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リビングデッドにキスをして  作者: 神川 宙
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自分で選んだ袋小路

第三十五話

「あれ?」

 あの後、何事もなく研究所からバスに乗って帰ってきた七絆は、腹を空かせた零に盛大に歓迎され、晩御飯の用意をした。嬉しそうに白飯をお代わりする零はとても幸せそうで、4合炊いた炊飯器が空になっていることからは目を逸らした。

 そして現在、先日中古で買ってきたゲームをしている零の横で七絆はカバンを探っていた。財布が見つからないのだ。帰りのバスはICカードを使っていたために、財布がないことに気がつかなかったようだ。

 カバンをひっくり返していると、七絆の端末が震えた。メールを開けば、送り主は薫だった。そこには七絆が研究所に財布を忘れていったと書いてある。さらに、何かあるとまずいので今日中に取りに来てほしいとのことだった。端末が指し示す時間は午後10時を回っている。

 家から研究所までは同じ町内にあるとはいえ、バスに乗るほどには離れている。歩いていけないこともないが、歩くとなるとかなりの時間がかかるだろう。まだバスも走っているし、財布の中には保険証やら銀行のカードやら貴重品が詰まっている。特に銀行のカードは七絆の生活の生命線だ。そう思えば、研究所に向かう億劫さよりも最大権力の内のひとつを喪う恐怖の方が勝った。

 ばたばたと着替え始めた七絆を、ゲームをしていた零が振り返る。その頭の上にはハテナマークが浮かんでいそうだ。

「どうしたの、ナズナ? どっか行くの?」

「ああ、ちょっとバイト先に財布忘れてきちゃったみたいで。取りに行ってくるよ」

「えっ、外暗いし、寒いよ? 明日でもいいんじゃないの?」

「明日は学校あるし、何よりも銀行のカードとかも入ってるからさ。あんまりほっておきたくないし、雪落さんから今日中にってオーダーだからさ」

 それを聞いて零は不安げに眉をひそめると、手元のコントローラーを置いた。

「……僕も行く」

 零のその言葉に七絆は思わずコートを着る手を止めた。思い返してみれば、零と暮らし始めてから、こんな遅い時間に外に出ることはなかった。もしかしたら、零は初めて会った時のようなことが起こるのではないかと心配しているのかもしれない。あの日もこんなに暗い夜だった。

「だぁいじょうぶだって! それに零がその格好で出て行ったら目立っちゃうよ。今日は髪染めてないし、そんな時間もないし。それこそ『タカ』に見つかりでもしたら大問題だ。まぁ、最近はこの辺『タカ』が巡回してるらしいし、皮肉にも安全だしね。だから、そんな心配そうな顔しなくても問題なしっ! なぁに、ちょっと行ってささっと取って帰ってくるよ」

 斜め掛けのボディバッグを背負うと七絆は玄関に向かった。いつもはリビングで見送る零が心配そうに玄関までついてくる。いつもとは違う様子に少々戸惑いながらも、零の好きにさせる。

「鍵は私が閉めるから、もうちょっと奥にいて。いつもみたいに誰か人が来たら隠れるんだよ」

「……うん」

「そんな顔しなくても大丈夫だって。ほら、そんな薄着だと見てるこっちも寒いし。戻った戻った」

「……もしナズナの帰りが遅かったら、僕、迎えに行くからね」

「あっはっはっはっ! 零、場所知らないでしょ。本当に、本当に大丈夫だから。何がそんなに心配なのさ?」

「……わからない。でも、なんだか無性に嫌な予感がするんだ。こんなに月の明るい夜は特に」

「あー、わかった! よし、じゃあ約束をしよう。小指出して」

 七絆が小指を出せば、零は首を傾げながらも彼女の言った通りに小指を差し出す。七絆はすぐに自身のそれを絡ませると、小さく上下に振った。

「できるだけ早く帰ってくるから。指切りげんまん、嘘吐いたら針千本のーます、指切った! はい、これで零はもう大丈夫!」

 冷たい小指と七絆の小指が離れる。まるでその体温と離れがたいとでも言うかのように、零の指が擦り寄ってきたが、七絆は心を鬼にしてそのまま離した。そろそろ本当に出ないと、帰りのバスがなくなる恐れがあるのだ。

