未血
第五十二話。
「きみを見ていると、ひどく、ボクが人間に成ったのだと感じるんだ」
ボクの言葉に、彼女は僅かに口元を緩めた。相も変わらず表情の薄い彼女だけれど、その実その胸の中にありとあらゆる感情が宿っているのをボクは知っている。そして、ボクは何よりもそれを好ましく思っている。好ましく、想っている。
好ましい。好意を抱く。好意。愛おしい。愛。愛を抱く。
成立しない賭けはもはや破綻していたが、ボクはこれでよかったのだと思う。創造主の意思に反している自覚はあるが、この胸の奥の柔らかさを守るためならばきっとなんだってできる。
「ねぇ、―――」
名を呼べば、澄んだ青色がボクを見る。
そうして美しく煌めきだすのだ。
遠い過去でボクが眺めたあの惑星のような、きみの瞳がボクを見つめる度に星の閃きを見せるその色が。
ボクは何より好きだった。
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ひどく頭が痛んで、思わず眉間にしわが寄った。瞼を開ければ、ぼんやりと白い天井が見えた。霞む視界は何度か瞬きすると、徐々にぶれがなくなってくる。ずきずきと頭の芯が痛むが、身動ぎすれば自分が薄緑色の検査着を着ているのに気がついた。身体を起こそうと肘をベッドに着けば、横から伸びてきた手に制される。
「目が醒めましたか。体は起こさないで、この指は何本に見えますか?」
次いで心地よい低い声とともに、目の前に節くれだった長い指が翳される。視界を動かすのも億劫であったが、七絆はその指を見て口を開いた。
「二本……」
「特に視力に影響はなさそうですね。それでは、あまり頭を揺らさないようにゆっくり起きてください」
背中に大きな手が添えられて、七絆はゆっくりと上体を起こす。その間にちらりと声の主を見れば、白髪混じりの長い髪を一本に結い上げた白衣の男性が座っていた。上背はそれなりに高いのだろう、椅子に座っていても見て取れるほどだ。
「自分のお名前は言えますか?」
「嘉翅……七絆です」
「はい。記憶にも影響はなさそうですね。ここは白百合坂病院です。学校の体育中に頭を打って運ばれてきたんです。憶えていますか?」
「そういえば、荒川さんの蹴ったボールが当たって……」
「頭を打ちつけたということでしたので、CT検査も行いましたが、脳に異常はありませんでした。ただ、大きな瘤ができてしまっているので、もう一時間程度は経過観察も含めて病院にいてくださいね」
人好きのしそうな笑顔で医者がそう言うので、七絆は緩慢に頷いた。未だに思考に靄がかかったままなのだ。そんな鈍い頭でも僅かに働くものがあったのか、医者の名前掛けでも把握しようと揺れる名札を見る。
その視線に気がついたのか、医者はまたもやにこりと笑うと、自らその名札を七絆に差し出した。
「そう言えば名乗っていませんでしたね。私は寂光院竜胆と申します。この病院の外科医でして、脳神経外科が専門なんです。嘉翅さんに大事がなくて本当によかった。後頭部は頭の中でも打ちつけると危険ですからね」
てきぱきとカルテにペンを走らせながら、竜胆はそう言った。七絆はこの頭の中の靄を消したくて頭を振りたいが、僅かばかりでも頭が揺れると鈍い痛みが走るのでその様子を何とはなしに眺めていた。
「とは言え、病室でじっとしているのも暇でしょう。体に異常がないか確認するためにも、近くの休憩室くらいなら行ってきても大丈夫ですよ。倒れるのなら、人の多い所の方がいいですし。はい、これ」
竜胆がポケットから取り出したのは一枚のカードだった。それを七絆に差し出してくるので、素直に受け取ってその表面を見た。カードにごてごてと缶やペットボトルのイラストが描いてある。
「これは?」
「自販機のカードリーダーに翳してください。この病院だけで使えるプリペイドカードですよ」
「こういうのって、いいんですか?」
「ふふっ、内緒ですよ?」
竜胆は茶目っ気たっぷりに人差し指を唇に寄せると立ち上がった。七絆の見立て通り、背が高い。零よりも高いのではないかと思うのは、七絆が座っているからだろうか。
