薄情者の空想論
第五十一話。
憂鬱である。
七絆は机の上に出された体操着を睨む。体調不良と言って休んでしまいたかったが、零と出逢って行こう休みがちのため、そろそろ顔を出しておかないといけない。それに昨日のこともあり、凍雲の動向を探るためにも嫌々登校して来たら、七絆が最も嫌う授業科目があったのだ。
結局あの後、零と一致した意見は『今までどおり過ごす』という現状維持のものだった。凍雲には家を知られているし、なぜか零のことを知っている素振りも見せている。ただ、凍雲の言う“ゾンビ”が零とは限らないが、ハッタリにしたとしても警戒しておくに越したことはない。何事も十全な準備が勝敗を分かつのである。
家の中が覗かれないようにカーテンを全部閉め、さらに明かりが漏れるといけないので電気もつけてきていない。零には異音が聞こえた時点で隠れるよう指導もしてきた。懐中電灯を片手に読書に耽る彼が正しく理解しているかは甚だ不安であるが。現状はそれ以上の対策が出来ないため、七絆が学校に行って凍雲の様子を見ることにしたのだ。虎穴に入らずんば虎子を得ず、である。
そうしたらこれだ。4限に体育を入れるとか正気かと思いながら、正気を疑うような真っ赤な学校指定のジャージにしぶしぶと袖を通していく。特に凍雲に変わった様子はないし、教室の中じゃ普段通り振る舞っていた。ただ、時折陰湿な視線を感じるのは凍雲のものだろう。こちらに寄ってくる素振りはないが、だからと言って七絆から接触するのはまだ早い。ただ、相手の考えが全く読めないところがなんとも不安を煽る。まるで未知のものに相対している気分だ。そんなことを考えながら、七絆がジャージの首元までジッパーを閉めれば、ちょうどその時肩を叩かれた。
「ここんところ休みがちだけど大丈夫? なんか調子悪い感じ?」
振り返れば荒川菫が気軽に片手をあげていた。こんな寒い中剥き出しの脹脛は見ている方が冷えてきてしまいそうだ。通常時と違って、高く結い上げられた髪から見える項も寒々しい。
「いや、ちょっと家の用事とかもあって。まぁ、階段から落ちたりして病院に行ったりしてたから」
「えっ、階段から落ちたの? そりゃあ大変だったね。ってことは、今日は見学?」
「いや、怪我自体は大したものじゃないし。私体育の成績はあまりよくないから出席だけはしておかないと思って。」
「あー、なーる。今日はサッカーだし、ゴールキーパーとか突っ立ってればいいから、確かに出席しといた方がオトクね。どうせバスケとかと一緒で玉取合戦になることは目に見えてるし、外側でぼけっとしてれば終わってるしね」
「荒川さんは私と違って期待されてるんじゃないの。運動神経いいもんね」
「あ、嫉妬?」
「まさか」
軽率に菫の手が肩に回されて、その気安さから逃れようと思ったところで昨日の零に言われたことを思い出して止めた。クラスメイトを邪険に扱って敵対する必要はないのだから、これくらい我慢しようと思ったのだ。
そも、七絆には我慢も何も、そこに何の興味も介在してはいないのだけれど。ただ存在しているな、くらいのものである。
「いやー、おんなじ班になれるといいねぇ! そしたら、そっちにボール回さないし。じゃっ、お先っ!」
菫は一際強く七絆の背中を叩くと、噎せる七絆を置いてとっとと教室から出て行ってしまった。一体何だったのか、そもそも彼女とはそんなに仲良くないはずではと思っている七絆だったが、その考えを改める必要があるのかもしれない。叩かれた背中がじんわりと熱い。
「……まぁ、少ないより多い方がいいか」
友達とは別にそういうものでもないのだが、七絆は一人納得してうんうんと頷きながら教室を出る。
「な、七絆ちゃん」
教室を出た七絆の背中に声がかかり、視線を向ければ月下桧兎美が小走りに彼女の元へときた。
「さ、最近お休み多いから心配してて……。もしかして、お義母さん関係だったりする?」
「いや、特にあの人は干渉してこないから。ちょっと体調崩したりしてただけだよ」
