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リビングデッドにキスをして  作者: 神川 宙
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やくそく

第三十九話。

 ぱちりと目を開くと、身体のあちらこちらが痛む。気絶していたのだろう、どれほどの時間が経ったか。空には今にでも雨を降らしそうな雨雲が広がっている。

「――ッ、いった……」

 七絆は崖の下で目を覚ました。立ち上がろうとすれば足をひどく捻ってしまったようで、まるで立ち上がれそうにない。仕方なしに座ったまま身体を確認してみれば、切り傷から始まり身体を埋め尽くすように傷だらけで血もひどく出ている。せっかくのコートもぼろぼろだった。

 自身が落ちてきたであろう崖を見上げれば、かなりの高さがある。切り立った崖でできた影が深い。打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれない。むしろこの程度の傷で済んだのが奇跡のようだ。

「それにしても、なんだか嫌な夢を見ていた気がする……」

 落ちた時に強かに打ちつけられたのだろう痺れる右手をぷらぷらと振りながら、七絆は崖上を見上げていた形から首を戻した。途端に額から何かが伝う感触がして、無事な左手で拭ってみる。その手を見れば暗闇の中でも辛うじてわかるほど真っ赤に染まっていた。

 ぼうっとそれを見て、大量出血だと笑おうと口の端を持ち上げかけたが、七絆はその意味を認識して青褪めた。

 血だ。これはまごうことなく血だった。さらに言えば、嘉翅七絆から出た血である。

 座り込んでいる場合ではない。先ほどまでは立ち上がれなかったが、生命の危機に瀕しているからかなんとか立ち上がれそうだ。一瞬足元の何かに足を取られかけるが、そんなものに構ってはいられない。痛みは消えないけれど、どれほど遅い歩みであったとしてももいい、一刻も早くここを離れなければならない。


 いつ、この血の匂いに気がつかれるかはわからないのだから。


 “ゾンビ”は血の匂いに敏感だ。それは恐らく、顕在型・潜在型関わらず。

 どれほど敏感かと言われれば、数百メートルであれば指先を切った程度であったとしても感知できるほどだ。気分が悪くなるのを防ぐために薄目で見ていた教本にそう書いてあったのを七絆は覚えている。

 七絆が生きてこの場を切り抜ける最低かつ必要条件は怪我をしないことだった。あの“ゾンビ”は目が悪かったが、例に漏れず血の匂いには敏感なはずだ。もしかしたら、視覚が鈍い分、嗅覚で補われている可能性だってある。あまりにも最悪な状況に七絆は笑ってしまいそうだ。震える足を叱咤して、今はとにかく前に。

 吐く息は揺らめいて、途切れ途切れだった。

 恐くて恐くて恐くて、狂ってしまいたかった。

「―――ははっ。なんでこんなとこにまで“ゾンビ”がいるんだか」

 乾いた笑いとともに今更そんなことを一人呟いても答えはない。未だに痺れたままの右腕が歩く衝撃でぷらりと揺れている。バランスの取れない不格好な姿のまま、七絆は構わずに足を動かし続ける。

 靴がねちゃりと水音を鳴らした。雨など降っただろうかと頭の空いている部分で思ったが、天気のことなど今の七絆にはどうでもいいことだ。右足が未だに傷むことすら、七絆の歩みを止めるものではない。


 帰らなくては。

 零の待つ、あの家へ。

 やくそくを、したのだから。


 少し歩いただけで息が上がり、視界も朦朧としてきた。それはそうだと七絆は独り言ちる。暗闇でよく見えなかったため、正確に目視で確かめてはいないが、決して少なくはない出血をしている。恐らくは頭も打っている。本来なら安静にしていなければいないところを無理を押し通しているのだ。

 きっと“ゾンビ”にとっては芳しい香りだろう。後ろから殺意に似たプレッシャーを感じるのは気のせいだろうか。

「……っは、気のせいなはずないだろ、私」

 今にも倒れてしまいたかったが、七絆は諦めるわけにはいかない。いま出せる精一杯の力で地面を蹴り出す。ぐらりと身体が傾ききる前に足を出して、転がるように走り出した。

 元々七絆は足が速くはない。けれど、今よりは速かっただろう。ほとんど平時歩いている時と変わらないスピードだったが、今の彼女には“走っている”というイメージが重要だった。今、ここを“逃げ出そう”としている認識が必要だった。

 わかっている。わかっているのだ、嘉翅七絆は。

 きっと己が零の待つそこへ帰れないことを。

 これほどの怪我だ。そもそも動けていること自体が奇跡としか言いようがない。そして、これほどまでに血を流しているのだ。“ゾンビ”がそんな獲物をみすみす見過ごすとは思えなかった。ここで嘉翅七絆は惨たらしく“ゾンビ”に殺されるだろう。そう遠くない未来、手を伸ばせば届く距離の話だ。

 わかっていた。わかってしまっていた。

 もはや恐怖心はない。達観しているのだろうか、心に揺れ動きはなかった。死ぬことはあれほどにも恐かったはずなのに、自分が死ぬことは些事のように思えている。七絆はひとりが死んだところで世界は変わらず回り続けるし、零だって死ぬことはない。それでよかった。

