わなくったっていい。私は彼が信じた私を信じる。きみの感情は関係ないよ」
「……なんなんだよ、お前。それで俺たちの痛みを知ったつもりかよ! 偽善なんていらない! 『タカ』にでも何でも通報して、どっか行っちまえよ!」
突き出された袋は少年の手に振り払われ、また地面へとも落ちていった。七絆はそれを拾い上げると、同じように彼に突き出す。強い意志を湛えた少女の瞳が少年を貫いている。
「言ったろ。きみの感情は関係ないって。私は生まれてこの方、ずっと人間として生きてきたからね。きみたちの痛みなんて、知りたくて知りたくてたまらなくなるほど、喉から手が出るほど欲しくたって、わからないさ。だから、私は私の感情に従うことにする」
少年にはこの目の前の少女が『本当に人間であるのか』がわからない。今までの人間は彼が“ゾンビ”だと知るや否や悲鳴や罵声を上げて逃げていった。友達も、本当の家族さえも。
まるで自分が化け物にでもなったかのような気分だった。ちゃんと意識は“人間”としてあるというのに、そこらで暴れ回る獣のように彼を扱うのだ。それでも、あの事件が起こるまでは自分のことを“人間”だということを信じて疑わなかった。
自分自身の全てを否定された気分だった。何もかも信用できなくて荒れたこともあった。
それをひっくるめて全てを抱きしめてくれたのが、地下で暮らす今の“家族”だ。彼らの役に立ちたかった。それなのにまだ子どもだと窘められて、勝手に否定された気になって、今も誰にも言わずに薬の調達に手を出した。
それが己以外にも危険をもたらすものと知りながら、それでも褒めて欲しくって。
少年の感傷は空をつんざくような警報音によって掻き消された。音源は七絆の端末からで、彼女がポケットから端末を取り出すとその画面に警報マークが出ている。
『白百合病院付近で“ゾンビ”の発生が確認されました。周辺住民の方々は速やかに帰宅、もしくは近くの建物に避難してください』
無機質な女性の音声が流れて、少年は言葉を失った。頭から氷水でもかけられたかのように血の気が引いていく。がたがたと勝手に震えるのは決して寒さのせいではない。
今のは何度も聞いたことがある死の音だ。
そして、今それは己に向けられていることを理解してしまった。
「こっち」
七絆は端末の電源を落とすと、固まってしまった少年の腕を掴んで大通りに向かって歩き始めた。少年が放心している間に彼のウエストポーチに紙袋を詰め込むのも忘れなかった。これを持ち帰れば、救われる人が多くいるのだ。何よりも、これは少年の勇気の証だ。七絆が持っていていいものではない。
腕を引っ張られる少年の足取りは未だにおぼつかない。ほとんど七絆が引っ張っている力で動いていると言っても過言ではない。いつぞやとは正反対の光景だった。
大通りへ顔を出せば、既に人影はほとんどない。しかし、幸いにも『タカ』の姿も見えなかった。この辺りの地域に七絆とて明るくはないが、隠れながらでも歩いて行けばどこかへ逃げられるだろう。
大通りに出ようと一歩踏み出すが、今度は少年の足はピクリとも動かなかった。七絆が怪訝そうに振り返れば、少年は俯いたままだ。
「……どうして庇ってくれるんだよ。アンタも殺されるぞ」
ぽつりと、少年が呟いた。
本当はこんなことをしている場合ではない。一刻も早くこの地を離れないと、それこそ『タカ』が来てしまう。そうしたら、少年だけでなく七絆とて危険だ。
“ゾンビ”の排除に盲目であるからこそ、“ゾンビ”を匿う人間にすら容赦をしないと言われている『タカ』のことだ。“ゾンビ”を匿った人間だって殺害対象なのかはどうであれ、この場面を見られたら七絆も逃亡幇助の罪を問われるだろう。何よりも、七絆には零がいる。七絆が取るべき最善解は少年が“ゾンビ”だとわかった時点でこの場を離れることだった。ここで『タカ』に捕まりでもしたら、七絆の自宅にもその魔手が伸びるだろう。
けれど、七絆は彼が“ゾンビ”だとわかったその時点から、その考えを捨てた。ここで少年を見捨てたりでもしたら、それはあの夜、零に誓った全てをこの手で破り去ることと等しいのだから。
少年もまた、零の被害者なのだ。そして、零が傷つけた一切を救うと決めたナズナがいる。ならば、考えなくても取るべき行動は一つしかない。
「どうしても、こうしても何もないさ。私がこうしたいと思ったことをしているだけ。それがきみを『タカ』に突き出すことじゃなかったってこと。偽善だとでも嘲笑えばいいよ。それでも、私は自分が後悔する行動をしたくない。彼に恥じるような行為はしたくない。それに―――」
「それに?」
「セーター、返してもらってないからね」
七絆が茶目っ気たっぷりにそう言えば、強張っていた少年の表情がようやく少しだけ緩んだ。
「いこう。どこへ行けるかはわからないけれど、ここから離れよう」
七絆は一際強くひどく冷たい少年の手を握ると、大通りへ飛び出した。少年もそれに合わせて走り出す。予想よりも大きく、しっかりと包み込んでくれる少女の手に引かれたまま。
ストックをどんどん削っているため、残りが少なくなってどきどきしている挙句にスランプという負の役満状態にあります故、更新が遅くなりそうだなぁと思ってます。
それにしても先日一周年迎えた割には結構文字数頑張っている方では?と思っていますが、びっくりするほど話が前に進まないですね。まじで長いですね。今年中には終わらせたいなって思ってますが、多分無理だなと思ってます。のんびり付き合ってください。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




