憑かれた男
第三十四話。
七絆が零と出会ってから、カレンダーを破るほどの時間が経った。胡蝶の計画は未だ上手くいっているのか、あちらこちらで零に似た誰かが見つかっている。その分捕まる人も多いみたいだが、最近はお遊び半分で始祖教会に関係のない人間もやり始めているので、政府は対応に苦慮しているみたいだった。流石に何百人も殺すわけにはいかないのだろう。今朝も大々的にニュースに取り上げられていて、七絆は横目で見たままテレビの電源を切った。もし胡蝶がここまで考えていたのなら完全に彼の手のひらで弄ばれている結果になる。そこだけ癪に障ったが、あまり気にしないようにした。
七絆はこれまでと何ら変わらない生活を送っている。朝起きて、学校に行って、零と話して、風呂に入って、寝る。ついこの間までのように『タカ』に会うこともなく、“ゾンビ”に行き遭うこともなく、ただ淡々と同じ日々を繰り返していた。
けれども、そんな彼女を置いて、周囲は大きく変わり始めていた。遊園地で会った時、叴人が別れ際に言ったように括首町では“ゾンビ”の目撃情報が急増しているのである。今まで一匹たりとも姿を見なかったこの町は、いまや政府公認の危険区域指定がなされていた。それに伴い、『タカ』も多くこの町に集まってきている。そのニュースを聞いて、誰もが喜んでいる中で臍を噛んだのは七絆だけだろう。しかし、皮肉にもそのおかげか、今のところ死者はひとりも出ていないそうだ。
さらに最近世間を騒がせているのは「“ゾンビ”テロ」と呼ばれるものだ。文字通り、“ゾンビ”によるテロ行為。今までもなかったわけではないが、どうしてかメディアで大きく取り上げられることはなかった。恐らくは襲われているほとんどが『タカ』であるからだろう。そこにはどうしても人の生死が関わってくる。誰も正義のヒーローの死なんて知りたくもないはずだ。それにどこにでもそういう話に群がって何かと難癖をつけてくるネットの住人達もいる。突かれて痛い腹は隠したいものだ。
ならば、どうしてこのテロが公になったかというと、簡単な話、政府の隠しきれないところに被害が及んでいるのである。つまりは一般人が襲われているという一点だけが今までと違う。
テロ行為を行っているのは恐らく潜在型だろう。顕在型は襲う相手を考えることなどできない。顕在型の“ゾンビ”は嵐に行き遭ったようなものだ。理由もないし、為す術もない。獣と何ら変わりがない。
そうなると、「“どうして”人々を襲い始めたのか」が問題になってくる。そして、それは被害者になりたくない一般人が知りたいことでもあった。私たちはあなたたちに襲われるようなことのない善良な市民です、と白旗を振りたいのだ。最近では“ゾンビ”を擁護する慈善団体がいくつも立ち上げられている。皆が口々に彼らを知った気になって、SNSに自分たちの主義主張を投稿しているのを見ない日がないほどだ。
ここで一度、七絆も考えてみた。彼らに理由をつけてみた。
迫害された怒りからだろうか。―――そんなものは有疵性無死症候群が発見された時から、彼らに常に付きまとっているものだ。
仲間を殺された悲しみからだろうか。―――殺したのは『タカ』である。無差別に他者を殺すことになんの意味があるのか。
終わらない苦しみから逃れるためだろうか。―――それこそ七絆には理解ができない。
どれだけ七絆が考えてもわからない。だって、七絆は“人間”だったから。
七絆は手元の資料を綴じながら、テレビから流れてくる深刻そうな声を聞いていた。ぱちんぱちんと一定の音が、彼女のいる部屋に響いていく。次の資料に手を伸ばそうとした時、ちょうど机の上にマグカップが置かれた。
顔を上げてみれば、そこにはこの夜日羽研究所の副所長である雪落薫がにこやかに微笑んで立っている。七絆は今日、この研究所―――夜日羽研究所でのアルバイトの日だったのだ。
「ありがとうございます。研究は一段落したんですか、雪落さん」
「うーん、行き詰ってるってのが本音かなぁ。僕たちも集中力が切れちゃったのか、さっき新しく入った子が試験管ひっくり返しちゃって。今はその片付け中で、僕は休憩中ってとこ」
「えっと、小金井さん、でしたっけ。試験管ひっくり返しちゃって、中身大丈夫なんですか? 結構強い薬品とかも置いているでしょう、ここ」
「さすが葵さんの娘さんだよね。押さえてるとこ押さえてるっていうか。いやー、葵さんを思い出すなぁ。僕もよく叱られたもんだよ」