 それでも。

 それでも、彼女が無意味な抵抗を続けるには意味があった。誰にも、己が自身すらも望まなかったとしても、そこには確かに意味があった。


 少しでも彼の傍で。

 七絆の帰りを待っている彼のために。

―――きみの傍で死にたいのだ。


 最初に踏み出した勢いで惰性のまま走っていたが、木の根に躓いてそのまま受け身も取れずに顔から地面に倒れ込んだ。それでも勢いは止まらず、前に転がっていく。鼻の奥からぬるりと何かが垂れ落ちる感覚がする。

 けれど、どれだけみっともなくても、惨めったらしくても、僅かであったとしても前に進まなければならない。七絆は諦めるわけにはいかない。自分の生を諦めたとしても、たったひとつ心に残るもののために、嘉翅七絆は諦められない。

 背後からは隠そうともしない荒々しい足音が迫ってきている。七絆は垂れてきた鼻血をコートの袖で乱雑に拭うと、立ち上がって走り出した。疲労からか足の力が抜けてしまいそうだし、アドレナリン効果も切れてきたのか腫れた足が痛くなってきている。でも、それと同じ分だけ心は軽かった。心なしか足も速くなっている気がした。全てがあべこべだけれど、走れるのならばそれでいい。

 相変わらず自分の現在地はわからないが、それでも森の外には近づいているらしい。表通りに面する数少ない街灯の光がちらついて見えた。足音も彼女のすぐそばまで迫ってきている。

 七絆は街灯の光を掴むように左腕を伸ばした。その勢いで森を抜けたが、同時に足元の生け垣に足を取られる。ぱきぱきと小枝が折れていく音とともに鋭い痛みが走った。七絆の身体が前に倒れる時、後頭部を何かが掠める。恐らくは“ゾンビ”の手だったのだろう、その魔手から一瞬だけ逃げ延びたが、その代償として七絆は再び地面にキスする羽目になった。

「ふ、ふふふふふふふ、ふふっ、ふふふふ」

 倒れ込んだまま、七絆は笑い始めた。倒れた七絆からは見えないが、すぐに後ろには“ゾンビ”がいるのだろう。人間とは絶望的な状況になると笑うしかなくなるらしい。先ほどまで死んでしまいそうに音を立てていた心臓は静かになっていた。

「うふ、うふふふふふふ……」

 辛うじて状態だけを持ち上げたが、到底立ち上がれそうにはない。彼女の目からは涙がぼたぼたと流れていき、アスファルトに落ちて小さな染みを作っていく。なんとか上体を持ち上げることはできたが、後ろを振り向くだけの気力はなかった。


『できるだけ早く帰ってくるから。指切りげんまん、嘘吐いたら針千本のーます、指切った! はい、これで零はもう大丈夫!』


 零との約束は守れそうにない。一体何が大丈夫だったのだろう、何を根拠にそんな言葉を吐いたのだろう。人生なんて不確かなものだ。約束は叶わなければ呪いになる。そんな悍ましいものを零にかけてしまったのだけが悔やまれる。

 誰かが自分の身代わりになってくれればいいのに。今この道を通っている名前の知らない誰かが自身の代わりに襲われてはくれないだろうか。人気のない通りに座り込んだ七絆はそう思う。でも、助けてほしいとは思わなかった。

 だって、七絆を助けてくれるのは零だけでいいから。

 ゆっくりと“ゾンビ”の腕が七絆へと伸ばされる。七絆にはもう身動ぎするだけの余力すらない。何よりも全身が傷だらけで痛かった。七絆は口元に笑みを浮かべたまま、静かに涙を零し続けている。

 どうやら、本当に嘉翅七絆という人間の人生は終わってしまうらしい。この人生にどれほどの意味があったかどうかなんてわからないし、そのことに思うところがないわけではないが不満はなかった。

 僅かな時間でも零と共にいられて。形のない温かな想いをこの胸に宿して。

 “ゾンビ”の腕が振り上げられる。

 きっと零のことなら大丈夫だ。彼の純粋さに惹かれた優しい人間が彼に手を差し伸べてくれるだろう。人を傷つけるのを厭う美しい人だから、七絆よりも善性に満ちた人間の元へ行けるはずだ。

 七絆がここで死んでも、零の命は廻り続ける。

 それでよかった。


 けれど。

 けれど、我が儘を言うのならば。

 もっと一緒にいたかったし、二人で行こうと言っていたお店にも行きたかった。何回だってデートがしたかったし、あの大きな背中を抱きしめて彼の身体に響く自分の鼓動の音を聞いていたかった。

 彼が名前を呼んでくれる声が好きだった。

 美味しそうに作ったご飯を食べてくれるのが好きだった。

 抱きしめると、あの大きな手でぎゅっとしてくれるのが好きだった。

 自分の体温が彼に移るのが好きだった。

 あの赤い瞳が自分を見つけて優しく形を変えるのが好きだった。


『ナズナ!』

 瞼の裏で彼が笑った。

 日向に咲く向日葵のような笑顔だった。


 それにつられたように七絆も穏やかに微笑んだ。


「ぜろ、わたしはやっぱりきみがすき」


恐らく今年に入ってから休日は数えるほどしか外に出ていない気がしますが、この前の健診時に「真ん中の数字が去年より大きく増えてますが……」とは言われました。その欄は体重ですね……。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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