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リビングデッドにキスをして  作者: 神川 宙
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冷たい夜にきみと

第四十五話

 二人で手を繋ぎながら家に戻った。雨は降り止まないまま、二人とも服をびしょびしょにして、水たまりを蹴りながら歩いた。『タカ』に見つかるかもしれないという思いはあったけれど、今二人で入れることの幸福感が重要だった。

 玄関先で互いの服を絞って、そこから出てきた水の量はバケツ一杯分くらいはあっただろうか。それから追い立てるように零を風呂に入れ、バトンタッチで七絆も風呂場へと入る。そして、鏡の前に立って気がついた。鏡に映る自分の身体についた無数の傷を見て、自分が怪我をしてたことに。知覚すると痛くなっていく現象に苦しめられながらもなんとかこびりついた泥やらなんやらを落としていく。赤色の混じった水が排水溝に流されていった。身体は冷え切っていたが、湯船に浸かることは諦めて、早々に風呂場から出る。髪を拭くのもおざなりに、救急箱を引っ掴むと七絆はそのまま自分の部屋へと戻った。


 ちょうど七絆が救急箱相手に怪我の処置を四苦八苦しながらしている時だった。こんこんと控えめに自室のドアがノックされる。今まであれだけ言ってきたのにノックができなかった零がノックをしているのだ。少しばかり七絆は驚いたのと同時に、その音に距離を感じてしまい寂しい気持ちも湧いてくる。

「はーい、入って大丈夫だよ」

 そんなことをおくびにも出さず、包帯を巻くというより、包帯に巻かれながら七絆が応えるとがちゃりと音を立ててドアが開く。開いたその先では白い頭がひょこりと見えた。いつもなら七絆が応答する前に部屋に入ってくるくせに、今日はなぜか一向に入ってこようとしない。躊躇うかのように薄く開いたドアの隙間から中を覗いている。暗闇に浮かぶ赤い瞳が若干恐い。

「零、早くおいでよ。隙間風が寒いしさ」

 寒いという単語に反応したのか、零は慌てたように部屋に入ってきた。なぜか手にはリビングのソファに置いてあるクッションを持っている。その疑問の視線に気がついた零は、これまたなぜかそのクッションを背に隠した。なんだか不思議な零の様子を見て、七絆は苦笑しながら救急箱の蓋を閉める。零は後ろ手でドアを閉めた後も、その前から動こうとしない。仕方なしに七絆は自身の座るベッドの隣をぽんぽんと叩いた。

 零は何度か七絆自身とその手の間で視線を往復させると、のろのろとベッドへ近寄る。そして、迷ったわりには七絆の身体に寄り添うようにぴったりと座った。長らく廊下にいたからか、服も冷気を吸って冷たかったが、七絆は何も言わなかった。零は手持無沙汰なようにあちらこちらに視線を動かすが、ヘッドボードに置かれた救急箱で視線を止める。

「……ナズナ、怪我、大丈夫?」

「ん? ああ、大丈夫だよ。やせ我慢とかじゃなくて、ホントにね。いやー、でも崖から落ちるとは思わなかったよ。あの時は本気で死ぬ!って思ったけど、案外そんなひどい怪我でもなかったし。まぁ、でも一応明日……というか、もう今日だね。どっか診療所には行こうと思ってるから。そんなに心配しなくても大丈夫。それより、零、よく研究所の場所がわかったね。あんなに方向音痴だし、場所も教えてなかったでしょ?」

 幸いにも七絆は気がつかなかったようだが、その言葉に零はぎくりと肩を震わせた。そうだ、零は七絆の端末を勝手に借りて、知りもしない人物の誘導に従ってあの場所に行ったのだ。七絆の元にちゃんと辿りつけたのはいいものの、これがもし罠だったりしたら双方最悪な結末を迎えていたに違いない。

「あー、その、あまり言いたくないんだけど、ほら、僕は“ゾンビ”だろ? ……ナズナの血の匂いで」

 無断に端末を借りたこともあるが、あのよくわからない男の話を七絆にしたくなかったのだ。もっともらしいことを言えば、七絆はそれ以上は突っ込んでこなかった。ちなみに七絆の端末は彼女の目を盗んでリビングに戻してある。雨で壊れていたらどうしようと思ったが、防水機能があったようでしっかりと稼働した。

