愛されたがりの自己嫌悪
第四十三話。
どれだけそうしていたのだろう。先ほどまでそんな気配がなかったというのに、いつの間にか降り出した雨が彼女を濡らす。時計がない、時間という概念に置いて行かれたまま、七絆はぼうっとしていた。雨が血と土に塗れたままのコートに沈み込んで、七絆の体温を奪っていくが為されるがままだ。
七絆の考えはまとまらない。絡まった糸を解こうとして、どんどんと絡まっては彼女の身動きを封じていく。頭の中で子どもの無邪気な笑い声が聞こえてきて、ひどく零の笑い声が恋しくなった。けれど、うまく感情が表出できない。呆けたまま、出来のいい人形のように、それこそ無意味に時間をそこで浪費している。何もかもがあべこべだ。
心臓が動いて、生きている。それすらも億劫な作業だった。
誰かが求めてやまないそのルーティンすらも、どうでもいいことだ。
ふと、そんな七絆に影が差す。途端に七絆の身体を打ちつけていた冷たい雫が遮られた。
「やあやあ、クイーン! ひどい有様でございますねぇ!」
胡乱げにその正体を見上げれば、真っ黒な傘を差した吊木胡蝶が口元に弧を描いたままこちらを見ている。高級そうな黒いコートの裾は僅かばかり雨で濡れていた。
「……胡蝶さん」
「いえいえ、打ち捨てられた襤褸雑巾かと思えば、これは一段と麗しいクイーンでしたとは! やはり、貴女様には赤色がよく映える。しかし、ええ、しかし、それにしてもまるで手酷く恋人に裏切られた純潔の乙女のような表情ではないですか。ただの無知で世間知らずな箱入り娘、汚いものなど見たこともないかのようなさまですねぇ! いやはや、こんな腑抜けたクイーンを見れるなど、この吊木胡蝶、初めてのことに心震わせてしまいます!」
「……何しに来たんですか。もしかして、助けに来てくれたとか? それだったら残念。手遅れでしたね」
はっと七絆は自分で言って鼻で笑って見せた。胡蝶の笑みには面白くて仕方がないといったような、自分より下の虫けらをせせら笑うような冷酷さが見て取れる。それが七絆はひどく気に入らない。それはこの状態を笑いに来た胡蝶への苛立ちというよりも、胡蝶にこんな有様を見られたのが屈辱的で仕方がないという方に天秤が傾いた。
けれど、その苛立ちすらうまく表現できなかった。それすらも投げやりになってしまう。失うということはこんなにも無気力感を感じるものだったのか。生きているという事実すらも、どうでもいい。
今の彼女の心を占めているのは赤い瞳をした優しい彼のことだった。追いかけられないまま、置いて行かれたまま、彼女はここでひとり蹲って、自分の心の美しいところを守ることしかできない。
そんな七絆の様子を見てから、胡蝶は視線をついと動かす。それは先ほど零が走り去った方向だった。その方向を、胡蝶は目を細めて眺めた。
「―――追わなくてよろしいのですか。大切な人でしょう、貴女様にとっては。手段を択ばすにも助けたいと思ったのでしょう?」
「……わからない。わからないんです。私はどうしてそう思ったんでしょう? 好きだとか、大切だとか、よくわからなくなってきた。こんなのは『私』じゃない、そんなのは『私』じゃないはずだ。それに、みんなの言う“嘉翅七絆”はもっと……。そう、もっと惰弱で惨めで可哀想なほどに愚かで、ひとりじゃ何も決められなくて、誰かを傷つけることなんてできなかった。じゃあ、それなら今の『私』は何なのだろう。大切なものというラベルを貼って、誰かを傷つけている『私』は」
最後の方はほとんど呟きだった。俯いたままぶつぶつと呟いていれば、先ほどまで遮られていた雨が再び七絆の身体を濡らし始めた。胡蝶が傘を閉じたのだ。雨が堂々巡りの思考を叩いては、ぐるぐると迷宮みたいに出口のない道を巡らせる。思考回路が閉じてしまって、まるで研究所の中のモルモットだ。
だから、七絆は気づけなかった。胡蝶の様子がいつもとは違ったことに。
七絆の脇に乱雑に傘が投げ捨てられた。いつも優雅な胡蝶にしてはひどく珍しい行動だった。水たまりに落ちたそれは音ともに水飛沫を上げる。その水滴が七絆の頬にも飛ぶが、彼女はそれを拭うどころか身動ぎ一つしかなかった。
「貴方にはひどく失望した」
