ぼくときみとの相互理解
第四十四話。
走る。走る。走る。走る。
息が切れたとしても、脚が悲鳴を上げたとしても、走る。
その先できみが待っていると知っているから。
七絆は走っていた。先ほどまで大怪我を負っていたのにも関わらず、彼女は気力だけでこの雨の中を走っていた。痛む足も置き去りにしたまま、走る。
雨に浸ったコートは重くて、寒気を吸いこんで七絆の体温をどんどん奪っていく。それに加えて血を流しすぎたのか、彼女の視界はぐにゃりと曲がった。身体がふらついて倒れそうになるが、両足に力を籠めることでなんとかその場に踏みとどまる。
けれど、さすがにすぐ走り出せるわけもなく、近くの電柱にもたれかかって少しだけ休憩をする。何も七絆は当てもなく走り回っているわけではない。ただ一点、明確な目的地があり、そこを目指して走り進んでいるのだった。そこに辿りつくまで、彼女の想いを伝えるまでは倒れるわけにはいかない。
「ははっ、なんだかマンガに出てくるヒーローみたい」
ヒロインのピンチに駆けつけて、どんな強敵にも諦めず立ち向かい、最後にはハッピーエンドが待っている主人公。こんなぼろぼろの格好で、誰かの犠牲の上の幸せを望む七絆にはあまりにも似合わない、お綺麗な存在だ。別にそうなりたいとも思わないから、どうだっていい。今の七絆の有様が彼女には似合いだ。
電柱から身体を離して、また走り出す。こんな泥まみれ、血塗れ、怪我まみれなんて経験、早々できないだろう。零と出会ったあの日を想起させる。
あの日は雨は降っていなかったけれど、彼と向き合ったあの朝は雨が降っていた。ならば、今度は心で向き合うべきだ。この雨降る夜の下、零に会うべきだと七絆は思った。
段々と七絆が見知った道へと変わっていく。いつもはバスの上から見ていた道から、七絆がいつも歩いている道へ。七絆は走るスピードを上げた。あの研究所からここまで走ってこれたなんて、いつもの七絆なら考えられないことだ。火事場の馬鹿力というやつなのかもしれないが、七絆の頭にそんなことはなかった。
ただ一心に、零に会うためだけに。
肺が痛むけれど、その足は止まらない。呼吸が上手くできないけれど、走ることはやめなかった。吐く息が白くて煩わしかったけれど、身体は動いている。
いつかあの帽子の少年とぶつかった曲がり角を大きく曲がる。そう言えば彼は元気だろうかなんて思いながら、曲がる速度に身体がついていけず体勢を崩すが、片手をついて地面を踏みしめるように一歩踏み出してそれを防いだ。
今が何時だかわからないが、辺りはまだ真っ暗でおまけに大雨だ。好き好んで外に出る人間はいないだろう。事実、七絆はここに来るまで誰にも会っていない。もし誰かに出会っていたとしたら、通報されるか、救急車でも呼ばれるかの二択だろうから、それはそれでよかった。なによりもこんな姿を見られたいなんて好んで思う人間はいないだろう。
七絆が目指しているのは零と初めて話したあの公園だった。何も根拠はない。零がここにいる可能性なんてほとんどない。そもそもこんな町から出て行ってしまっているかもしれない。けれど、漠然と、直感的に。ここに零がいるだろうという懇願にも似た自信が彼女をここまで突き動かしていた。
目の前の階段を一段飛ばしに駆け上って、七絆の目の前に広がるのは伽藍としたいつもの公園だ。
そして、そこに立っている白い男を見た。彼女はゆっくりと彼と同じ地面に立つ。彼はその存在に気がついているだろうに、空を見上げたまま、ただ黙って雨に打たれていた。
七絆は一歩一歩、彼に近づいていく。彼は何も言わないまま、その場に立ち尽くしている。その背中は七絆に拒絶を表しているのだろうが、それでも歩みは止めない。
「来ないで」
彼と彼女の距離が数十メートルほどになった時、零はようやく口を開いて明確な拒絶を言葉にした。雨音に掻き消されてしまいそうな声だったが、それは七絆の耳に確かに届いている。けれど、七絆は止まらない。
「来るなって言ってるだろ!」
彼と彼女の距離が駆け寄ればあっという間にその手が届いてしまいそうになった時、零はそう怒鳴った。傷口を抉るような、痛みを伴った叫びだった。初めてこんなにも強く零に拒絶されたものだから、七絆も怯んで一瞬足を止めてしまう。七絆だって、未だに彼に嫌われるのは恐いのだ。だが、逃げ続けていても何も変わらない。
