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リビングデッドにキスをして  作者: 神川 宙
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零れ落ちるもの

第四十八話。

 七絆は目を見開くと弾かれるように飛び起きた。冷や汗がひどく、今もなお背中を伝っている感覚に背筋が粟立つ。心拍数も上がって、鼓動の音が頭痛を引き起こしそうだった。右手で胸元の服を皺が寄るほど握りしめる。冷たいくらい静かな部屋に落ちる自分の呼吸の音すら煩わしい。

 目を強く瞑れば、頭の奥に見える赤色が七絆を責め立てる。思い出せないけれど、きっと嫌な夢だったのだろうと七絆は判断した。そうでもして切り替えていかないと、暗い想いに足を取られてしまいそうだ。

 ようやく落ち着いてきた鼓動に一つ深呼吸をしてから部屋を見回す。寝る前と同じ、紛れもない七絆の部屋だ。七絆はそのことに妙に安心感を覚えて、ようやく右手から力を抜いた。重力に従って落ちた彼女の右手はこつんと何かにぶつかる。

 ふと七絆がその正体を見れば、彼女の傍らにはすやすやと寝息を立てる零がいた。


 真白の髪に赤い瞳。七絆のヒーロー。大切な人で、守らなければいけない存在。

 そして、七絆が生きる全て。


 彼は七絆のサイズの零にとっては小さいベッドの上で、落ちないように小さく丸まっている。これだけ見れば他の人と変わらない。零が“ゾンビ”であることは誰にもばれはしないだろう。そっとその頬に触れてみれば、体温を返してくれることはないけれど。

 それでも七絆は思うのだ。顕在型でなければ、否、人を害さなければ“ゾンビ”だって人間の一部だと。

 かと言って、昨夜の惨劇を忘れたわけではない。ここで健やかに寝息を立てている青年がその身体ひとつであれほど惨たらしく一つの生命を文字通り引き裂いたのだから。“ゾンビ”であろうと、誰かの命を奪ったことには変わりはない。それが例え既に終わりを迎えた命であろうとも。


 けれども、それでもいい。七絆はそれを含めて、零に傍にいて欲しいと思うから。

 寄り添っていたいと思うから。


 七絆がその白い髪を優しく梳いてやれば、零はうっすらと微笑みを浮かべた。何かいい夢でも見ているのかもしれない。

 少しでも彼が優しい夢の中で生きられるように。彼に厳しいこの世界から少しでも逃避できるように。

 七絆はそんな甘やかな願いとともに零の頬にそっと唇を落とすと、寝ている彼を起こさないように慎重にベッドから降りた。昨日脱ぎ捨てた上着に袖を通して、カーテンの隙間から外を見る。昨夜の雨が嘘のような晴天だった。目覚まし時計を見れば、現在時刻は午前8時35分。今頃学校ではホームルームでもやっている頃だろうか。本日サボる気満々の七絆には関係ない。昨日は寝るのが遅かった割に、頭の中は晴れやかだ。零としっかり話ができたからだろうかと、七絆はベッドヘッドに置いておいた救急箱を持って部屋を出た。

 昨日はそれなりに傷んだ怪我だったが、不思議なことに一夜明けたら痛みはほとんどなくなっている。しかし、そうであってもあれほどの高さから地面に叩きつけられたのだ。念のため、医者に診てもらうべきだ。

 洗面所で鏡を見れば、晴れやかな頭の中とは真逆のかなりひどい顔をした七絆が映っていた。目の下には濃い隈ができているし、顔じゅうに擦り傷ができている。顔色が悪いのを隠せそうになく、無理矢理口元を上げて見れば、鏡の中の彼女も同じように不気味ににたりと笑った。その笑みを見た途端、ひどく嫌な思いが込み上げてきて、七絆は慌てて冷水で顔を洗う。

 軽く傷の消毒をしてから、救急箱をぶら下げたままリビングへ向かう。そこで七絆はダイニングテーブルに放置されたままの自分の端末に気がついた。昨日からそこに置きっぱなしだったようで、端末は冬の冷気で冷え切っている。端末を手に取った時、ふと七絆はあることを思い出した。