「―――私、零が来てくれて嬉しかったよ。守ってくれて、嬉しかったよ。ありがとう」

「ナズナ……」

 包帯の巻かれた手がそっと零の手に寄り添った。人を殺した、汚れた手に。

「―――僕、殺したんだね」

 零は真白い肌のままの手を見たまま、小さくそう呟いた。彼があの“ゾンビ”の頭部を持っていた手だ。血は洗い流され、いつもどおりのようにそこにあった。

 零の言葉に反応して、七絆の手が優しく零の手を包み込んだ。温かい、命の通った優しい手だった。七絆を見れば、彼女もまた零を見ていた。その柔らかな唇が言葉を紡ごうと、微かに開いたが、零は首を振ってそれを制する。きっとその甘い言葉に縋りたくなって、許された気になってしまうから。

「大丈夫。僕は後悔していないよ。激情に突き動かされたのは事実だし、あの惨状を作り出したのも僕だ。そのことに僕はちゃんと『ぼく』と向き合わなきゃいけない。もう二度と、あんなことがないように。……ナズナを傷つけないように。許されないことをしたという自覚もある。―――でも、ナズナのことを助けられた。だから、後悔はしない」

「零。私はきみの、零の味方だよ。例え、誰に何を言われたとしても、誰が何をしたって、ずっときみの傍にいるから」

「……後悔、しない? ナズナにはもっといい人が見つかるかもしれない。そもそも、僕は“ゾンビ”だか―――」


「後悔しないよ」


 七絆は零の指に自身の指を絡める。そして、身体ごと零に向き合うと、しっかりと彼の目を見た。

「絶対に、後悔しないよ。私と零が出会ったことを運命だって言われたこともあるけれど、私がきみの隣にいたいと選んだから、今があるんだ。運命なんて陳腐な言葉じゃ表せないくらい、私は零と共に在ることを望んでいるんだから。こうやって、手を繋ぎ合えば何も恐くないよ」

 零はぎゅっと七絆の手を痛いくらい握ったけれど、七絆はその手のひらの背を優しくなぞった。そのまま、七絆は零の方に頭を預ける。優しい花の香りがするそれに零も擦り寄った。

「……ナズナ、僕の話を、聞いてくれる?」

「もちろん。零がそれを望むのなら」

 時計の針は午前3時を指し示そうとしている。草木も眠る丑三つ時だ、雨が降る音が二人だけの部屋に響いた。しかし、まだ夜は終わらない。彼女たちの夜はまだ明けないのだから。

 零は緊張で身体を固くするが、それをほぐすかのように大きく深呼吸をする。零に凭れかかっている七絆には、そんな些細な動きすらも感じ取れるのだ。零も七絆に寄り添うように、彼女に凭れかかる。


「実を言うと、僕、語れるほどの記憶がないんだ。多分、ナズナもそれは薄々感じてたんじゃないかなって思うんだけど。小さい頃は古い木造の建物にいた。そこでのことはあんまり憶えてないんだけど、白衣を着た大人の人が出たり入ったりして、注射を打たれたり、管を入れられたり、僕はされるがままだった。多分、今なら嫌だったりしたのかもしれないけど、気づいた時からそんな生活だったから、満ち足りたことはなくても、不足したこともなかったから。特に現状に不満はなくて、特に何も考えなかったし、感じなかった。でも、あの人が現れてから一変したんだ」

「僕がもう少し大きくなってからかな。白衣を着た黒い髪の女の人だった。顔も、声も、もう憶えていないんだけどね。綺麗な黒髪だったのは憶えてる。そう、七絆の髪みたいな色だった。彼女は僕に色々なことを教えてくれたんだ。折り紙の折り方とか、文字の読み方、あとは外のこととか、そんな些細なことをたくさん教えてくれた。僕は『先生』って呼んでいたんだけど、先生がすごく楽しそうに話すものだから、僕も外に出てみたくなっちゃって。何回か他の人にもお願いしてみたりしたんだけど、取り合ってもらえなかったっけ」

「だから、先生にもお願いしてみたんだ。そうしたらね、『もう少しで出られるよ』って言われた。僕はその日が待ち遠しくて仕方がなくって。先生が来てからは毎日が楽しかった。検査の時間もすごく減ったし、それに他にも色々面白い人たちを連れてきてくれたんだ。特にすごい陽気な人がいて、マジックを見せてくれたよ。たまに先生にうるさいって怒られていたけど」

「でもね、そんな楽しい日も終わりを迎えた。僕が今の僕とそう変わらなくなった時、あの家が壊れちゃうんじゃないかってくらい大きな音がしたんだ。木造だったからかね、当時は本当に壊れたかと思ったよ。何が起こったかわけがわからなかった。でも、僕は部屋から出なかった。先生がさ、にこにこ笑って大丈夫だからねって、必ず迎えに来るからねって。それから、誰かが来て……注射を打たれて、その後のことはわからない」