だから、ここに来た。痛みも恐怖も全部仕舞いこんで、奥歯を噛みしめて、前へと進む。
そこで、ようやく零は緩慢な動きで七絆の方を向いた。あの時は白い肌にべっとりとついていた血は雨に洗い流されているが、罪を忘れさせないかのように服は赤く染まっている。いつもより青白い顔をして佇むその姿は幽鬼の類を思わせる。
赤い瞳は泣きだしそうに濡れて歪んでいた。頬を伝う雨が、まるで彼が泣いているかのように見せる。彼は数度口を開いては閉じ、意を決したように白い息を吐きだした。
「僕らは一緒にいるべきじゃなかったんだ、ナズナ」
零との距離があと少しとなったところで、七絆は立ち止まった。零は七絆から視線を外すと、瞳を揺らしている。
「だめなんだ、ナズナ。僕らは一緒にいれば、僕がきみといれば、いつかきみを殺してしまうかもしれない。さっきのを見ただろう。僕は簡単にあんなことができてしまう。衝動的に何かを壊してしまえる。僕はそれがひどく恐いんだ。僕は外にいてはいけない、怪物だったんだよ。ははっ、『タカ』が血眼になって僕のことを探しているのもわかるよね。あんなに、いとも容易く殺せるんだ。ねぇ、お願いだよ、ナズナ。僕らはあの日、出会うべきじゃなかったんだ。そう言ってくれ。僕ら、ここでおしまいにしよう。それが一番だ。それがわからないナズナじゃないでしょう?」
縋りつくような零の視線が七絆に向けられる。その視線を七絆はしっかりと受け止めた。受け止めて、返すのだ。
“ナズナ”と呼ばれる少女の想いを。
「わからない」
「―――えっ?」
「だから、私には零の言い分がまったくわからないと言っているの」
零が呆気にとられているのにも関わらず、七絆は腰に手を当て鬱陶しそうに張り付く髪を掻き上げてそう言った。わからないものはわからない。いくら学力テストで満点を取れる七絆だとしても、わからないものの一つや二つ、三つくらいはある。
きっと、それは『人間』のことだろう。
「私はまったく、零の言いたいことがわからない。だから、それが一番だとか言われても、私はそうは思わない。だから、私は言わないよ。あの日の出会いが間違いだったなんて」
「ッだ、だから! 僕がいつかきみを傷つけてしまうかもしれないから離れようって、そう言ってるんだよ!」
「いつかって、いつ? 明日? 明後日? 一年後? それとも、今日今この時?」
「そ、そんなのは僕にはわからないよ。それは今かもしれないし、近い将来の話かもしれないし……」
「けれど、それは遠い未来かもしれない。私が寿命で死ぬ寸前かもしれない。そんなこと誰にもわからないよ。そんないつ起こるかもわからないもしものために、私は零と離れたくない」
「ッ、僕がいやなんだ! きみを傷つけてしまうのが恐くて、恐くて恐くて恐くて仕方がないんだッ! いい加減にわかってよ!」
「だから、それがわからないって言ってるの! 何を勝手に一人で不安になってるの。零が今までに私を傷つけたことがあった!? この傷だって、私の事情で私が勝手につけてきたもの! 零は関係ない!」
七絆が声を張り上げてそう言い切ると、零はその顔から表情をすとんと抜け落とした。赤い目だけが爛々と光ってこちらを見ている。そして、そのまま何がおかしいのか身体を折って笑い始めた。自分自身を掻き抱くようにして、まるで何かから自分を守るかのように笑っている。
「関係ない? 関係ないって言ったの!? あははははははは! ナズナはわかってないんだ! その傷だって、元々は僕が原因できみについたものだから!」
その言葉に七絆はわかりやすく眉をひそめた。話が全く読めない。けれども、彼女は冷静だった。話し合わなければいけないのだ。だから、どんなことでも話を聞かねばならない。相も変わらず零は笑っている。狂うことでこの場から逃げ出そうとしているみたいに。
「だって。だって、だってだってだって! 僕が“彼ら”をここに呼んでしまっているんだから!」
「呼ぶ……?」
そこで零は笑うのをぴたりとやめた。彼の表情には何ものっていない。
「そうだよ。だって、僕が感染源なんだから」
静かな声だった。それなのに、慟哭にも似た叫びに聞こえる。
感染源。その単語に七絆は眉をひそめた。彼女の脳内で有疵性無死症候群の歴史が紐解かれていくが、零のその発言がおかしいことは考えずともわかる。