「そういえば、小金井さん、どうしただろう……」

 非常に気まずい思いをしながら過ごした帰り道。その途中で襲われたであろう小金井マリア。彼女の死体を確認したわけではないけれど、顕在型の“ゾンビ”がいたことからして生きてはいまい。昨夜は零とのことで頭がいっぱいになっていたが、冷静になってから考えると放っておくわけにはいかないだろう。七絆は彼女のことを伝えるべく、端末の電源を入れた―――

 ところで、画面を見て固まった。

 スクロールしてもしきれないほどの着信履歴。それのどれもが雪落薫からのものであった。何時ごろからかかってきているのか確認しようと、指先を画面に触れさせた時、電話がかかってきた。発信主は夜日羽研究所の電話番号となっているが、十中八九、薫からだろう。七絆は慌てて通話ボタンを押して、端末を耳元に寄せる。

「は、はい。嘉翅で―――」

『ああ! やっとつながった! 無事!? 七絆ちゃん、無事!? 無事だったら声を出して! いや、やっぱり今どこにいるか―――』

「いや、その、大丈夫です。無事です。無事なので一度落ち着いてください」

 電話がつながった瞬間、薫の声が耳に雪崩れ込んできた。あまりの音量の大きさに思わず端末を耳から離す。相当焦っているようで口を挟む暇もなかったが、七絆が無理矢理に割り込んで声をかければ向こうで安堵のため息が聞こえてきた。

『はぁー、よかった……。無事だったんだね』

「ええ、まぁ、その、概ね」

 嘘である。昨日は“ゾンビ”と追いかけっこをした末に大怪我を負ったわけであるが、その経緯を説明するには色々と面倒くさい。とりあえずは薫の要件を確認すべきと判断した七絆は昨夜のことをすっとぼけて質問をすることにした。

「それにしても、そんなに慌ててどうしたんです? 研究所で何かありましたか」

『あっ、そう! そうだった! 七絆ちゃんにも伝えておかなきゃいけないことがあって、その、小金井のことなんだけど』

 きた。七絆は端末の向こう側の薫に聞こえないよう、震える吐息を抑える。言い淀んでいるのか、薫はあーだのうーだの意味のない音を発していたが、言う気になったのか『よく聞いてくれ、七絆ちゃん』と前置きをした。薫には見えていないが、七絆はその声に頷く。


『昨日ね、小金井が木の根に頭ぶつけて気絶しちゃっててね』


「―――はっ?」

 七絆の口からは到底少女のものとは思えない唸るような低い声が出た。それに薫は端末の向こう側小さく悲鳴を上げる。

『ごめんっ! いやー、ほら、僕が一緒に帰りなよとか言って無理に二人で帰しちゃったでしょ? あの後、他の研究員から口々に最低最低と言われてね……。どうやら小金井は七絆ちゃんのことが苦手だったらしくて。多分七絆ちゃんもそれを感じ取って苦手なんじゃないかと思ったんだ』

「それを本人に言うの、他の方から言われた言葉の意味を認識していないってことでいいんですよね」

『? よくわからないけれど……あ、小金井はね、ぴんぴんしてるよ。泥に足を取られて転んで、頭を打って、気絶したらしいけど、さっきも元気にビーカー割ったところだよ。ははははは……はぁ……。あぁ、そうそう。ずっと連絡していたのは小金井から七絆ちゃんとは研究所の前で別れたって聞いて、夜も遅かったし無事に帰れただろうかと心配でさ。全然つながらないからたくさん留守電残しちゃったよ、あははは』

 たくさんで済むほどではないような気がすると、七絆は先ほどのスクロールバーの位置を思い出した。けれど、問題点はそこではない。

―――なぜか七絆がマリアと帰っていないというところだ。

 それもマリア自身の口からそう証言が取れている。そして、彼女は今も何の問題なく研究所で働いているという。


 ならば、七絆が昨日遭った出来事は何だ。彼女は意識は思考の海へと沈んでいく。


 マリアが倒れる音がして、その後“ゾンビ”に追いかけられて、崖から落ちて、―――零に救われた。これは七絆が体験したことで間違いはない。腕や足に残る掠り傷からも自分の記憶を信じることができる。昨日のことは七絆が確かに経験したものだ。

 しかし、第三者の口からは違う事実が語られている。七絆は確かにマリアが倒れた姿を、“ゾンビ”に襲われている姿を見てはいない。ただ人が倒れるような音を聞いただけに過ぎないのである。

