fallen
第三十六話。
「そ、れじゃあ、私はここで……」
「だめです。所長とも約束しましたし、ちゃんとバス停まで送っていきます」
正面玄関を出てすぐに七絆がそう言えば、意外にもマリアに首を振られた。玄関が薄暗いことも相まって、先ほど以上に彼女の表情は暗く見える。
「……よ、よろしくお願いします」
できることならここでお別れしたいところだが、マリアに断られてしまえば、七絆は共に帰らざるを得ない。それに固辞することによって、彼女との間柄がこじれても困る。主にこれからの七絆のバイトライフにおいては重要なことだった。
とりあえず一つ頭を下げて、再び歩き始めた。後ろからはさくさくと土を踏む音がするのでマリアもついてきているのだろう。いつもはぺらぺらと回るマリアの口も縫い付けられたかのように動かず、無言のまま二人の歩く音だけが響いた。なんてことをしてくれたのだと、ここにはいない薫を恨んだとしても状況は変わらない。
「……ねぇ、嘉翅さん」
研究所の明かりが既に見えなくなった頃、不意に背後から声を掛けられて七絆は思わず足を止めた。あまりにも冷え切った声音に、温かく着込んできたはずなのに冷や汗が出てくる。振り返った七絆にマリアの視線はうろうろと彷徨っていたが、彼女は意を決したように両手で握りこぶしを作ると、七絆を見つめて口を開いた。
「か、嘉翅さんって所長と付き合っていたりするのかな!?」
「へっ?」
あまりにも突拍子もない声のひっくり返った質問に、七絆は間の抜けた声を上げてしまった。片やマリアは顔を上気させて、両手を胸の前でぐっと握ったまま七絆を見上げている。
「や、やっぱり、付き合って―――」
「いや、いや、ないですからっ! というか、それだと雪落さん未成年に手を出してるってことになりますがっ!?」
「で、でもでも、こんな夜まで二人で事務室にいるなんて……」
「さっき来たばっかりですけど!? それに、雪落さんも今まで研究室にいたんじゃないんですか。たまたま休憩中だったのでは?」
「あっ、そうでした。私、さっきの実験では別室で待機だったので、すっかり……」
しょんぼりとするマリアを見て、七絆は心の中だけで「そりゃそうだろうな」と思っていた。彼女のミスで一時中断されたものをまたミスされでもしたら困るのだろう。その辺り、薫は非常にドライな男であった。後任の育成よりも現在結果を出すことが彼にとっての第一なのだ。
「その、本当に、本当ですかぁ? こう、禁断の恋だから言っちゃいけないとかではなく」
「き、禁断の恋が何なのかはわからないですけど、雪落さんとは雇用・被雇用以外の関係性はありません、誓って」
「ほ、ほんとのほんとに?」
「ほんとのほんとに、です。なんなら誓約書でも作りましょうか」
「は、はわぁ~、よかったぁ! 夜日羽室長のこととか、他の皆さんに聞いてずぅっと気になっていたんですよぉ。みんな微妙な顔しかしないんですもん。あぁ~、そっかそっか!」
マリアは赤くなった頬に手を添えてきゃあきゃあと声を上げた。マリアは意外と恋愛スウィーツ脳だった。
七絆は周囲の研究員から葵のことを聞いて、どうして薫に恋ができるのだろうと遠くを見ていた。別にマリアが悪いというわけではない。ただ恋をする相手が悪すぎた。
雪落薫は夜日羽葵信者だ。もはや狂信者であろう。葵のどこかに惚れたかなんて七絆にはわからないが、もしそれが彼女の頭脳であったとしたらマリアに勝ち目のひとつもない。変わり者とは言われていれども、葵は頭の切れる素晴らしい研究者だった。逆立ちしたってマリアには勝てない。
加えて、相手は死人。美化されることはあれど、それ以上イメージを落とすことはない。ましてや薫は彼女との思い出を大切に額縁の中へと押し込んで、それを見ては賛辞を送り、美化し続けている。彼の中では夜日羽葵は女神にでもなっているに違いないと思うほどだ。いっそあれは宗教だった。
「…………でも、本当は嘉翅さんも所長のことが好きだったり」