「零、それはおかしいよ。有疵性無死症候群は今から約100年前に確認されたとされている。零はどう見ても100歳には見えないよ。だから、零が有疵性無死症候群の感染源なはずがない」
七絆がそう言い切れば、零は瞳を大きく不安で揺らした。近づこうとすれば、彼は一歩後退る。
「ッ、僕だって! ぼくだって、そうおもいたいよ……。でも、あの研究所で聞いたんだ。あの人たちがそうだって言った、言ってたんだよ! ナズナだって思ったこと、あるだろ? たかが一人の患者のために大々的に『タカ』を動かすなんてありえないって。……そもそも僕が見た目通りの年齢かどうかすらわからない。僕は僕自身がわからない。もしかしたら、百年生きている化け物かもしれない。僕っていったい何なんだ? 何のために生まれてきたんだ?」
ぶつぶつと零が何かに憑りつかれたように呟いている。今まで見ないようにしていた自身の正体への恐怖が頭を擡げるのだ。
「感染源は同種を呼ぶ。そう彼らは言ってたんだ。今のこの町の状態がまさしくそうだろう。僕がここに来た日から“ゾンビ”は増えてきてる、そうだろう? 僕が罪のない人たちを“ゾンビ”にして、同じように生きている人たちを殺させたんだ。何人が犠牲になった? 何人が僕のせいで死んだんだ? もうわからないよ。わからないんだよ、ナズナ。ねぇ、わかってよ。きみを、傷つけたくないんだ。だから、出会うべきじゃなかったと言ってよ」
まるで祈りを捧げるかのように組まれた彼の両手は、七絆に慈悲を乞うていた。この関係を終わらせるための、決定打を求めていた。
けれど、七絆は終わらせない。そもそも彼女は終わらせるためにここに来たのではない。また新しく始め直すために来たのだ。
「零にもわからないことは私にだってわかりっこないさ。だって、私は零のことを何も知らなかったから。きみの口から過去のことを聞くのが恐くて逃げていたから。でもね、さっきから零はずぅっと他人から聞いたことを鵜呑みにして、そうであるべきだと思い込んで己自身を語っているだけだ。そんなことを私は知りたいわけじゃない。ここにいるのは私ときみだけで、誰も零が感染源だなんて断定できないし、きみだってその確証を得ているわけではない。それに“ゾンビ”に殺させた? なぁに、それ。零は“ゾンビ”を操ることもできるの? まぁ、そんなことどうだっていい。ただ、私はそれを聞いて、ああそうなんですねはいお別れしましょとはいかないよ」
七絆は零の言葉を切って捨てた。取り付く島もないほど、遠ざけて、拒絶する。信じられないとでも言うように零はその目を見開いた。現に彼には七絆が理解できないのだろう。七絆が零を理解できていないように。
「―――わからないよ。わからないんだ、ナズナ。僕は……僕は僕がわからない。僕の中に、『僕』以外の誰かがいるんだ。そいつのせいで、そいつの言葉で、僕はあんなことをしてしまった。同じ“ゾンビ”なのに、あんな風に嬲ってしまえたんだ。僕はそんなことしたいわけじゃないのに、よくわからない激情が僕を化け物にしてしまう。もしかしたら、さっきだけじゃない、ずっと昔からそうだったのかもしれない。あの呼び声が頭から離れない。殺せ、殺せって声が聞こえてくるんだ。誰かの影がちらついて、僕が僕じゃなくなる。ナズナが名前を付けてくれた『零』がいなくなっちゃうんだ。そうなったら、僕は『僕』じゃなくなってしまう。名前もないそれがナズナを傷つけてしまうのが恐いんだよ」
零は顔を両手で覆ったまま、地面に膝から崩れ落ちた。その身体は小刻みに震えている。雨による寒さではない、内なる誰かへの恐怖がそうさせているのだろう。
零の気持ちはよくわかる。だって、七絆の中にも同じものがいるのだから。
暴力という名の美しき獣が。赤色の瞳が内側の肉から覗いている、その恐ろしさが。
七絆は今にも駆け寄って零を抱きしめてあげたかった。けれど、それをすべきなのは今ではない。零がナズナという存在を受け入れてからだ。そうしないと、いつまでもこの譲り合いは終わらない。
「……“ゾンビ”の性質のひとつとして、昔に習ったことがある。“ゾンビ”はひとりを好まない。誰かの体温を求めて、同族同士群れで行動する。ねぇ、零。この町に“ゾンビ”が集まってきているのは別に何も不思議なことじゃないよ。他の町でも同じような事例が観測されている。感染源とか、そんなの関係ない。互いに共鳴をして、仲間を求めてここに集まっているに過ぎないの。だから、そのことに零は関係ないよ」