「次に起きた時は、天井は木造じゃなくなって、白色になっていた。床だって真っ白ですべすべしてた。ここからのことは全部覚えてる。かつてと同じように血を抜かれたり、色々な器具をつけられたり。先生も他の人も来てくれなかった。だから、僕は聞いてみようと思ったんだ。……そうしようと思ったんだけど、そこで気がついた。僕にあんなによくしてくれた人たちの名前を全く憶えていなかったんだ。もしかしたら、記憶の断片のどこかにはあるのかもしれない、でも、僕は思い出せなかった」

「だけど、僕は心配だった。先生たちの無事をどうにかして知りたくて、検査がない時間はずっとドアに張り付いていた。本来なら聞こえないんだろうけど、その時僕は知らなかったけど、その時点ではもう僕は“ゾンビ”だったみたいでね、向こう側で話していることが聞こえたんだ。いや、そこで僕は聞いてしまった。ここで何をしているのか、僕が何に加担しているのかを」


「そこでは“ゾンビ”を造る研究をしていた」


「いや、正式に言えば死なない人間を造ろうとしていたんだと思う。僕はそこで初めて自分が“そういうもの”だということを知った。それも僕がその実験の核であることも。……いや、これは彼らがそう言っていただけで、本当にそうなのかはナズナが言った通りわからない。でも、多分、そうなんだろうとも思う。ごめん、話が脱線したね。とりあえず、その研究所では不死の人間を造るっていう研究をしていたんだ。それを聞いた時、なんて恐ろしいことをしているのかと思ったよ。だって、笑いながら不死の人間を生み出すなんて話しているんだ。―――死なない人間ななんて人間じゃないだろ。そんなのは人の理から外れている」

「不死者を造って、結局何がしたかったのかは僕にもわからない。そもそも僕のこの体質は致命傷を受けても痛みを感じずに動けるって言うだけで、普通に出血多量で死ぬし、頭が吹っ飛んだり、身体的欠陥が大きくなれば死ぬ。何度やったってそれが覆るわけがない。何よりも多くの被験者たちがその苦痛に耐えきれず、理性を失って暴れていたんだ。それなのに、彼らは人の手が届かない領域に手を伸ばし続けている。……それは、僕がいなくなった今でも、きっと。恐かった、すごく恐かった。僕のせいで多くの人が苦しんでいて、これから先もそういう人たちを生んでいく。その事実がどうしても恐ろしかったんだ」

「当然、僕はたくさんたくさん、きっと彼らが来るたびに抗議し続けた。こんなことは間違っていると。でも、なにも聞き入れちゃもらえなかった。そりゃあ、そうだよね。彼らからしたら僕なんてただの実験材料だ。……僕は、自分の意思がないのにそんな悪意に加担したくないだけだった。知らないうちに加害者になりたくなかった。結局は自分のことばかり、そのくせ何も出来やしなかった。本当に止めさせたかったのなら、それこそ手段はたくさんあった。でも、僕は直接の加害者にはなりたくなかったんだ。その結果が今のこの世界なんだろうね。“ゾンビ”と呼ばれて、人間以下の化け物として処理される。そこに心があろうとも、他者から見たら僕たちは自身を脅かすただのクリーチャーだ。“生きて”、いるんだけれど、ね」

「確かにナズナが言ったことは正しいんだと思う。有疵性無死症候群は100年ほど前に発症が発見されたって言う話。よくニュースでも見たよ、正確にはわかっていないらしいけど。僕の記憶は飛び飛びで、さらに言えば正確かどうかも怪しい。でも、さすがにあの景色が100年前のものとは思えないんだ。……それは僕の記憶が正しくて、なおかつ僕が僕を認識する以前のことがないっていう大前提があってのことだけれど。僕が感染源というのはナズナの言う通り間違っているかもしれない。けれど、僕があの研究所にいて、一部の人たちにとっての感染源であることは間違いない」