ちらちらとマリアは七絆を見てくる。ポジティブなのかネガティブなのかわからない。素直に人の言うことを信じたほうが幸せだと思うのだが。正しい時刻はわからないが、互いに終電に追われる身だ。好き好んでいつまでもこんな薄気味悪い森にいたくはない。七絆はこの話を強制的に切り上げるように、大きく溜息を吐いてから口を開いた。
「わかりましたっ! 小金井さんだけには教えちゃいますけど、私、付き合ってる人がいるんですよ! だから、雪落さんには、これっぽっちも、興味が、ないのです。これは本当のマジです」
びしりとマリアに人差し指を突きつけてそう宣言すれば、彼女は「えぇぇぇぇぇぇ!」と両手を上げて大げさなリアクションをした。ここまで言えばわかるだろうと胸を張った七絆に、マリアは顔をきらめかせて飛びつく。思わず七絆の口から蛙が潰れたような声が出た。
「そうなんですねっ!? じゃあ、嘉翅さんも私と同じで恋する乙女なんですねっ! それじゃあ、私が所長にアタックするの手伝ってくれますかっ!? いえ、嘉翅さんのことです、手伝ってくれるに決まってますよね。嘉翅さん……いえ、七絆ちゃん! これから手を取り合って頑張っていこうね!」
「え、えぇぇぇー……」
これは完全に読み違えた。七絆の予想では「そうなんですか。ラッキー」くらいで終わると思っていた。だから、こんな七絆の両手を取ってきらきらした瞳で見上げてくるマリアは何かの間違いだ。さらっとなんか面倒くさそうなことまで取り付けられた気もするが、それは絶対に気のせいだ。そうに違いない。
ほんのりと頬を染めて喜ぶマリアは本当に薫のことが好きなのだろう。そう、小金井マリアは雪落薫が好きなのだ。だって、彼女は隠す気配もないくらい恋する乙女のようだったから。
だから、七絆は彼女を心の底から気の毒に思った。彼女が薫から愛されることは一生ないだろうから。薫はもう亡い人間に捻じれた恋心を捧げているのだ。マリアはもういない相手と張り合わなければならないのだ。最高峰の知能を持ったイカレた亡霊を相手に、一人でぐるぐると。
きっとマリアは幻想の中の薫に恋をしている。まさに恋に恋する乙女。目の前が正常に見えていない。何もない空間に向かってアピールし続ける虚しさにいつになったら気がつくのだろうか。
七絆の両手を取ったまま楽しそうに何か語りかけてくるマリアが可哀想で、見ていられない。どこか、自分と重なる部分を見てしまったようで。対岸の火事とは言えまい、火の手はすぐそこまで迫っているのだ。
「と、とにかく、今日はもう帰りましょう。その、恋路の手伝いとかはまた今度に!」
意地の悪いことを考えていたからだろうか、七絆は居心地が悪くなり、マリアの手を振りほどいて歩き始めた。やはりこの森にいると気分が悪い。早くここから抜けたくて、つい足早になる。後ろからは「あー、七絆ちゃん、待ってよぉ」というのんびりしながらも楽しげな声が聞こえてくる。遅かれ早かれ彼女も追いつくだろう。
そう思って、七絆がさらに歩みを早めようとした時―――
後ろからどさりと何か重いものが倒れるような音がした。
冷や汗が噴き出した。ドクドクと早鐘を打つ心臓が血流を早めて、指先が熱くなってくる。そのくせ血の気が失せたように、頭から血が落ちていくような感覚がする。
この音を七絆は知っている。この間も聞いた、人の身体が倒れる音だ。その考えを支持するかのように、後ろから聞こえていたマリアの足音が聞こえない。
握りしめた拳は手汗で濡れている。ごくりと唾を呑み込んだ音が頭の中にやけに大きく響いた。後ろからのプレッシャーで圧し潰されてしまいそうだ。漂う腐臭のような鼻を突く臭い、ねっとりとした視線はまるで捕食者が獲物を見ているようだった。
後ろを振り向いてはいけない。そんな猶予はない。それに見てしまったら、認識してしまったらこの嫌な予感が存在してしまう。
だから、七絆は脇目もふらず走り出した。背後で倒れているだろうマリアが気になりはしたが、自分の命には代えられない。自分の浅ましさに涙が出そうになるが、七絆は決してヒーローではない。逃げることしかできない、ただの、矮小なひとりの人間でしかなかった。