突き放すような、無機質な声がした。胡蝶の彼女を見る視線はひどく冷たいもので、まるで汚物でも見るかのように人を蔑んだ瞳だった。今まで七絆を見ていたそのどれもと色が違って、ともすれば攻撃性をも含んでいる。
七絆は胡蝶の言葉に何も返さないまま、俯いていた。そんなことをしていたって、冷たい雨は降り止まないのに。
嘉翅七絆は身体に突き刺さる視線の意味を知っている。いつだって“嘉翅七絆”に付き纏う視線によく似ていた。
お前じゃない。お前じゃない。お前は“嘉翅七絆”ではない。お前はそうじゃない。そう言われている視線だった。勝手に期待して、希望のものが得られなくて失望するそれらと一緒だ。
「きっと彼女なら一も二もなく彼を追いかけたでしょう。そうして、抱きしめてあげたでしょう。クイーンだったら、ともすれば毒のような甘言を彼にかけて慰めてあげたでしょう。何があっても、自分は彼の味方だと、そう言うでしょう。それなのに、貴女はひとり、拒絶を、孤独を恐れてここに蹲っているだけだ。わかったふりをしていた彼の正体を知るのを恐れて、そして自分の愛を信じ切れなくて、ただただ無意味に時間を浪費して居座っている。自分のことしか考えられない袋小路の鼠、思考回路の狭い恥知らずの乙女。そうやって悲劇のヒロインでも演じるつもりなのですか?」
胡蝶の言うことはとてもまっすぐで正しくて、その分七絆によく突き刺さった。目を逸らしている人間への正論はその人をひどく傷つける。七絆は何も言い返せないで、冷え切った両手でコートを握った。吐き出したものは白い吐息だけだ。
追いかけられなかったのは、あの悍ましい行為を零がするわけがないと、受け入れられないと思ってしまったから。抱きしめてあげられなかったのは、それを肯定できた彼女が拒絶されるのが恐ろしかったから。彼の味方だと言えなかったのは、自分が都合のいい“零”という人物を投影していたことに気がついたから。
挙句に、七絆は自分の本質にさえ疑問を持ってしまった。彼と初めて出会った時のように、あの赤い瞳を見ていると時折、既視感を伴う激情と歓喜に包まれて自分自身さえを見失いそうになる。この想いがもしかしたら七絆の記憶にない『ナニカ』に付随したものなのではないかと。この感情が本当に自分のものなのかがわからなくなってしまうのが恐ろしかった。それは“ナズナ”と呼ばれる少女の根底を揺るがすことなのだ。思考が固まって、それ以上は何も考えたくなってしまう。だってそれを知ってしまったら、きっと“ナズナ”には戻れなくなってしまうから。
「貴女には落胆させられました。もっと先見の明があり、思慮深い方かと思っていましたから。いつか“彼女”になる人間だと期待していたのですが、当てが外れたようですね。私も大層時間を無駄にしてしまった。ああ、こんなところをクイーンに見られたら、彼女は私めを叱って、罵り、甚振ってくださっただろうに! ええ、ええ、そのクイーンも今や死んでしまわれた。ハートの女王を失った白兎はどうすればいいのだろうか。このままでは法廷が開けない、物語が進められない。時計を持ったまま彷徨い果てて、ついにはアンデッドへと。ねぇ、クイーン。かつてクイーンであったものよ。俺はこの想いをどこに持って行けばいいんだい? 何を思って生きていけばいい? きみのせいだ。きみが俺を失望させたんだ」
「うるさい!」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!! 私はそんなものじゃない! 私は『私』だ! 誰が何を言ったって、私が嘉翅七絆だったんだ! 勝手に期待して、希望して、見たい人物像を私を通して見て、勝手に失望して。それは私のせいじゃない! そんなのは『私』じゃない!」
七絆は癇癪を起こした子どものように頭を抱えて叫んだ。血を吐くような嚇怒と哀絶を混ぜ合わせたような咆哮だった。ともすれば獣の如き唸り声さえも聞こえてきそうだ。胡蝶はそれを涼しい顔で見遣った。
「ならば、きみは何になるんだ? もはや、どこにも行けない迷子のくせに」
その言葉に、七絆は一瞬呼吸の仕方を忘れた。
「わ、私、私は―――」
「きみの名前は『嘉翅七絆』。酷く臆病で矮小で取るに足らない路傍の小石のような存在で、研究に狂った愚かな母親の元に生まれた可哀想な子ども。そうだろう?