となれば、考えられることは二つ。

 ひとつは実際に“ゾンビ”はいたものの、それに驚いたマリアが気絶し、“ゾンビ”は七絆のみをターゲットとしたため、マリアは無事だったというもの。気絶するほど大きな衝撃を受けたのだ。記憶の混濁から“ゾンビ”のことを覚えていなかったとしても、無理はないのかもしれない。

 もうひとつは七絆自身も突拍子もないとは思っているが、マリアが、延いては夜日羽研究所が昨夜の“ゾンビ”襲撃事件に関わっているというものだ。何らかの方法で“ゾンビ”を制御する方法があり、七絆だけを襲わせた。マリアは疑われないように倒れたふりをして、その後研究所に戻れば万が一にも“ゾンビ”が制御を外れたとしても襲われる心配はない。

 だが、どちらの仮説にせよ、七絆が狙われたという可能性は限りなく高い。だが、そうなると一体何のためにという疑問が首を擡げる。七絆を狙うことで誰にメリットがあるのだろう。

『―――なち――なちゃん、七絆ちゃん?』

 困惑気なその声に七絆ははっと我に返る。つい考えることに前のめりになってしまい、電話をしていたことを忘れていた。だが、研究所の電話を使ってかかってきているというのは七絆にとって好都合だ。考えていても仕方ないのならば、本人に直接訪ねてみればいいのである。

『どうかしたの、急に黙り込んで』

「いえ、すみません。ちょっと考え事をしちゃって。そうだ、小金井さん、今日研究所に来てるんですよね? 昨日ちょっと相談されたことがあって、私用でなんなんですけど、少し変わってもらうことできます?」

『……あー、それはちょっと難しいなぁ』

 しかし、七絆の思惑は薫のその一言で切って捨てられた。てっきり簡単に変わってもらえるかと思っていた七絆は面食らってしまう。

「えっと、元気なんですよね、小金井さん」

『元気だよ、今さっき上の階で爆発音が聞こえた程度にはね。―――うーん、七絆ちゃんに黙ってても仕方ないし、教えておくね』

「? まだ何かあったんですか?」

『いや、それが昨日七絆ちゃんたちが帰った後にね、ハッキングをくらったみたいでね。ブレーカーは落ちて電気はつかないわ、カードキー式だから外に出れなくなるわでてんやわんやだったんだ。そのせいで暫くの間はセキュリティ強化だったり、後処理だったりとかがあるんだよ』

「えっ、めちゃめちゃヤバいじゃないですか。研究所、今も外に出られないってことですよね?」

『今は大丈夫だよ。ほんっと、何が目的だったのかわからないけど、昨夜はずっと真っ暗で蝋燭で生活してたくらい。いやー、外から人が来てくれてよかったよ。鍵は一部アナログにしておくべきだと痛感したよ。今はセキュリティシステムの復旧作業中なんだ。あんな小金井でも研究所の一員だからね、手を離せない状況なんだ。僕もそろそろ戻らなけきゃいけない。七絆ちゃんの無事も確認できたしね』

「それは大変そうですね……。何か手伝えることがあれば呼んでください」

 そこでふとあることに気がついた。今、薫は外から人が来たと言っていた。それはもしかしたら昨日非番だった研究員かもしれないし、そうじゃないかもしれないが、それは関係ない。

 その人物はあの街道に打ち捨てられた“ゾンビ”の死体を見ているはずなのだ。もしくはそれに関する情報を知っているはずだ。昨夜は夜遅い時間だったから人はいなかったが、あの街道自体は人の往来が多い方だ。平日の昼間は車も通るし、あの道を使って駅に向かう人も多い。“ゾンビ”と気がつかずとも、死体があったら騒ぎになる。

 けれど、薫は不自然なほどにその話をしない。今も外界から断絶している状態だというのならば知らないこともあるだろう。しかし、自身の研究所をハッキングされて、復旧されてから外の様子を調べないことなんてあり得るだろうか。原因を探すためにも知ろうとするのが普通ではないか。


 踏み込むべきか。一瞬躊躇いが生まれた。


 愚かな男だとは思うけれど、薫は七絆にとっては優しい大人ではあった。それが葵への想いありきのものだとはわかっているが、それでも時には七絆の愚痴を聞いてくれたり、人間関係に適切な助言を送ってくれることもあったのだ。