「それじゃ、行ってきます!」

 七絆がドアを閉めるその直前も、零は自分の小指を見ながら沈んだ顔をしたままだった。ゆらゆらと揺れる赤い瞳は、まるで置いてきぼりにされた子どもだ。その瞳に胸が痛み、今すぐにドアを開けてしまいたかったけれど、思いを断ち切るかのようにドアの鍵をかけた。しっかりと鍵がかかっているのを確認してから、七絆は早い所財布を取りに行こうと決め、なるべく速足で自宅から離れる。

 しかし、その足は一度止まって、空を見上げる。闇夜の裾を広げた空にはぽっかりと大口を開けたかのように青白い月が浮かんでいた。まるでひとりぼっちであるかのように佇むそれに一抹の寂しさのようなものを覚えたが、きっとそれは今の七絆が感傷的になっているからだろう。

 一度目を閉じてみれば、辺りが真っ暗になる。そうして息を一つ吐いて、目を開いて歩き出す。吐き出した息は白く形どられて、すぐに溶けていった。


 夜は嫌いだ。風が身に染みて寂しくなるから。

 夜は嫌いだ。ひとりで闇夜に溶けてしまいそうになるから。

 夜は嫌いだ。別離のにおいがするから。

 

 両手が冷えてきて、七絆無造作にポケットに手を突っ込む。そこで七絆はとあることにはたと気がついた。

「あ、端末忘れた」

 行って帰ってくるだけだし、まぁいいかと彼女は独り言ちると、再び歩く足を速めた。本当はあまりにも暗くて不安に思ったら、胡蝶を呼び出そうかと画策していたのだが、当てが外れた。もはや使い勝手のいい足扱いだが、恐らく胡蝶のことだから、べらべらと美辞麗句を並べ立てながら喜ぶことだろう。

 バス停に着けば、ちょうどバスが来たので乗り込む。こんな時間だからか、乗っている人間はまばらだ。空いている席に座ってマフラーに顔を埋めていれば、バスは滑り出すように動き出した。

 窓の外では相変わらずひとりぼっちの月が輝いていて、それが無性に七絆の心を掻き毟った。




 バスを降りて数分も歩けば、研究所の近くの森に辿りついた。ちなみにこの森が既に研究所の敷地なのであるが、どうしてこんな森になったかは未だに不明である。常緑樹が多いせいなのか、冬だというのに木々には緑が生い茂り、研究所は一向に見えない。迷い込んだら戻れそうにない恐怖に駆られる、まるで樹海のようだ。やはり容易に中を覗かせないためなのだろうか。そうは思っても、今の七絆にとってはいい迷惑だ。

 以前に薫に昔の話を聞いたことがある。幼い七絆は母についてこの研究所に来たのはいいが、一人で出歩かないようにという言いつけを破って、勝手に一人で行動した挙句この森の中で迷子になったという話だ。もちろん、現在七絆がここを歩いているのだから、きちんと発見されているのだが、見つけるまでに優に一時間はかかったらしい。崖から落ちて泣き喚いていたところを薫が見つけたそうだ。

 もちろん七絆はそんなこと1ミリたりとも覚えてはいない。けれど、ここにバイトに来るたびになんとなくこの森に嫌悪感を感じていた。薫にそう言えば、彼は笑いながら「身体は憶えているものだよ」と言っていた。

「無駄な……無駄な自然が多すぎる……」

 この世には無駄な自然と言われるものがあるのかはさておき、剪定もしていないというのはどうかと思う。まるで研究所の存在を隠すかのようだ。本当に隠したいものがあるかどうか、七絆が知ったところではないが。

 森に入ってから数十分して、ようやく向こうの方にぽつりと研究所のものであろう光が見えた。端末も忘れれば、腕時計をするのも忘れたので、今が何時かはわからないけれど、研究所は昼夜問わず稼働中だ。たまに薫含め研究員は家に帰っているのかが心配になる。薫なんて四六時中研究所にいるせいで、もはや研究所に住んでいるのではないかと七絆はひそかに思っている。聞いた話では葵もなかなか家に帰ってきていなかったそうだし、研究者の特性なのかもしれない。