「また後で来ますので、カードはその時にでも返してください。あっ、自由にしていてもといっても限度はありますからね。激しい運動は勿論のこと、飲み物を買ったらここで大人しくしていてください。痛みがひどいようでしたら安静にしていてくださいね」
病室から出て行く時にひらひらと手を振られ、七絆もおずおずと振り返した。久しぶりにここまでの子ども扱いをされた気がする。きっと上背があるから子どもに恐がられやすいのかもしれない。その癖が抜けていないような印象を受けた。
竜胆が去ったのを確認してから、七絆はカードをぺらぺらと振った。別に一時間くらい大人しくはできるが、折角貸してもらったのだ。使わないというのも何となく申し訳なく思えるの半分、単純に喉が渇いていたの半分、七絆は休憩室に向かうことにした。それに身体に異常がないかくらいは確認しえおきたい。
その前に検査着だけだと寒いので、傍らに置いてあった制服からカーディガンを引っ張り出して羽織る。そう言えば、セーターを返してもらっていなかったのと思い出した。あの時共に“ゾンビ”に追われた少年は無事だろうか。とはいえ、七絆にそれを確認する術はない。胡蝶辺りにもう一度聞いてみようかと思うが、きっと彼は「心配する必要はない」の一点張りだろう。
ならば、やっぱりそれを信じるしか、七絆はできない。
スリッパをつっかけて休憩室へ向かうため、病室を出る。休憩室の場所を聞いていなかったがどうにかなるだろう。病院なんてどこも似たような作りなはずだ。とはいえ、七絆は万年病気や怪我とは無縁だったので、堂々とそんなことを言えるだけの経験はない。
窓の外は打って変わって空が遠く抜ける晴天だった。
「ねぇ、そこの貴方」
とりあえずナースステーションにでも向かうかと廊下を歩き始めた時、背後から声を掛けられて七絆は立ち止まった。きょろきょろと辺りを見るが、廊下には七絆しかいない。自分だろうかと振り返れば、視線の先には杖をついた高齢の女性が立っていた。
髪はすべて白髪になっており、顔に刻まれた皺は年齢を感じさせるが、それを取り払っても綺麗な顔をしている。つり上がった眦が少々人を遠巻きにしそうだが、昔は周囲が放っておかないほどだろうと想像ができる。杖を突いている者のその背筋は背中に針金でも通っているかと疑うほどに伸びていた。
「えっと、私、ですか?」
「……ええ、貴方よ」
七絆が答えた瞬間、老女は一瞬怪訝そうな表情をしたものの、その問いかけに首肯した。
「その、人違いではなく? どこかでお会いしたことありましたっけ?」
今度は七絆が首を傾げる番だ。どれほど記憶を巡ってみても、目の前の彼女に見覚えが全くない。彼女は七絆のその態度に元々つり上がっていた眦をさらにつり上げる。あまりの迫力に七絆は思わずひえっと小さく悲鳴を上げた。
老女は杖など必要ないかのようにつかつかと七絆の元へと歩み寄ると、思いの外強い力で七絆の手を取り、あろうことかそのまま引っ張り出した。いきなり引っ張られたため七絆は体勢を崩しかけるが、なんとか耐えきった。頭も痛むし、手を振り払うわけにもいかず、そのままずるずると引きずられていく。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと? どこに連れていくんですか? その、一応怪我人なんですが?」
「会ってほしい人がいるのよ」
病院のため大声を出せないので、七絆が小さい声でそう問えば、老女は短くそう答えた。その答えだけでは納得などできるはずもない。もしかしたら、この人は認知症か何かで七絆を誰かと間違えているのかもしれない。しかし、助けを求めようにも生憎廊下には看護師も誰もいない。
「あの、私、嘉翅七絆っていうんですけど、人間違いしてませんか?」
「貴方の名前なんてどうでもいい。いいから、口答えせずについてくる」
七絆の心に浮かんだ希望は容赦なく切って捨てられた。その態度に思うことがないわけではないが、ここで抵抗して彼女が倒れでもしたら悪いのは七絆だ。こうなったら為すがまま、為されるがままが最善である。別についていった先で殺されるわけでもなし、七絆は唇を尖らせながら黙って彼女の後ろをついていく。
「ここよ」
エレベーターに乗って、ついた先は6階のフロア。その一室が彼女の目的地だったようで、すたすたと病室に入っていってしまう。その手に引かれた七絆はネームプレートすら確認できずに病室へ吸い込まれた。