薫は七絆の前の席に座って、持ってきていたのであろう自らのマグカップを傾ける。その顔は少々青白く、眼鏡の下から隈が見えた。髪もぱさついているし、有り体に言ってしまえばやつれていた。身だしなみを整える余裕もないのか、無精髭も生えている。そんな彼を見ながら、研究って大変なんだなぁと思いながら七絆もマグカップに口をつける。中身は何の配慮もないブラックコーヒーだった。
「それにしても、ついこの間までは七絆ちゃん、薫さん薫さんって言いながら、僕の後ろを子ガモみたいについて回っていたのに。こんなに大きくなっちゃうんだもんなぁ。僕もおじさんになるってわけだ。大人になるにつれて葵さんに似てきたね」
「大きくなったって言っても、まだ18ですよ。成人してないんですよ。それに雪落さんだってまだ35歳じゃないですか。世の中の三十代に怒られますよ。それに見た目じゃ全然わからないし。髭生えてても童顔ですもんね」
「ははは、ちょっと気にしてるんだけどね……。まぁ、結婚もせずにこんな歳になっちゃったよ。葵さんに子供ができたの、僕より全然若かったんだって思うよ」
「結婚が全て、ってわけじゃないですし。それに結婚は人生の墓場とも言いますし、今が楽しければいいんじゃないですか。研究、好きなんですよね」
「そりゃあ好きさ。葵さんが僕に遺してくれた唯一のものなんだから。でも、天才と呼ばれた葵さんでもできなかったことだ。僕が死ぬまでにできるかなぁ」
渋い顔をしながらコーヒーを啜って、七絆は薫を見た。今は隈がすごいし、無精髭も生えてはいるが、顔はそんなに悪くないのではと七絆は思っている。性格だってある一点、目を瞑れば穏やかだし、そんなに奇天烈なこともしない。
ただ、そのある一点が他の女性からしたらどうしても耐えきれないことだろうとも思う。
「葵さんが今も生きていたらなぁ……」
これだ。どんな会話にでも七絆の母であり、既に個人である葵を持ち出してくるのである。どれだけ七絆がスルーしようとも、鋼の心でぶち込んでくる彼女の存在だった。万が一にもないが、七絆が薫に惚れていたとしてもこのムーブは平手打ちものだ。
薫が結婚できないのは、偏に夜日羽葵という亡霊に憑りつかれているからだ。これは他の研究員から聞いた話だが、葵が存命の時にはそれはすごいアプローチだったらしい。いっそあれを盲信と呼ぶのではないかと、教えてくれた人は笑いながら言っていたが、死んでからもこんななのだから目を閉じればいとも容易くその光景を思い浮かべることができる。
「葵さんは何でもできた。大学で初めて見た時から、彼女にできないことなんて何一つないように思えたよ。僕はそんな彼女の役に立ちたくて、大学院を出た後はすぐにこの研究所に入った。そこで葵さんにもできないことがあるんだって気がついたんだ。断られてもめげずに通ってよかったよ。葵さん、物言いがきついから何回か心折れかけたけど。そういう意味じゃ、今の七絆ちゃんの方が葵さんに似てる気がするな」
「はぁ、そうですか……って、それ言外に口が悪いって言ってません?」
「あっはっはっ。言ってないよ、言ってないよ。ただ、僕はそっちの七絆ちゃんの方が好きだなって話さ」
「全然嬉しくない話ですけど……」
「まぁ、こんなおじさんじゃあね」
半目の七絆を他所に薫はひとりからからと笑った。七絆はそんな彼を見てため息を一つ吐くと、山積みになった資料に手を伸ばしてからふと疑問を抱いて口を開いた。
「そう言えば、ここって何の研究してるんですか? 結構長いこと雑用してきてると思うんですが、一回もその辺り教えてくれませんよね。まぁ、守秘義務とかその他諸々あるとは思うんですけど。これだって特に研究に関係ない一般的な統計の資料ですし」
ぴらりと摘まんだ資料には人体図があり、部位の名称が事細かに書かれているだけだ。七絆も生物の教科書でも見たことがあるくらいには一般的なものだった。ひらひらと手慰みに振れば、薫は苦笑いした。どうやら本日も教えてはもらえないらしい。
「そうだ。七絆ちゃん、この間は外に出た?」
「この間?」
「ほら、この町で初めて“ゾンビ”が出た日だよ」
「あぁ、その日は文化祭の打ち上げがあったので外に出たといえば、出ましたけど……。次の日、あのバイトをすっぽかした日なら外には出てませんよ?」
「……そうか、意外だな。七絆ちゃんなら“ゾンビ”を見に行こうとすると思ったんだけど」
「い、意外ですか? それは私のどこを見て……。そもそも私、グロイの駄目ですし。第一襲われるかもしれないじゃないですか。あんなところ闊歩できるのなんて『タカ』くらいのもんでしょう」
「うーん、七絆ちゃんの興味を引く何かがあると思ったんだけど、僕の気のせいかな……。じゃあさ、『タカ』の彼らを見て何か感じたことは?」