「……七絆ちゃん、学園祭の打上げがあった日から変わったよね。学校も休みがちだし」
「そうかな」
まただ。人間は変化に敏感でなければいけない呪いにでもかかっているのだろうか。それとも、差異を指摘して理解した気にでもなっているのだろうか。七絆自身は自分がそんなにも大きく変化したとは感じていない。零と出会ったことで変わりはしただろうが、それを知ったように指摘されるのは腹の底がぐるりと唸る。
その話題を断ち切るかのように七絆が足早に階段を下りれば、慌てたように桧兎美も後ろをついてくる。
「なんだか置いて行かれたみたいで寂しいな。きっと七絆ちゃんとは進路も違うだろうから、卒業前までに一回くらい遊びに行きたいね」
「そうだね」
まるで昔からの親友にでも言うかのように桧兎美は七絆にそう言った。たいして何も考えずに適当に相槌を打ってやれば、彼女は目を輝かせる。体育用のスニーカーの靴ひもを結びながら、桧兎美の言葉をBGMに七絆は昨日零に言われた言葉を思い出していた。
「……やっぱり面倒くさいな」
興味のないものに興味を持つということは存外難しいのだなと七絆は学んだ。桧兎美には聞こえていなかったようで、大きく瞬きをしていた。
七絆は白い息を吐きながら、ボールに群れるクラスメイト達を見ている。コートに入っているにもかかわらず、七絆の両手は上着のポケットの中だった。一応ゴールキーパーを仰せつかっているわけだが、やる気は全くない。そもそもポジションも何も関係ない、ボールよりも人の足を蹴っている方が多いあの暴動のような争いに進んで参加したいと思わないのだ。
「あれを見ているとどうして人が争うかがわかるような気がする……」
この場合は少しでも他者によく見られたいという想いでもあるのか。というよりは、自身の優位性を見せつけて己の階級を確認したいという側面の方が強そうだ。あの子は運動ができないから、自分より下だと思いたいのだ。
運動音痴筆頭の七絆なんて一番活躍の場が少ないゴールキーパーを率先して押し付けられた。それを快諾した故、七絆はここで身を縮ませたまま、女同士の争いを遠巻きに眺めている。
「さっむ……」
動いていないためか、吐き出された白い息が一層身体を凍えさせる。生憎の曇天も相まって気持ちが落ち込んでいきそうだ。午後からは快晴というのが今朝の予報だが、本当に晴れるのだろうか。今にも雨が降ってきそうな天気だ。
雲が広がる灰の空を見上げて、彼女ははたと気がついた。脈絡もなく、本当に偶々。それは己自身の身体についてだ。
あの高い崖から落ちても五体満足ですこぶる健康状態なこの身体。七絆が七絆としての記憶を積み重ねてから風邪ひとつもひいたことのないこの肉体。そんな強靭な身体とは裏腹に、運動はこれっぽっちもだめだった。
けれど、一昨日のあの夜。研究所からあの公園まで止まることなく走りきれたのだ。肺は破裂しそうで、足は千切れそうな思いだったが、それでも走りぬいた。これまではいくら走り込みをしようとも何の成果も得られなかったこの身体が、ここ最近目まぐるしい成長を見せている。
喜ばしい反面、七絆は若干懐疑的でもあった。変な薬を飲んだわけでもないし、食生活を変えたわけでも、それこそ筋トレを始めたわけでもない。ただひとつ変わったことがあるとすれば、それは零が七絆のもとに来たことくらいだ。
あの夜、感染源だと宣った零の言葉を七絆はあり得ないと一刀両断した。そもそもなんの物証もないのだ。だからこそ、七絆はそう断じたし、その判断を間違いだとは今でも思っていない。
けれど、彼が“特別”だとも感じていた。それこそ確証はない。ただ、七絆が漠然とそう考えているだけだ。そもそも有疵性無死症候群のほとんどがわかっておらず、感染経路も不明である。七絆だって実際に見たことあるのは零ともはやこの世にはいない者たちだけで、何かを断じるにはサンプルがあまりにも少なすぎた。解体でもして観察したわけでもなく、教科書にだって詳しいことは書いてはいない。