「僕はただただ無気力なまま、あの灰色の世界で無意味に生き続けていた。どんな働きかけをしたって無意味だった」

「そんな時だったんだ、あの事件が起こったのは。いつも通りに実験のために連れ出された先で、ひとりの被験者が突然暴れはじめた。その人は他の被験者や研究者に噛みついてって、どんどんと“ゾンビ”が狭い研究室で増えていった。それを鎮圧しようにも、研究所にいる人たちなんて研究しかしてこなかったような人たちだ。研究室の扉はあっという間に壊されて、そこから“ゾンビ”が雪崩れ込んできて、そこから先はナズナが考えているとおり。研究者たちのほとんどが“ゾンビ”になってしまった。その中でも僕はどうしてか襲われなかったんだ。そういう習性があるのかは知らないけど、僕が彼らと同じものだったからかもしれないね」

「僕はぼうっとその光景を見ていた。ちょっとした意趣返しの気持ちもあったように思うよ。……今思えば不謹慎極まりないよね。でも、その時は確かにそう思ったんだ、『ざまぁみろ』って。そうこうしていたら地割れでも起きてるんじゃないかっていうくらい、研究所が大きく揺れた。多分、僕たちのいた研究所を中身ごと破棄する算段だったんだろうね。きっと、ここで死ぬんだろうって、僕は思っていた。何を為すこともなく、ただの嵐の中心点みたいに人の世を搔き乱して。人の怒号や、銃声、向こうの方では火柱が上がっていたのを、他人事みたいに見ていた。このまま死んでもいいやって」

「―――ドアの近くに先生が立っていたんだ。いや、本当は違ったんだろうけど、僕には先生が見えていた。頭変になったかもって思った。でも、僕には見えていたんだよ。先生は笑いながら、僕に手招きをするんだ。ようやく迎えに来てくれたんだって思って、僕は周囲の地獄みたいな状況が気にならないくらい喜んだ。他には目もくれず、先生が呼ぶ方向に走った。先生は笑いながらくるくると僕の前を行く。そのまま先生を追いかけていれば、その先で壁に大きな穴が開いているのに気がついた。同時に先生はいなくなっていた、急に寂しくなったけれど、これは先生が僕に遺していってくれたものだと思って、先生が示したように僕は外に出て行った。そこから先は『タカ』に追われるしで、あちこち逃げ回ってた。その過程で、僕は自分のしでかしたことの大きさを知ったんだ」

「外ではたくさん、たくさんの人が死んで、もっと多くの人たちが泣いている。僕のせいだ。僕が何もできなかったから。あの研究所がどれだけの被害を出したのかは知らない。きっと、少なくない数の人が死んだんだろう。そこからはただ恐くて、自分のためだけに逃げ出した。でも、恐くて死ぬこともできなかった。―――そんな時に、ナズナに出会ったんだ。そこからここまでは、きみも知っている僕だ。ナズナに『零』という名前をつけてもらった僕だよ」


「―――きみに、命をもらった僕だよ」


 七絆の手の甲を優しく零の指が撫でていく。吐息混じりの声が七絆の耳によく馴染んだ。

 零はやっぱり優しいヒトだった。七絆は今の話を聞いて、彼の責任がどこにあるのかがわからない。知能もない人間が自身の手に余る力に手を出して、惨めにも周囲を巻き込んで失敗しただけの話だ。身に余るものを子どもの玩具か何かのように扱った罰だろう。命の重さの対価は自身の命だったということだ。

 七絆は零から身体を離すと、彼の赤い瞳を見つめた。暗闇の中でもそのきらめきが失われることはない。

「ナズナ?」

「話してくれてありがとう、零。私、とても嬉しいよ。全部がわかったわけじゃないけれど、零の背負っているものはわかった。だからさ、―――それを私にも分けてくれないかな」

「わ、分ける?」

 零は目を丸くして首を傾げた。さらりと流れた髪の先にはぐるりと首を囲う傷跡。それは彼が人でない証なのかもしれない。

「ひとりで抱え込んで苦しまないで。それは零の罪じゃないよ。でも、零はそれを捨てられないんだろう?」

 そう聞けば、零の視線がふらふらと空を回り、小さく頷いた。七絆はそんな彼を見て口元を緩める。

「だったら、私にもそれを頂戴。前に言ったでしょ、『私が“人間”と“ゾンビ”の違いをなくしてみせる』って。零がその罪を抱えるのなら、私がそれを赦すよ。誰もが零を赦せるようにしてみせるさ。それは零自身も含めて、ね?」

