さようならが言えなくて
第四十二話。一部グロテスクな表現があります。
きみを殺す夢を見た。
きみを貫いた腕はきみの体温で包まれて、きみが生きていたことを知らしめてくる。そして、その命が今この腕の中で散っていったことも。腕を伝う赤い液体が生温くて、愛おしくて。
掌の中で潰れた心臓が未だに鼓動を打っている気がする。勘違いだということはわかっている。急速に離れていくきみの体温がいやというほどそれを伝えてくるのだから。
これで本当によかったんだろうか。そんな意味のない自問自答をする。
「いつか私が私でなくなったら、その時はあなたが私を殺してね」
きみを殺す、夢を見たんだ。
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七絆と零、二人が何も言わない状況が続いてどれほど経っただろうか。ふいに冷めたように細められた零の瞳が正気を取り戻したかのように大きく開かれた。そこにはありありと困惑の色が乗っている。
「あれ、ぼく……?」
声が出るかを確かめるように呟いて、ゆっくり瞬きをして。真っ先に視界に入ったのは血だらけのまま呆然と零を見上げる七絆だった。怪我でもしたのだろうかと、その姿に零は慌てて彼女に手を差し出そうとして―――
そうして気がついた。自分の手が七絆を彩るそれと同じ色をしていたことに。ふらふらと頼りなく揺れる彼女の視線を追って行けば、そこには頭部を失った人間の死体があった。否、死体なんて綺麗なものではない。ただの肉塊だ。死の塊でしかなかった。七絆の口は何かを言おうと動くが、そこからあの優しい声が出ることはなく、白い息だけが震えるままに吐き出される。
そこで零はようやく自身が起こしたこの惨劇を理解した。この現状と、自身の姿に理解が追い付いた。
決して今までの記憶がないわけではない。外に飛び出してから、零は無断で持ってきた七絆の端末から発せられる合成音に導かれるまま走っていた。“ゾンビ”である零は“ゾンビ”の中でも比類なき身体能力を持っていたのだ。逸る想いに身体が追い付いてしまって、家から彼女の元まで、彼の体感では一瞬だった。
そして、街灯の下で座り込んでいる七絆を見て、今まで胸に巣食っていた不安が霧散して、ほっとしたのも束の間。彼女の真後ろには零にとっての“外敵”がいたのだ。それは目の前の彼女を害そうとしていて。そこから先の記憶がどうしても不鮮明だった。胸に燃え上がるような荒れ狂う激情を認識したことは憶えている。
(あれはお前の敵だ)
(殺せ)
(殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ)
誰かが指を差した気がした。だから、その言葉のとおり殺さなければいけないと思った。殺していいものだと思った。殺すべきだと信じた。
それだけだ。
それに従った結果がこれだ。自分の周りに広がる血だまりと、息が吸いにくくなるほどの鉄錆の臭い。そうして、怯えたようにこちらを見上げる七絆の姿。
「なず―――」
もう一度、零が七絆に視線を向ければ、彼女は自分を見て小さく身体を震わせた。零という化け物に恐怖している。彼女の夜空を思わせる色合いの瞳には、今の零はどう映っているのだろう。愛すべき人だろうか。それとも、ただの化け物だろうか。うっすらと頬に残る涙の跡が零を責めているように思えてならないのだ。
未だに思考はまとまらないけれど、零は釈明を求めて七絆に近づこうと一歩踏み出せば、彼女は見るからに身体を強張らせた。ぱしゃんと血だまりがまるで水たまりのように明るい音を立てて、赤い飛沫を上げて落ちていった。まるで救いを求めるかのように彼女に伸ばした手は血で染まっている。
―――あぁ、失敗した。
なぜかそんな言葉が思い浮かんで、思わず自嘲的な笑みが零れる。何が失敗したのだろう。己の獣性をあの美しい少女に見せてしまったことか。結局のところ、顕在型も潜在型も関係なく、ただの“ゾンビ”であるということがばれてしまったことか。決して零が特別でないことが露見したことか。
(失敗した。お前は確かに失敗した)
好きだと言ってくれた。抱きしめると抱きしめ返してくれた。零の心をあの無機質な研究室から出して、温かい家庭を教えてくれた。零の拙い甘え方を微笑みながら受け止めてくれた。
零を“人間”だと言ってくれた。
(それらは本物だった? ただ表面を見て気に入ったから手元に置いただけじゃないのか? まるで綺麗な宝石を大切にするかのように。現実を見ろよ、お前は宝石なんかじゃない。ただの血の塊だろ)