後ろからは何かが七絆を追ってきている足音がした。何かだなんて、もうわかっている。頭の中で叴人の忠告が走馬灯のように回った。どうしてこんな時間に外に出たりなんかしたのかと後悔したとして、もう遅い。
約束したのだ。
零のいるあの家に、帰ると。
冷たい空気が肺へと流れ込んで噎せそうになる。吐いた息は白くたなびいて邪魔だった。
以前少年とともに“ゾンビ”に襲われた時のように、七絆の手を引いてくれる人間はいない。零と初めて会った時のように、七絆を守ってくれる人間もいない。ひとり、がむしゃらに、ひたすらに走るしかなかった。
頭の奥底で誰かが彼女を笑った。それは首のない少女のものだったのだろうか。
自分の荒い呼吸音が煩わしい。七絆は大木を背にして荒くなった呼吸を整えていた。あれから彼是数十分は走り回っていた。七絆は時間を確認する術がないので、あくまで彼女の体感でしかないが、恐らく最終バスは行ってしまっただろう。
そんなことを考えて七絆はふっと口元を緩めたが、近くで足音が聞こえ、すぐに息を詰めた。息が整っていない状態で息を殺すというのはそれなりに辛い。
七絆は自分が何処にいるかわかっていない。見回しても辺りは木しか見えなかった。研究所敷地内の森にいることくらいはわかるが、七絆のいる位置から研究所までの距離は全くわからない。いつか研究所の人間がやってくる可能性もあるが、本道からは大きく逸れている場合もある。いつまでもここに隠れているわけにもいくまい。
そうは思っていても、すぐ隣で唸り声が聞こえてしまえば、七絆は口を覆ったまましゃがみ込むしかない。恐ろしくて追跡者を見てはいないが、この声と臭いで判断することは容易い。これは間違いなく、顕在型の“ゾンビ”だ。理性を失い、ただひたすら血肉を求めて七絆を追ってきている。
ぽたりぽたりと何かが垂れる音が聞こえてくるのは、マリアの血だろうか。彼女は薫に愛を告げることもなく、名もない脇役のように死んでいったのだろう。しかし、これでマリアは揺蕩う夢から起きないまま、悲しい現実を直視せずに済んだのだ。ならば、これでよかったのかもしれない。
だが、よくないのは七絆の方だ。七絆はどうにかしてここを生き延び、零のいる家まで帰らなければならない。死人に思いを馳せている場合ではない。もしかしたら死んでいないかもしれないし。今すべきことは頭を回転させて、七絆にとっての最善を叩きだすことだ。
己が生きて、最愛の元へ戻るために。
そうはいっても、七絆が“ゾンビ”について知っていることは少ない。少ないとはいえ、一般知識程度は持っているのだが、対処法なんて教えられているはずがなかった。そもそも一番の対処法は『タカ』を呼ぶことだ。連絡手段のない七絆にはどうしようもない。それに七絆は端末を持っていたとしても、彼らを呼ぶことはしない。それは零への裏切りと同じだと思っているからだ。
グロテスクなものを見るのが苦手だからと、“ゾンビ”の生態について調べもしなかった自身を恨んでも現状打開には至らない。七絆が顕在型について知っていることがあるとすれば、身体能力の発達と夜間―――特に月のある日は活発になるというマイナスの情報くらいだった。
幸いにして、この“ゾンビ”は耳があまりよくないようだ。先ほどからがさがさと七絆の周囲を探していることから、この辺りに七絆がいるということはわかっていながらも、草陰にしゃがみ込んでいる彼女を見つけられずにいる。目標の補足は視認で行っているのだろう。加えて、頭も悪そうだ。七絆がいることがわかれば草でも何でも掻き分ければいいものをうろうろと歩き回るだけなのだ。
そうとなれば、自身の居場所がわからないことを除けば、この森は七絆にとって有利なステージだ。身を潜めつつゾンビを撒いて表道か研究所に辿りつくのが七絆の勝利条件。家への帰り方はその後考えればいい。
七絆は一つ静かに深呼吸をした。そっと草陰から辺りを見回せば、ゾンビは唸りながら七絆とは真逆を見ていた。その際に七絆の視界にカーキ色の上着の裾が見えた。性別まではわからなかったが、恐らく上着の形から見て男性だろう。