それでも零が感染源ではないにしても、他の“ゾンビ”とは一線を画していることに違いはないだろう。そもそも悪即斬ならぬ“ゾンビ”即殺の『タカ』がこうも大っぴらに探し回っている存在である以上、普通ではないことは確かだ。ただ、零がもし特異性を持つとして、それが一体何にどのように作用するものかはわからない。
しかし、かと言って七絆の目覚ましい身体能力向上を分けて考えるにしては、色々と辻褄が合うのだ。記憶を失ってから約4年ほど経っても変わらなかったものが突如として変わったというのは一考に値する。そして、そこに“ゾンビ”は身体能力が一般的な人間よりもはるかに高いという事実を付け加えると、ある程度の考えはまとまるものだ。
だから、七絆はこう考えた。零と接触したことにより、七絆の肉体自体にも何かしらの影響が出ているのではないかと。
七絆は左胸に触れる。その下では確かに心臓が鼓動していた。“ゾンビ”はまず心臓が脈を打たないことが特徴として挙げられる。そこからわかることは、七絆は人間であるということだ。徐々に“ゾンビ”になるのか、それともすぐに“ゾンビ”になるのかというのがわからないところだが、とりあえず七絆は未だに人間のようだった。
もしも。
もしも、この現象が七絆の努力以外のものであれば。零と同じものになれるのなら。
それはそれで幸福なことだろうと、七絆は思うのだ。
今より生きづらくはなるだろう。こんな風に学校にも通えないだろう。店で買い物するのも難しくなったりするかもしれない。
それでも、同じ体温を分けあい、寄り添ったまま共にいれるのならば。
それはやはり幸福なことだと、七絆は想うのだ。
そこまで空想を繰り広げてから、頭を振って七絆は甘美な考えから頭を切り替える。現実の話をするべきだ。七絆のこの身体能力の向上が自身の何かしらによって上がったものであればいいが、そうではなく外部的なものだとしたら慎重になったほうがいい。特にこれが本当に零によるものだとしたら。
どういった経緯で零の肉体の恩恵を受けたかはわからないが、落ちこぼれに落ちこぼれを重ねた七絆の運動神経が常人まで上がったのだから、元々身体能力の高い“ゾンビ”が得たとしたら手に負えないことになる。七絆は決して“ゾンビ”擁護派であるとは言い難い。潜在型は話が通じるが、顕在型はどうしようもない。そのためにも『タカ』が勝てない“ゾンビ”の出現は認められない。
何にせよ、ここで考えを積み重ねても仕方がない。所詮は全て机上の空論であり、信じられるものはこの目で観測し、この頭で理解したもののみだ。
―――まず、本当に零が特異体質かどうかを知らなきゃいけないな。
と、そこまで思った時だった。
「あーっ、嘉翅さん!」
その声に顔を上げた時にはもう遅く、顔面にサッカーボールがめり込んでいた。
そこまでならよかったのだが。
七絆の立っていた位置がよくなかった。やる気のなかった彼女は両手をポケットに突っ込んで、ゴールポストに寄り掛かっていたのだ。声に反応して背を離したのがよくなかった。頭が動いた分だけ、その勢いのまま、七絆は後頭部をゴールポストに強かに打ち付けた。ごつんという衝撃にも近い音が脳内で響いて、ついでに揺れる視界。どれほど頑丈な肉体を持っていたとしても不意打ちで頭を打てば意識が飛ぶ。打ちどころが悪かったのかはわからないが、とりあえず七絆の視界に最後に映ったのは慌てている菫とその後ろで腹を抱えて笑っている小路だりあの姿だった。
小説を書いてるとこの先の展開を知っているからこそ、いきなり話が飛んじゃうようなことがあります。それを補おうとするとかったるい展開が増えるんですけど、作者側としては話しが通じてるか心配でぷるぷるしちゃうんです。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