「……ありがとう、ナズナ。僕はもう、きみの善意を拒まない。それは僕を想ってくれているきみへの侮辱に当たるから。僕もナズナが信じる僕を信じる」

 零は七絆を見て、それから少し照れたように笑って見せた。

 いつも自分を否定してばかりだった零が彼自身を信じると言ったのだ。たったそれだけのことでも大きな一歩だ。

「でも、具体的に何か策があったりするの?」

「零が感染源であってもなくても、零を中心に研究が進んでいたって言うなら、零自身に他の“ゾンビ”とは違う何かがあるってことだ。憶測でしかないけれど、きっとそれは有疵性無死症候群の原因に何かしら関与しているもの。結果があるのなら、それに伴うハジマリも必ずある。それが細胞なのか、ウイルスなのかは不明だけれど、それは零の身体を調べれば後々わかる些細なことだよ。でも、何をするにせよ零に協力してもらわなきゃいけない。モルモットみたいに扱うわけじゃないけど―――」

「僕、自分にできることがあれば何でも協力するよ。大丈夫、ナズナが僕を想ってしてくれるものだってわかってる」

「零……」

「ナズナが言ってくれたんだ、僕の罪を一緒に背負うって。なら、僕もきみの赦しの助けになる」

「ありがとう、零」

 七絆の瞳を覗き込む零の顔は真剣だった。七絆もそこまで言われれば、彼の身体を扱うことに後ろめたさを感じている場合ではない。

「でも、そうなると研究室みたいなの欲しいなぁ。ここにも母さんが残していった実験器具とかは多少あるけど、昔の我楽多みたいなものだし。……雪落さんに頼むのは嫌だな。根掘り葉掘り聞かれた挙句に『やっぱり葵さんの血を引いてるね!』みたいなこと言われそう。何よりも零の存在に気づかれたくないしな。いや、でも待てよ? 端っこの方の研究棟で使われてないとこがあったような……。忍び込めばいけるかも、管理杜撰だし」

「な、ナズナ? おーい、ナズナー?」

 突然ぶつぶつと呟き始めた七絆に零は戸惑いを隠せない。零の声に七絆はぱっと顔を上げると、彼の両手を胸の前でぎゅっと握って目を輝かせた。

「大丈夫! 万事私に任せて! なぁに、私はこう見えても器用なのさ!」

「え、えぇっと……? 何がどうなってこうなったかはわからないけれど、よ、よろしくお願いします?」

「うんうん! まっかせなさい!」

 彼女はにこっと一つ笑うと、「さーて、そろそろ寝ないとね」とごろりとベッドに寝転がる。何が琴線に触れたかはわからないが、どことなく上機嫌そうである。そんな七絆の様子を零は居心地悪そうに見ていた。

「どしたの、零。さすがに寝ないと明日は午後に起きる羽目になるよ。そもそも零は寝穢いんだから」

「あ、あのね、ナズナ……」

「もしかして、どこか痛むとか?」

「いや、そうじゃなくて……」

「なにさ、もう隠し事はなしだよ。それで、なぁに?」

 七絆が促すもしばらく零はあーだのうーだの言っていたが、脇に置いていたクッションをぎゅっと抱きしめた。そこから赤い瞳だけを覗かせると、


「今日、一緒に寝てもいい?」


 と、言った。その言葉に七絆は一瞬呆けたが、顔を赤らめる零を見て、口元をにやりと持ち上げる。

「んんん? いつも一緒に寝てるじゃん、部屋」

「そ、そうじゃなくってね!? ……いや、ナズナその顔、僕の言っている意味わかってるだろ」

「あっはっはっはっ! 冗談さ、そんなに睨まないでよ。ほら、私サイズだからちょっと小さいかもしれないけど、もっとこっち詰めるから」

 じとりと睨む零の視線を軽くいなすと、七絆はごろりと壁側に転がった。ぽんぽんと自身の横を叩けば、零は不満そうに口を尖らせながらもそこに寝転がる。捲っていた掛布団を零にもかかるようにかければ、その表面は冷たくなっていた。体温を求めるように零の身体に擦り寄るが、彼の身体は七絆の体温を奪っていくだけだ。

「……あはっ。部屋が寒かったからお布団冷たいね」

「僕はもう寒くないよ。ナズナ、あったかいね」

 零は七絆を抱きしめると、息を吐くようにそう言った。七絆は彼の腕の中に身を委ねながら、あるはずのない鼓動を聞くかのように目を閉じる。

「零もあたたかいよ」

 優しい音が暗く冷たい夜に一つ落ちた。それは静けさに揺らぎをもたらし、溶けて消えていく。

 もう明日は恐くなかった。

今日初めて胃カメラやりましたが、麻酔が切れるのが早くて驚かれました。いや、こっちもびっくりさね。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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