「違う! 違う違う違う違う違う違う、違う! 『私』はそうじゃない! 『私』はもっと、もっと……」
ふと、彼女は思った。そうだ、何になればいいのだろうと。周囲の視線によって、彼女は『嘉翅七絆』という存在に囚われ過ぎた。そうであるようにと縛り付けられた。
そう、零と出会う前は。
零と出会ってから彼女は知った。何になればいいかわからないのなら、彼女は何にだってなれる。それだけの選択肢を持っている。以前、零にそう言われたのだ。重要なのは何になれたかという結果ではなく、何になりたいかという意思。それを七絆は忘れていたのだ。
彼女にも『嘉翅七絆』という亡霊が憑りついていたのだろう。それが不安定な彼女を少しずつ、毒が蝕むかのように『嘉翅七絆』という存在に落とし込もうとしていたに過ぎない。記憶もなく、自己認識すらも曖昧なひとりの少女に過去の人間の幻影を貼りつけようとしていた。
その呪いから逃れたいと思うのなら、今こそ少女は自己を確立させて幼き『嘉翅七絆』という少女を引き剥がさなければいけない。
「じゃあ、それでいいじゃないか」
胡蝶はあっけらかんと七絆にそう言ってのけた。この雨の下、上から七絆を覗き込みながら、逆さまになった彼女へとそう告げた。彼の真っ黒な髪がまるでカーテンのように七絆を外界から遮る。その毛先からは水滴がぽたぽたと垂れていた。
「―――それで、いい?」
七絆は口をぽかんと開けたまま、逆さまの彼の言ったことを鸚鵡返しにした。胡蝶はまるで悪戯が成功した少年のようににんまりと口の端を持ち上げると、大きく「その通り!」と言い切った。
「きみが違うと言うのなら、それは違うのさ。他人の意見など、自分の意思の前に比べたら消えかかった蝋燭の明かりの如きもの。意味などないさ、周りの言葉なんかに。きみも言った通り、見たいもののみを見て、聞きたいもののみを聞いて、信じたいものしか見ない、人間なんてそんなものだ。だから、彼らは責任も取れないことをああだこうだと言ってくる。その言葉に信念はない。ただ相手をコントロールして悦に浸っているだけだ。それらをきみは受け入れて優等生にでもなるつもりかい? 誰が何を思っていようと、きみがそうしたいと思えば関係ない。相手の意見を自身で受け入れて、自分でそのようにと思わなければ白紙の指令書のようなものさ。長くなったが要するに、全てを決めるのは己自身しかいないということ」
「周りが何を思っているかなんて関係ない……」
「きみの人生だ。きみの好きなように、きみの好きな名前で生きろ。それが自分というものだ。誰かの代わりになんて誰もなれやしないんだから」
胡蝶は頭を上げると、くくっと喉の奥で笑った。今七絆の目の前にいるこの男も、結局は誰にもなれやしなかったのかもしれない。吊木胡蝶という名前を持った男にしかなれなかった成れの果てだ。
ならば、七絆もまたそうであるべきだ。かつての『嘉翅七絆』(少女)になれなければ、少女は新しいものにならなければならない。
『ナズナ』
あの優しい声で零がそう呼んでくれる、少女になるのだ。それこそが今ここにいる彼女にできることであり、彼女が望んだことだから。誰かが望んだわけじゃない。『ナズナ』がそうありたいと思った。
七絆は天を見上げ、ぱちりと大きく目を見開いた。唐突に七絆の視界が晴れた気がする。どうしようもなくつまらない疑問に足を取られていたのだろうと彼女は思った。正解はいつだって隣にあったのに、七絆は今まで築いていたものを壊すのが恐くて、見ないふりをして認識しないようにしていただけだった。
「―――愛に従順で在れ。『愛以外に信じるものは一切なく、愛こそが私を突き動かすものなの』と。よくクイーンが仰っていた言葉ですよ。今の貴女の存在を支えているのは、彼に向けた愛だけだろう? ならば、それを信じずに空っぽな貴女は何を信じられるというのです。それが例えば前世からの運命だというのならば、そのレールからは逃れることはできない」
「……運命だなんて、そんな甘っちょろい言葉で私の想いは括れやしませんよ。私が『私』だから、零に出会って恋を知ったんだ。これはそんなカミサマみたいな見えもしないやつが決めたレールの上の出来事じゃない。人間の問題だ」