「……それでも、僕は“ゾンビ”だ。ナズナがいくら人間みたいに触れ合ったとしても、僕らはどうしようもないくらいに『生きていない』んだ。僕とナズナを隔てている境界は狭く見えても、僕らじゃ飛び越せないくらいに広いもの。僕らは、わかりあえっこないんだよ」
「どうして、わかりあえなくちゃいけないの?」
あっけらかんと七絆は言い放った。さも不思議そうに。幼子が空の青さを問うような純粋な想いだった。実際、彼女はずっと不思議だった。ニュースを見るたび、本を読むたび、誰かの話を聞くたびに、どうして人間という生物はわかりあいたがるのだろうと。
それはナズナが嘉翅七絆と呼ばれる存在になった瞬間から芽生えたものだ。見舞いという名の野次馬に来た人々は、彼女が自分の知っている存在じゃない、わからない存在になった時点で手を離していった。それはきっと七絆が彼らにとって『わかりあえる』生物ではなくなったからなのだ。
「人間なんてそんなものでしょ? 相手のことを十全にわかったとか言ってたりしても、絶対に相容れない、譲れない点というものは存在するものだし。それに、そんなお互いわかりあえている人間なんて一握り程度。大体は誰にも言えない秘密を持って、心の傷を隠し通しているのに、わかりあえているだなんて、そんなのただの自己満足にすぎないでしょ。私たちは『個』になってしまった時点で、どうやったってわかりあえない存在に生まれたんだ。だから、私と零がわかりあえないのだって当然だよ」
「―――きみが死ぬ、夢を見るんだ。最近、毎晩毎晩、飽きもせずに何度も、何度も」
唐突だった。七絆の問いかけに答えることなく、零は両手を地面に落として、項垂れたままそう語った。七絆はその語りを諭すように、静かに答える。
「それは夢だよ。現に私はこうして息をして、零の目の前に立っている。この心臓は今も動いているよ」
「いつ起こるかわからない。僕は本当にきみを傷つけないと言えるのかって」
「起こらないよ、そんなことは。だって、それは夢だもの。零に傷つけられたことなんてないよ」
「でも、夢の中で僕は何度でもナズナを殺すんだっ! 現実でもそうならないとは言い切れないだろっ!」
「じゃあ、殺してみろよッ!」
「ッ、なにを―――」
いい加減に限界だった。七絆は零の両手を引っ張り上げると、己の首に手を掛けさせた。零の両手にどくどくと流れる生命の動きが伝わってくる。その事実に零はごくりと喉を鳴らした。七絆は牙を剥いた興奮状態の獣のように呼吸をしながら、より一層自身の首にかかる手に力を籠めて叫んだ。
「殺せるって言うのなら、殺してみせてよ!」
その言葉に弾かれたように零は七絆の両手を振り払う。その勢いのまま七絆は後ろに倒れ込んだが、すぐに起き上がると手を震わせる零を睨んだ。
「ナズナが言ってることも、やってることも全部自分勝手だ! 僕の心を無視してる! どうして、どうしてきみは何もわかってくれないの!」
「零が何も言ってくれないからでしょ!」
声を荒げた七絆に、零は肩を震わせて彼女を見た。雨にしとどに濡れ、泥まみれになりながらも七絆は零を睨みつけている。その瞳は涙の膜を張り、顔も赤くなっていたが、その頬を涙が伝うことはない。ふーっふーっと息を荒くしたまま、彼女は殊更に強い視線で零を見た。
「言葉にしてくれなきゃわからないよっ! ひとりで勝手にわかってほしいって思って、わかっているって勝手に思い込んで、零だって私のことを無視してる! 私だって零とおんなじで恐いことがいっぱいあるのに、零をはいつだって私のことを考えている振りをして、自分を守ってばっかり! 恐がって一歩も踏み出せないのを相手のせいにして! そうやって選択権を私に託すな! 私が知りたいのは、零が、きみがどうしたいかってことだよ!」
「僕にどうしろって言うんだよ! いつだって自由がなかった僕がどうしたいかなんてわかるわけないだろ! ずっと、ずっと、ずっとずっとずっとずっと、ずっと! あの灰色の部屋で言われるがままに過ごしていた僕に! いつだって感染源だって疎まれてきた! 僕のせいでたくさんの人が死んだんだ! きみだって不幸になる! 僕が生きてるからだ! だったら、だったら、―――」