そうなのかもしれない。
そんなものはまやかしだったのかもしれない。零が勝手に夢見て、そうであってほしいという理想を彼女に押し付けて。彼女も零の悍ましい側面を見ないふりをして。互いが特別だと、そうやって依存しあっていた。
そんな朧げな夢から彼女が目を覚ました、それだけのこと。零が七絆を詰ることなんてできるはずもない。そもそも生きている道が違ったのだ。それが偶然にも交差したと思ってしまった。その道には大きな高低差があったのにも関わらず、その差に気がつかないまま上と下とで見つめ合って、それを運命とかロマンチストみたいに呼びたがった。
けれど、とどのつまり。どれほど言葉を重ねたとしても。
嘉翅七絆はただの人間で、零はどうしようもなく怪物だったという話だ。
ただ一言、彼女に帰ろうと。それだけを伝えればよかったのに、喉が張り付いて声が出なかった。彼女の無事が嬉しくて、駆け寄ってあの薄っぺらい身体を抱きしめたかった。でも、それはもうできないのだろう。
時間は巻き戻らないし、巻き戻せない。残酷なまでに一方通行の流れにただ身を任せるしかない。
零が“人”を殺したのは、消せない現実だった。
七絆と零が出会ったことを運命だというのなら、これもまたそうなのだろう。あの月の下で出会ったのなら、同じようにこの下で別れるのも必然で。
何て滑稽だったのだろう。悲劇なんかではなく、喜劇だったのだ。見世物小屋の戯れのようなそれ。ただ、零は己が悲運を呪いたがっていただけだ。化け物のくせに、誰かに同情してもらいたくて、誰かに愛され見たくて。そこにキャスティングされた人間が七絆だったというだけだ。
零も七絆も運命という糸の下で踊らされる哀れなもののひとつだった。
何かを言おうとして、口を開いても、そこから先が出てこない。
さようならが言えない。それを縁に縋りついてしまいそうになるから。
遠いその先の、いつかを期待してしまいそうになるから。
だから、零は黙って七絆に背を向けた。そして、そのまま地面を抉らんばかりの勢いで走り出した。想いも何もかも振り切るかのように、一度も振り向かずにその背は闇へと溶けていく。
その背を七絆はへたり込んだまま、何も言えないままに見ていた。七絆は何も言えなかったのだ。きっと助けを求めていて、誰よりも混乱していただろう彼を抱きしめてやることもできないまま、ただの無力な人間のように座り込んでいた。
このままではいけない、そう思うのに、頭と体が切り離されてしまったかのように動けない。頭がひどく痛んで、その奥では誰かが何かを叫んでいる。
追いかけたい、追いかけなければならないと思っているのに、力を失ったかのように体が動かない。疲労と痛みが次から次へと襲ってくる。考えがまとまらない。
ぼうっとしている視界の端に黒いものが風に揺れているのを見た。
緩慢な動作でそちらを見れば、あの日遊園地に行った時に零が被っていたキャップだった。反射的に重い腕を伸ばしてそれを持ち上げれば、白地の刺繍部分が赤く染まってしまっていた。それは今の七絆の心中を表しているかのように見えて、思わず自虐的な思考が顔を覗かせる。
「……私に、零を追いかける資格なんてあるのかな」
七絆は零を傷つけた。それは言い逃れのできない本当のことだ。そして、何も考えずに彼の背を追いかければ、また彼を傷つけるのだろう。お互いに傷つけあっていれば、零は七絆の腕から抜け出て行ってしまう。
次はない。次に何かあれば、この関係は破綻してしまうのだろう。お互いが互いを尊重しすぎていて、理想のふたりを押し付け合ってきたのだから。綺麗なものだけでなく、汚いものまで、等身大のふたりになって。そうしないといけないのに、七絆はその一歩が踏み出せない。
一度この掻き混ぜられた感情に答えを見つけ出すべきだ。しかし、心はそれと裏腹に今すぐ彼の背を追いかけたがっていて、相反する想いが七絆を苛む。結局考えは散乱したまま、そのまま思考を放棄してしまう。それが一番楽なのだ、結局は何も考えずにいることが。
七絆は零の去ったその場所で、彼の被っていたであろうキャップを大事そうに抱きしめる。温もりなんてものはないけれど、それだけが拠り所だった。
残されたのは答えを探したままの真っ赤に染まる迷子と噎せ返るばかりの死臭だけだ。
読み直しながら書き直すと文字数が千字くらい増えるミラクル。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