 それにこのことを聞いて、逆に七絆自身が窮地に陥ることだってあるかもしれない。秘密を知られた口封じだなんてドラマの世界のようにも聞こえるけれど、この世界でもこと“ゾンビ”関係においてはありえるのだ。

 数少ない優しい記憶が頭を過ぎり、その裏側を見ることに躊躇いを感じてしまった。ただ本当に知らないだけかもしれない。聞いたら驚いて「それは恐いね」と言ってくれるかもしれない。けれど、そんな柔らかい幻想に縋りつけるほど、七絆は子どもでもいられなかった。

 だから、七絆は口を開く。声が震えないように、ぎゅっと服の裾を握りしめたまま。


「雪落さん、」

「昨日、研究所の近くで“ゾンビ”が出たって話、聞きませんでした?」


 一瞬の間の後、薫は答えた。澱みもなく、後ろ暗さもなく、何より迷いがなかった。


『いや、聞いていないよ』


 全身を虚脱感が襲う。これは失望なのだろうか。

 決して好きではなかった。葵の姿を勝手に投影してきて、鬱陶しいなとさえも思っていた。それでも、七絆は思ったより彼に心を赦していたらしい。

「そう、ですか」

 七絆が応えられたのはそれだけだ。焦りも何もまったく感じられない色のない薫の声に気づいている。そして、それが逆に隠しようもないくらい、七絆に疑念を与えるものだと。

『あ、そうだ。セキュリティ関係諸々が直るまで、七絆ちゃん、暫くはバイト来なくて大丈夫だからね』

 終わり際にそう告げられ、『それじゃあね』と一方的に電話を切られてしまう。いつも何層にも巻いた優しさを向けてくる薫にしては雑な対応だ。それもそうだろう。薫にとっては今の七絆は己の知られたくない部分を暴く者だった。

 七絆は音の切れた端末を手に持ったまま、ソファに音を立てて倒れ込んだ。

 涙は出ない。出るはずもなかった。ただ、少しばかり七絆の人間関係に座っていた男がいなくなっただけだ。

 薫が犯人だと決まったわけではない。七絆の被害妄想かもしれない。けれど、胸に広がる疑念は本物だ。

 その事実がちょっとだけ、ほんの少し、七絆の感情に黒い色を落としただけだった。


「どうしたの、ナズナ」

 七絆の顔に影がかかると同時に逆さまの零が現れた。足音もしなかったし、急に出てきたことに七絆は目を見開いて固まってしまう。先ほどまでの電話の内容を聞かれていただろうか。聞かれてまずいこともないけれど、心の中で冷や汗をかいている七絆がいた。まだ七絆は零に優しくない世界を見せることを躊躇っている。

「悲しそうな顔をしてるよ」

 零の指先が七絆の前髪を払って、その目元を撫でた。七絆はその手を取って、自身の頬を包むように移動させる。

「悲しくはないよ、本当だよ。ただ―――ちょっとだけ、感傷に浸っていただけ」

 七絆がそう答えれば、零は彼女の隣にしゃがみ込んでその頭を胸元に抱え込んだ。予想していなかった行動に七絆は再び固まってしまうが、零の大きな手のひらが彼女の頭を優しく撫でることで力が抜けていく。

 随分と長い時間そうしていれば、耐えかねたようにくありと上から欠伸の声が聞こえた。ちらりと見て見れば、零が眠たそうに目元を摩っている。その締まらない態度に七絆はくすくすと笑ってしまう。

「眠いんだったら寝てていいんだよ?」

「んー、ナズナが起きるなら起きてる。頑張る。ひとりだと寒いから」

「―――そっか」

 七絆はその意味をよく知っている。昨日よりも、ずっと前から知っていたような気がする。もしかしたら、幼い時に彼女は心のどこかで研究漬けだった母親に愛を求めていたのかもしれない。それも記憶とともにどこかになくしてしまったものだが、身体は憶えているのだろうか。


 孤独とは案外身近にいるのかもしれない。大切なものが増えれば増えるほど、それはいつか零れ落ちていくことになる。幸せさえ知らなければ、大切なものさえなければ、孤独の痛みとは無縁でいられるのだろう。

 だって、何もないのだから。

 果たしてそれが幸せなのか、今の七絆にはわからなかった。


見直したら救急箱が救急車になっていたので噴き出しました。救急車を軽々と持つな。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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