「ふふふ、そうですか、そうですか。いえ、しかし、どうするのです? 彼はもう行ってしまった。此処にいるのは悲劇のヒロインなんて陳腐なものではないでしょう。ここから先はいかがいたしましょう、貴女は、きみは」
「追いかける」
そう言って七絆はびしょびしょに濡れたコートを意にも介せず立ち上がると、その場で大きく屈伸をした。先ほどまで痛んでいた足首はもう痛まない。
「私は零を追いかけて、彼に聞かなければいけないことがある。伝えなければいけないことがある。力いっぱい抱きしめてあげなきゃ」
「けれども、彼は逃げるかもしれない。それにもう行ってしまったよ。どこかに行ってしまったよ」
「行くだろう場所は大体見当がついているし、私はもう逃げないし、逃がさない。逃げるんだったら、もう殴り飛ばしてでも止めるしかない。零には関係なく、私がしたいことを押し付けるんだ。それで私たちは人間の私たちを知りあわなくちゃいけないんだ。そうでもしないとこの物語に終止符が打てない。諦めきれないのさ」
「戦争だね、そうだ、戦争をしよう。愛で殴り合い、恋を謳う戦争をしよう。彼も血に塗れているのなら、きみもまたそうだ。俺の、私の、吊木胡蝶という男の手を取ったのなら、きみはもう綺麗なままではいられない。その裏の犠牲を知らない、何も知らない無垢なままではいられない。それをわかって、私の手を取ったのでしょう?」
「そんなこと改めて言われるまでもなくわかってるさ。私自身の覚悟はついていた。けれど、零がそうなるってことへの覚悟が足りてなかった。いや、もしかしたら零にも過去にそういうことがあったかもしれないってこと、わかっていながらも見ないふりをしていた。現に、私は彼のことを何も聞いてこなかったから。純粋無垢で善良な“人間”であるというイメージを壊さないために。―――血に濡れない愛に意味なんてない。何も喪失を伴わないものは愛とは言えない。だから、私はもう、逃げない」
ぐっと伸びをすれば、背後で胡蝶は小さく笑った。そして、その肩にゆっくりと重みがかかる。濡れた布が僅かにその体温を伝えてくるが、少し低いそれは確かに人間のものだった。
「そう、それでいい。貴女様はそれでいいのです。愛を疑わず、愛に生きれば、自己満足であろうとも、それは誰かへの救いになる。それが自分だろうが相手だろうが、欺瞞と偽善の想いで見せかけだけだったとしても救われる。さぁ、行かなければ。貴女は行かねばなりません。白雪姫が棺の中で待っているのならば、その棺を蹴り飛ばしてやらなければ。元より毒林檎なんてなかったのだから」
耳元に毒に似た劇薬のような言葉が吹き込まれる。それが誰かにとってよくないものであっても、七絆の身体にはちょうど良く染み込んで、その背中を押した。
そうだ。ならば、七絆が取る行動は一つだけ。
彼女はその答えをずっと前から知っていたのだから。
胡蝶の手を振り払って、七絆はしっかりと前を見据えた。その先には恐がりな彼が待っているに違いない。足元では胡蝶の傘が雨に打たれているが、そんなものはどうでもよかった。全身の傷も不思議と痛くない。
「最後にひとつだけ。きみは一体誰になるんだい?」
雨音で消されてしまいそうなほど小さな声で、七絆の背に疑問が投げかけられる。さっきまで散々七絆が考えていたことだった。
気がついてしまえば、とても簡単なことだ。
『愛に従順で在れ、きみよ。愛を謳えよ、我ら』
いつかの誰かが言った言葉。
彼女はコートの裾をひらりと翻して、蕾が花開くかのように蕩けた微笑みを浮かべた。
「私は『ナズナ』。彼がそう呼んだ日から『ナズナ』になったの」
胡蝶はその言葉に満足そうに笑った。彼にしては珍しく、屈託のない少年のような笑みだった。駆けだした七絆を止めることもなく、ただただ小さくなっていく彼女の背を見送る。彼女の背が見えなくなってから、ようやく転がっていた傘を拾い上げた。軽く振ってから傘を広げるが、雨を吸い込んだそれはあまり意味をなさないが、先ほどまで雨の下にいた彼にはそんなことは関係ない。ただ、今は冷たい雨に打たれていたくなかった。
「さて、」
胡蝶は小さく呟くと、端末を取り出した。