 七絆は正面玄関の脇についているカードリーダーにカードを通してから、慣れた手つきで指紋認証と光彩認証を行う。一応バイトという名の雑用係の身分であるが出入りを可能にするカードキーを渡されているということは、それに足る信頼を得ているというところなのだろう。それが母親の威光であるということは七絆も重々承知ではある。それにしてもこのカードキーを財布に入れておかなくてよかったと、七絆は胸を撫で下ろした。

「あれ、七絆ちゃん? こんな夜遅くにどうしたの?」

 事務室のドアを開けた先ではマグカップを片手に薫が立っていた。彼は驚いたのか、口に咥えていたボールペンがぽろりと落ちる。その様子に七絆は違和感を覚えた。

「えっと、財布を忘れちゃったみたいなんですけど……」

「えっ、そりゃあ大変だ。僕が確認せずにカバン持ってちゃったからかな。探すの手伝うよ」

 ドアを開けた先から感じた違和感が確かなものになった。七絆が忘れものに気がついたのは薫からのメールからだ。それなのに、彼の反応は今しがた七絆が財布を忘れたことに気がついたようだった。

「……あの、雪落さん、私にメールくれませんでしたか?」

「ん? 僕? いや、送ってないと思うけど……。さっきまで研究室に籠りきりだったし。もしかして、間違いメールがあったとか?」

「あ、いえ。気にしないでください。私の勘違いかも」

 薫の返答から、彼は本当に七絆にメールを送っていないのだろうということがわかった。しかし、アドレスは確かに薫のものだったはずだ。ということは、誰かが彼を装って七絆にメールをしてきたのだろうか。一体何の目的があってかはわからない。

「帰り、送っていこうか? この辺りも最近物騒だし。こんな時間に一人歩きは危ないよ」

「雪落さんにも帰る家があるんですね」

「そりゃさすがにね。もう何か月も帰ってないけど……って、違う違う。茶化さないの。こう見えても心配してるんだよ。きみに何かあったら葵さんに面目が立たない」

「……さすがにそこまで甘えられませんよ。バスに乗ればそんなに遠くないですし、『タカ』も巡回を強化してるみたいですし。何かあったら走って逃げますよ」

「あははははは。運動神経悪いのに?」

「あははは。……たまに雪落さんってどうしようもなく意地悪なこと言いますよね。これでも昔よりはましになったと思いますけど?」

「えぇ、本当に? 葵さんがどれだけしごいても全然早くならなかったのに?」

「えぇ……。お母さん、そんなことしてたんですか。娘に対する所業じゃないでしょ……」

 机の引き出しを開けながらげんなりと七絆がそう言えば、薫は何がツボに入ったのか甲高く笑い声をあげた。薫は床に屈んで机の下を探しているから、妙に反響してその笑い声が耳についた。

 喋りながらも探す手は止めていないが、なかなか七絆の財布は見つからない。

「見つからないね」

 事務室の時計が11時を知らせる音がした。七絆は薫からのメールを受けてここに来たので、財布を受け取ってさっさと帰るつもりだったがこれは見込み違いだ。諦めて家に帰りたいが、諦めるにしては財布の中身が重大すぎる。あと、無駄に何度も言えと研究所を往復したくないという思いもある。

 しかし、これ以上時間がかかるとバスの最終時間が来てしまう。仕方ないと諦め、明日にでも再度来させてもらおうと口を開きかけた時、事務室のドアがノックされた。こちらが応答する前にドアノブが音を立てて捻られる。

「所長、いらっしゃいますかぁ?」

「それはたぶんドアを開ける前に聞くものだと思うけど、はい、いるよ」

 ドアの向こうから顔を出したのはマリアだった。帰宅するところだったのだろう、既に白衣は脱いでおり、可愛らしいダッフルコートを着込んでいた。薫の苦言を気にすることなく、彼の姿を見て顔を綻ばせる。それを机の下から見ていた七絆は、本当にマリアは薫のことが好きなのだなと思った。