病室の中ではたくさんの機械に繋がれた一人の男性が眠っていた。その口元には呼吸器がついており、辛うじて生きていることを知らせるバイタルサインが一定間隔で鳴っている。入院して長いのだろうか、艶の失われた黒髪は男性にしては長く、肩甲骨当たりまで伸びていた。けれど、痩せているということもなく、顔色もさほど悪くない。ここが病室でなく、生命維持をする機械もなければ眠っているようにも見えた。
「あ、あの……?」
戸惑ったように七絆は老女に声を掛けるが、彼女はその声が聞こえていないように無視した。
「貴方、“彼”を連れてきたわ」
七絆は音がつきそうなくらい勢いよく顔を彼女に向けるが、老女はベッドの柵に手をついたまま男性を見ていてこちらを見向きもしなかった。
確かに今の七絆は下はズボンの検査着であり、胸も確かにまな板と言われてもぐうの音が出ない体型ではあるが、ここまではっきりと男扱いされるとは思ってもみなかった。しかも先ほど出会ったばかりの女性に、だ。服装次第では少年に間違えられる七絆ではあったが、それでも彼女の声を聞けば皆が少女であったと間違いを正してくれる。しかし、道中で七絆の声も聞いているから少女だとわかっているはずなのに、そう言ったのだ。
「貴方は“彼”と仲がよかったでしょう。それに、“彼”の血があれば、貴方は目覚められるはずなのよ。リーネンの研究でそれが証明されたわ。その時に私を忘れていたっていいわ。植物を育てるのは得意だけれど、人の世話は苦手なの。貴方も散々そのことを馬鹿にしていたでしょう。馬鹿にしたっていいわ。貴方が起きてくれるのなら」
やはり、誰かと間違えられてるのではという考えが頭を過ぎる。老女は尚も眠り続ける彼に話しかけ続けているが、恐らくは植物状態なのだろう、青年が目を覚ますことはない。どうしてかその光景にひどく胸が痛んだ。まるで旧知の友が床に臥せっているのを見ているかのような気分だった。
何よりも、今この状況が七絆にとっては未知で不気味なものに思えた。先ほど女性が言っていたことに何一つ憶えているものはなかったが、そのくせ頭の奥底がぞわりと蠢くのだ。
その不気味さから七絆は早々にここを離れたかった。それに一時間以内には病室に戻らなければならないので、七絆は抜き足差し足でドアに向かうが、横から伸びてきた手に左腕を掴まれてしまってそうもいかなくなった。せめて廊下に出て誰かを呼ぶくらいはしたいのだが、それすら許されなさそうだ。
「どうして起きてくれないの? 血を飲ませるところまではあってたはず。“彼”もそう言ってた。あの血が間違っていた? そんなはずないわ。“彼”は私にも貴方にもあの子にもリーネンにも渡していた。間違っているはずがない。じゃあ、何が違うの? 貴方だって選ばれるはずよ。いえ、はずなんかじゃない。選ばれたのよ。いや、―――ああ、そうね。その手があったわ」
彼女はぶつぶつと呟いていたかと思うと、何かに気がついたように顔を上げた。そして、じとりと粘ついた視線を七絆に送る。そこで初めて彼女の瞳の奥を覗いた。
その視線がぶつかった時、七絆の背筋に悪寒が走る。
これはいけない。生存本能だったのだろう。倒れて怪我しようが構わない、なんとか左手を振り払ってここを一刻も早く立ち去るべきだ。それなのにどこからそんな力が出てくるのか、石で固められたかのように老女の手は離れない。じわりと嫌な予感とともに汗が浮き出てくる。
手を振り払おうと躍起になっていた七絆は気がつかない。思いっきり腕を引っ張られて、青年の眠るベッドの柵に身体をぶつける。掴まれたままの左腕を引っ張り上げられて、七絆より大分低い体温にその手が触れた時―――
きらりと銀色が光を受けて輝いた。
刃が肉を突き破る感触とともに、内側から熱い液体が噴き出す感覚がする。一拍遅れて頭を突き抜けるような痛みが左手から駆け上ってくる。頭の痛みなんて比じゃない、新鮮な痛みだ。悲鳴を噛み殺せたのが不思議なくらいだった。
老女の手から力が抜けたのを見計らって、七絆は右腕を目いっぱい伸ばして近くにあったボタンを押した。何のボタンかはわからなかったが、この状況を打破できるのであればなんでもいい。七絆の念が天に通じたのか、程なくして廊下が慌ただしくなり、乱雑な手つきで病室の扉が開けられる。