どちらにせよ、歩いている速度からは考えられないほど走るのが速いのは七絆も身をもって体感している。ここに隠れられたのも木の根に躓いて草むらにダイブしたことが目くらましになっただけだ。ただの幸運という名の七絆の運動神経の悪さが織り成した奇跡である。服は泥だらけだが、怪我をしていないのは不幸中の幸いだ。
“ゾンビ”というのは総じて血の匂いに敏感である。これは中学生の時に習ったことだ。相変わらず理屈は不明だが、とりあえず“ゾンビ”に出会った時は怪我をしないことが重要なのだそうだ。
あそこにいるゾンビもまたそうだろう。ならば、七絆が今一番に重要とするのは怪我をしないこと。先ほど盛大に転がった七絆が言えることではないが、“ゾンビ”と遭遇した時に生存率を上げるための常識だった。
それにしても、見つけられていないくせにあの“ゾンビ”は七絆の近くを離れない。真横にいるということではないが、常に意識させる位置にいるのが苛立つ。もしかしたら、視覚以外に何か人間の居場所を特定できる特性を持っているのかもしれない。その考えに背筋が粟立つが、今はたらればの話をしている場合ではない。
見つかってはいないが、いつまでもここにいるわけにはいかない。七絆は今一度“ゾンビ”の位置を確認すると、屈んだままなるべく音を立てないように背にしていた大木から離れる。歩きながらも“ゾンビ”を横目で見れば、未だに真逆をうろついていた。七絆は足早にゾンビから離れる方向へと向かう。
しかし、こんな巨大な森を壁にしているとはいえ、この研究所にはセキュリティシステムのひとつもないのだろうか。
“ゾンビ”の姿が見えなくなって、極度の緊張状態から解放されて、そんなことを考えつつ七絆は歩いていた。昔、七絆が迷子になった時の話を引っ張り出してみれば、確か薫は防犯カメラで見つけたと言っていた。ならば、何かしらのセキュリティシステムは入っているはずだろう。夜間、警備が一番稼働すべき時間なのに、今のところ研究所からは何のアクションもない。表通りまでの道にはマリアが倒れているはずなのに、それにすら気がついていないのだろうか。
「もしかしたら、防犯カメラ、古くてポンコツになってるのかも……。雪落さんに言っておこ」
しかし、一体どうしてこんなにも括首町に“ゾンビ”が増加しているのだろう。今まで七絆の記憶している限りでこの町で“ゾンビ”が出たことはなかった。そんな括首町はもう立派な危険区域のひとつだ。されど、危険区域と言えども顕在型がこんなにも容易く歩いているものなのだろうか。まさかとは思うが、ゾンビを集めている何かがあるのかもしれない。
そこで七絆はふと思った。“ゾンビ”が増えてきたのは零と暮らし始めてからだ。偶然かもしれない。零と七絆が出会った時と“ゾンビ”の増加時期が偶々重なっただけかもしれない。けれど―――
けれど、そうでなかったら?
零の首元の数字。何も知らない彼。彼を探している『タカ』。彼のことを知る胡蝶。
―――本当に偶然なのだろうか?
その瞬間、考え事に意識を持っていかれていた七絆は油断していたのだろう。“ゾンビ”はもう見えない位置まで来ていた。気を抜いてしまった、そうとしか言えなかった。
彼女は足元の崖に気がつかなかったのだ。気がついた時には内臓が持ち上がりそうな浮遊感、けれど前に倒れた重心を戻すことはできなかった。そのまま足を踏み外した七絆の身体は重力に逆らえないまま落ちていく。
自身の身体が下へ下へと落ちていくのを、どこか他人事のように感じていた。
先ほどまで七絆が立っていた地面が遠ざかっていく。
―――落ちていく自分の身体。真っ青な空が見えて。誰かの悲痛な叫び。
“死”という概念を思い出した。零の寂しそうな笑顔を思い出した。
伸ばした手は空に届かず、星々を求めることもなく、何も掴めないまま月の輪郭を撫でる。
『……もしナズナの帰りが遅かったら、僕、迎えに行くからね』
ああ、堕ちていく。嘉翅七絆はそう思った。
四連休を無のまま過ごしてしまったために、四日間休んだ気がしない……。でも、ストックは溜めたのでイーブンだと信じてます。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