「道化というのも楽ではないなぁ。まったく、『彼女』には毎度世話を焼かされる。しかし、それも『彼女』の命令とあったならば仕方がない。『思い出さないのであれば、無理矢理にでも思い出させろ』、か。本当に俺の気持ちを一切考えていない。まぁ、そんなところがまた『彼女』らしいくらいに『彼女』らしい。それに、俺が出会う前の『彼女』に会えたと思えば、それはそれでいいか。……それにしては清純すぎるか」
端末を取り出した左手、そこからはぼたぼたと血が垂れていた。それは地面に落ちると雨に混じり合って、色を薄くしていく。赤色はどんどんと消えていき、最後には色のない水たまりに戻っていく。そんな光景を彼は無感動に見ていた。
「いつになっても『彼女』は変わらない。まったくあの頃が遠い昔のようだ。……いや、そんなに経っていないはずなのに、俺ももう耄碌したか? しかし、こんなアクシデントがあるとは。『彼女』はそれもまた良しとするんだろうが……。『彼女』に与えられたモラトリアム期間と言ったところか。あまり長くなりすぎないことを祈るとしようか、いもしない神に」
胡蝶は道端に転がる“ゾンビ”だったもの、人型としての原形をとどめていないそれを見遣る。黄色いレインコートの上を赤い血がてらてらと彩っている。それから、七絆のバイト先である夜日羽研究所がある方向を見た。鬱蒼と広がる木々に阻まれて、依然としてその姿を隠したままだ。
「まったく、あの研究所も何をしているのやら。頭部を失ったにも関わらず生き続ける鶏みたいにあちらこちらと。しかし、あれもまた亡霊に憑りつかれた男か。クイーンと夜日羽葵、両者に違いがあるとすれば何かを遺せたか、そうでなかったかということ。その点、俺はツイてるなぁ。なんたって『彼女』から全幅の信頼を寄せられている。それに俺もまた彼女を裏切らない。そう誓ったあの日から、全ては『きみ』のために」
研究所を覗いてみようかと考えて、やめた。あそこはあそこで今はあちらへこちらへ大わらわだろう。これ以上彼らの手を煩わせるのも可哀想であるし、それに胡蝶自身あの死体安置室のような研究所に興味はない、ただ有用に活用してやることがせめてもの手向けだろう、あの鬱屈した男に向けての。
「愛だの恋だのと、彼女はそれはそれは楽しそうに語ってくれたが、真実を知ったら彼女はどうなるのだろうか。きちんと『彼女』へと導いてあげなければ、ね。それにしても、結局のところ、誰も彼も運命に身を委ねるしかないというのに。彼女もまた、『彼女』としての自覚を持つという運命しか待ち受けていないのに。……レールの上は走りたくない、か。俺だって走りたくないさ、そんなもの。けれど、私たちは止まれない。もう、望んだとおりの破滅の道を進むしかない。まぁ、それもまた俺の愛か」
薄らと笑って、彼は差していた傘を閉じた。雨は激しく胡蝶の身体を濡らしていくが、彼はそんなことを些事として空を見る。眼鏡のレンズに水滴がついて向こう側が見えにくいが、それでも鉛色の雲が空に張り付いてるのが見えた。
「さて、私も仕事をしなくては」
彼は軽快に端末を操作していく。その左手の血は止まり、雨がその傷跡すらも流していた。あと一歩、電話を掛けるというところで胡蝶はその指を止めた。
「……月下で始まったのなら、月下で終わるべきだ。運命から逃れられないのなら、そうであれ。しかし、こんな生憎の天気だ。雨の下で終わるのは味気ない。ならば、ここは別れ時ではないということ。―――それにしても、」
物思いに耽るかのように、胡蝶はゆっくりと目を閉じた。彼の脳裏には三日月形をした紅色が広がるだけだ。目を開けば、天から降り注ぐ雨粒が痛かった。
胡蝶は七絆が去っていた方角を振り返る。そこには当たり前のように彼女の影も形もなく、ただ真っ暗な道が続いていた。胡蝶は少し目を伏せて、自嘲めいて笑って見せた。
「少し、妬けるなぁ」
レンズの奥が赤色に歪む。その呟きは誰に聞こえるわけもなく、雨音に掻き消されていった。
ぼうっとしてたらずいぶん経ってました。違う方に興が乗ったので、ゆっくり上げてきます。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