開いた扉の先には息を上げた竜胆と数名の看護師が立っていて、病室の様子を見て絶句していた。先ほどまで別のフロアの病室にいた少女が顔を青くして左手から血を流していて、その脇には無表情の老女が血のついた剪定鋏を持っているのだ。この状況の意味がわからない。
しかし、医師として唖然としたままでいるわけもいかない。
「大丈夫ですか、嘉翅さん!」
看護師数名が老女より剪定鋏を取り上げているのを確認しつつ、竜胆は七絆の左手を取る。彼女は恐怖と痛みでだろう、顔を青くしながらも、こくこくと頷いた。けれど、やせ我慢だろう、鋏では骨を断ち切ることができず肉を抉ることしかできなかったのか、刃が滑った形で骨が露出している。それでも骨を避けた部分は手のひらへと貫通していた。
「止血帯と包帯、あとは消毒を持ってきて! 嘉翅さん、心臓より上に左手を上げていてくださいね」
七絆を椅子に座らせて、竜胆は看護師が手渡してくる器具で次々と処置を進めていく。傷口が開いてしまっているからか、竜胆は針と糸を持ってこさせると七絆の傷口を縫合していく。当の彼女は青褪めたまま、右手を口元にあててその様子をじっと見ていた。
傷自体はそう大きくなかったのか、縫合が終わると真っ白な包帯がするすると巻いていかれる。左手を固定している竜胆の表情は固い。
処置の終わった七絆の左手を高さの調節された机にゆっくりと置くと、竜胆は看護師に囲まれている老女を見た。
「……小暮さん、どうしてこんなことを」
小暮と呼ばれた老女は顔色一つ変えることなく、無表情のまま、いっそ堂々と竜胆を見返した。
「猫ヶ森くんが目を覚ますには必要なことだったの。大した傷でもないし、騒ぐほどでもない。“彼”にとってはそれくらい掠り傷よ。それに植物は摘芯されたって悲鳴なんか上げないわ。あの子たちはわかってくれているもの」
「彼女は植物じゃない。血の通った人間です。痛みも感じるし、恐怖だって感じる。あなたがしたことは許されることではありません」
「血が通っていないと生物と認められない性質の人間なのね、医者って。植物だって痛みは感じるし、愛情を注げばその分綺麗な花を咲かせてくれる。人間なんかよりずっと賢くて、美しいわ」
「……あなたがかつて高名な植物学者だったのは存じています。けれども、今は植物の話をしているのではありません。あなたが傷つけた人間の、罪の話をしているんです」
「人間? “彼”が? それこそ、貴方、頭がおかしくなったのではなくて? 神は人間ではないわ。そんなこともわからなくなったのかしら」
「……話にならない。すみません、私は一度嘉翅さんを病室にお連れします。きみたちは小暮さんを精神病棟の方にお連れしてください。あとで私もそちらに向かいます。―――恐い思いをさせましたね、嘉翅さん。私と一緒に病室に戻りましょう」
竜胆は腰を落として七絆の顔を覗き込むと、知らず知らず握りしめていた右手を優しく取った。強く引っ張ることはせず、七絆がゆっくり立ち上がるのを見てからその手を引いて病室の扉へと向かっていく。七絆はあまりの展開に未だ頭が混乱しており、為されるがままだ。
病室の扉を潜った時、その様子をじっと見ていた小暮が口を開く。
「ねぇ、カミサマ。私たち、あの時みたいに五人で幸せになれるわよね。わかっているはずよ、ねぇ、カミサマ。貴方が何よりも望んでいるはずでしょう」
振り返れば、年老いて色を失った虚ろな瞳が七絆を見つめていた。否、七絆というフィルターを通して、己自身が望む神を見ているのかもしれない。
竜胆に手を引かれながらも、その瞳から目が離せなかった。
七絆の中身を、その深淵に触れるそれが恐ろしかったのだ。
ベッドの柵から落ちた手の甲から血が垂れている。
一瞬だけ、眠る青年の瞳がこちらを見た気がした。
原神にハマってしまったので更新が亀になります。ちなみに私は健康優良児のため入院したことがないので、病院がどういうとこかよくわかってません。へけっ。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