僕なんて生まれてこなければよかったんだ。
瞬間、零の視界はひっくり返った。ごつんと頭に鈍い衝撃が走り、ついでに額にも同じような衝撃が来る。視界には曇天の暗い空と零に馬乗りになった七絆の顔があった。
「だったら!」
「―――だったら、私のこの想いはどうすればいい! さっきからうだうだうだうだうだ! 他人のことばっかりだ! 顔も知らない、この世界にいない誰かのことばっかり! 知らない! 知らない知らない知らない知らない! そんな人間は知らない! 今! 目の前にいるのは私だろ! そんな知らない誰かのことを慮れるくせに、目の前にいる人間の気持ちも知らない、知ろうともしない! どうしてそんなに私を拒絶するの! どうして私が不幸だって決めつけるの!」
額に熱が移っている。きっと二人の額は赤くなっていることだろう。零はぽかんと口を開けたまま、彼の胸倉を掴み上げる七絆を見つめていた。
「誰かが何かをしなくったって、この世には不幸がある! “ゾンビ”が人を殺す? そんなの可愛い物だろう! 人間は何をしなくても人間を殺す愚かな生き物だ! ああ、ああ、吐き気がする! 零が生まれたから“ゾンビ”が生まれた? そんなのは私には関係ない! 零が生まれてくれたおかげで、私のこの想いは生まれたんだ! 零がいてくれたから、私は幸せだって思えるようになったんだ! だからっ! ―――だから、そんなこと、言わないで。私と出会えたことを否定しないで。だって、だって、私、」
―――こんなにもぜろをあいしているんだから。
零に降りかかるのは熱の宿った雨だった。七絆は我慢しているつもりで、唇をめいっぱい噛みしめているが、その黒い瞳からはぼろぼろと涙がこぼれ、それは優しく零に落ちてくる。
愛。
愛とは何なのだろう。零はそう思った。
あの研究所にいた時に時折現れた、少女のような影のことだろうか。たくさんのことを教えてくれた彼女のことだろうか。迎えに行くよと微笑んだ彼女のことだろうか。
否、それのどれもが違う気がした。
「―――うまれてきた、おかげ」
ぼくが、と零は小さく呟いた。七絆は唇を噛みしめたまま、堪えきれなかった嗚咽を上げているだけで何も言ってくれない。けれど、しゃくりあげながらも、その視線は零から逸らされなかった。
零はたった今、疎まれていたこの命なき生命に感謝を受けた。誰も言ってくれなかった。それこそ『先生』も言ってくれなかった言葉だった。七絆が愛を与えたがったのと同じように、零は承認を欲していたのだろう。
ここにいることを誰かに許してほしかった。認めてほしかった。
きっと、零の頬を伝うこの温かい雫こそが、『愛』というものなのだろう。
そう認識した瞬間、ひどく寒いと思った。零にはこの世界がとても寒いものに思えて仕方なかった。体の内から凍えるような気さえする。
ただひとつ、零の上に馬乗りになっている七絆の体温だけが温かかった。彼女の命の鼓動だけが零を癒した。
零は七絆をものともせず上体を起こすと、その両腕の中に彼女を抱き込んだ。しゃくりあげる度に引き攣るその背を撫でる。
「たくさんさ」
「たくさん、死んだんだ。きっとみんな悲しかっただけなんだと思う。惜しみなく愛を注いでくれた人が遠ざかっていくのが、哀しかったんだ。だから、温かいものが欲しかった。僕も、それが欲しかった。けれど、それを求めてはいけない。それこそが僕の生まれてきた罰なんだと、思っていたよ。でもさ、でもさぁ―――」
―――僕も、幸せになってもいいのかなぁ。
涙に震える声で、そう言った。零は赤い瞳から血を溢すかのように、ぼろぼろと涙を落としていく。七絆は彼の両頬に手を当ててそれを掬い取り、やっと彼を抱きしめられた。雨に濡れて冷え切った身体は悲しいほどに相手の体温を求めている。酷く寒い世界で、二人のぬくもりは確かにここにあったのだ。
「あの日出会わなければと零は言ったけれど、そうだったら今ここに私はいないよ。―――きみにもらった、いのちだよ」
不格好でも七絆は涙を流したまま微笑んだ。それを見て、零もつられたように笑った。二人はそのまま顔を近づけると、唇を触れ合わせる。
セカンドキスは血の味だった。
胃腸炎になりましたが、元気です。もうすぐ年末なので。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