「あれ、小金井。先に上がってていいよって言わなかったっけ。終電なくなるよ?」

「はぁい、お言葉に甘えて帰ろうとしたんですけどぉ、研究所の外にこれが落ちてたんで届けに来たんですぅ」

「あ、私の財布」

 反射的に机の下から顔を覗かせた七絆にマリアの表情が微笑みの形のまま凍りついた。その視線は七絆の存在を問うている。大方、帰ったと思っていた七絆がこんな夜中に意中の相手といるので妙な勘繰りをしているのだろう。薫は気づいていないのか、呑気に「よかったね、見つかって」などと七絆に言ってくる。

 七絆的には確かによかったのだが、現状はあまりよくない。マリアは思い込みの激しい面がある。この状況を完全に誤解しているようで、凍りついた視線が徐々に鋭くなってきていた。しかし、ここで何か下手な発言でもしようものなら、今度は色恋沙汰に疎い薫が余計な発言をしかねない。前門の虎、後門の狼。さながら四面楚歌であった。

「……ソノ、アリガトウゴザイマス」

 とはいえ、七絆もこの状況に手をこまねいている場合ではない。七絆にも七絆の事情、つまりはバスの終電の時間が迫ってきている。片言のまま、マリアの目を見ることなく財布を受け取った。帰ったら中身を確認しようとボディバッグに財布を入れる。

「いえ、お財布見つかってよかったですねぇ」

 マリアの表情は未だに暗いままだ。七絆はちらちらと薫にアイコンタクトを送るが、全く理解していないようでにこにこと笑っている。七絆がこの場にいてももはや何も改善できそうにない。

「それではっ、私はここで失礼しますっ!」

 だから、七絆は早い所この場を去ることにした。恐らくこれが七絆の打てる最善だ。大きく手を上げてお道化たようにそう言って、「それでは~」とドアに向かう。その際、再度マリアにお礼を言うのも忘れない。

 だが、そう事はうまく運ばなかった。

「あ、小金井。ちょうどいいや、七絆ちゃんを表通りのバス停まで連れて行ってあげてよ。どうせ表通りまでは行くだろう? どうしても森を抜けなきゃいけないからさ。大切な子だからね、何かあったら大変だ」

 間違いなく善意なのだろう。微笑みながら薫はマリアにそう言い、一方で七絆はドアノブを回しかけたまま固まった。確かに帰り道は暗く、誰かと一緒に帰れるのならば七絆にとってはとてもありがたい。いくら研究所の敷地内とはいえ、恐いものは恐いのである。

 だが、今の状況でマリアと帰りたいかと言われると御免被る。さらに言い回しも最悪だ。マリアも薫の真意を図りかねたような訝しげな表情だ。実際、マリアは七絆が帰った後にあわよくば少しばかり薫と話したいと思っていた。しかもそれはありありと表情に出ていたため、七絆も察している。マリアは唇を噛んで心底不満ですという顔をしていた。

「あー、いえ、一人で帰れますよ。何回ここに来たことあると思ってるんですか。ほんっとに大丈夫なんで! それに、小金井さんもまだ何かお仕事とかあるかもしれないですし……」

「いや、もうないよ。それにいくら敷地内とはいえ、もうこんな時間だ。もし七絆ちゃんに何かあったりしたら葵さんに申し訳が立たない。わざわざ回り道をするわけでもないし、頼めるだろ?」

 ここまで言われてしまえば、七絆も固辞するわけにはいかない。むしろこちらの身を案じてくれているのに、理由もなく断り続けることはできない。ちらりと横目でマリアを見てみれば、そこには般若がいた。絶望の感情が背中越しに揺らめいているのが見えた気がする。思わず、ひゅっと息を呑んでしまった。代わりに薫はにこにこ笑顔だ。

「そ、それじゃあ、帰りますね……」

「……失礼します」

「うん、気をつけてね」

 消え入りそうな声でそう告げて、事務室を後にする。後ろからは負のプレッシャーを背負ったままのマリアがついてきていた。七絆は出かけ際に零がやっていたRPGを思い出した。いや、こんな仲間はごめんだが。

 ああ言われはしたが、研究所の前で別れてしまえばいいのかと思いつき、正面出入り口まで二人は無言のまま歩き続けた。

ちょっとずつ展開を早めていきたいなという思いと、なんかだらだらしているなという思いが交差した結果です。ちょっと何言ってるかわかんない。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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