「? えーっと、研究所に来た人と同じ人かはわからないですけど、随分普通の人達だなとは思いましたよ。“ゾンビ”と戦うっていうんだから、もっとこう、筋肉ムキムキみたいな人達が来るのかと思ってたんですけど、案外細っこかったですね」
「そりゃあ、『タカ』は近接戦闘しないからねぇ。でも、そうか。特に何も感じなかったってことかな」
「めちゃめちゃ食い下がりますね……。本当に何もなかったですよ。そんなことより、研究については教えてくれないんですか?」
「まだ、ね。まだ七絆ちゃんには早いよ。大学を卒業して、ここで働きたいって思ってきてくれたら、その時に教えるよ。いくら葵さんの娘とはいえ、僕たちにも守秘義務ってのがあるからね」
守秘義務、その言葉に七絆は視線をついとあげた。最近よく耳にする言葉だ。そしてそう言われてしまえば、それ以上先を聞くことはできなくなってしまう。
そもそも七絆は一介のアルバイトに過ぎない。それも葵の娘だからと言って、特別に雑務を任せてもらえているのだ。この研究所の誰もが彼女のことをスパイだとか思ってはいないだろうが、どこから情報が洩れるかはわからない。特にこの研究所には七絆以外に雑務をこなす人間を雇っていない。それほどまでに重要なことを為しているのだろう。
ぱちん。薫がぺらぺらと話している傍ら、七絆は最後の資料を綴じ終えた。横に置いてあった段ボールに資料を入れてから、冷め切ったマグカップの中身を飲み干す。あまりの苦さに顔を顰めそうだったが、淹れてくれた本人ががいる手前そんなことはできない。ただ薫は気にしないだろうが。
「雪落さん、この資料どこに運びますか?」
「ああ、それね。二階の倉庫に運んでおいてくれる? 他にも今回の学会用の資料が置いてあると思うから、そこにまとめておいて。それが終わったら今日はもう上がっていいよ」
薫の返答に頷いて、七絆は段ボールを持ち上げた。それなりの量だったからか、両手にずしりと確かな重みを感じる。七絆が行儀悪く事務室のドアを足で開ければ、後ろからはそれを窘める声が飛んでくる。しかし、薫が席を立って手伝うそぶりはない。
ちらりと閉まりかけるドアの隙間から見た薫は、先ほどよりも憔悴しているように七絆の目には映った。憔悴というよりは、どちらかと言えば焦燥のようにも感じる。少しばかり気になったが七絆が踏み込める領域ではないだろうと考え、段ボールを持ったままその場を後にした。
夜日羽葵は変人だった。研究所にいる誰もが言葉を濁すが、彼らの言葉の端々から七絆はそれを嗅ぎ取った。変人というより、研究狂い、マッドサイエンティストなんて言葉が適切かもしれない。
―――あるいは狂信者か。
何かに憑りつかれたように研究を続けていたらしい。ほとんど家に帰ることはなく、研究所に入り浸り、寝食を忘れて没頭するほどだったそうだ。話を聞いた研究者からは「七絆ちゃんも寂しかっただろうね」と言われたが、七絆にはその頃の記憶がないのでぴんとこない。気丈に振る舞っているとでも思われたのか飴をもらったこともある。
そう考えると、幼少期の七絆はどういう生活をしていたのか気になってくる。だが、母子家庭であり、さらに祖父母の顔すら知らないのでそれを教えてくれる人もいない。知らないことは案外知らない方がいいのかもしれない。
それにしても、と七絆は段ボールを抱えたまま思った。それにしても、夜日羽葵はそんなになってまで、何を知りたかったのだろう。何を作り出したかったのだろう。
彼女がやりたかったこと、研究の専門分野、何一つとして七絆は知らない。いつぞや見た母親の写真は笑顔の研究員に囲まれたまま能面のような表情で突っ立っていた。何かに執着することなどなさそうな表情をしてるくせに、何もかもをかなぐり捨てて熱中した研究対象に七絆も興味がある。
とはいえ、教えてもらえない以上知る術はないのだけれど。基本的にこの研究所のパソコンは完全に独立しているため外から侵入も出来ないし、研究所内はあちこちに防犯カメラがある。手段を択ばなければやりようもあるのだろうが、そこまでする価値を七絆は感じなかった。
重い段ボールを持ち直して、七絆は二階の倉庫を目指して歩く。元々この研究所は敷地の割にこじんまりとしている。その分、研究棟が敷地に点在しているのだが、一つ一つの建物が大きくないというのはこういった時に便利だ。そもそも七絆は本所以外に立ち入ったことはない。薫がそれを求めなかったからだ。
ここは葵の私的な研究所という側面が強いわりに、研究資金がかなりの額を支給されていると聞いた。それに見合った成果が出せていない、とも。七絆は事務室での薫を思い出した。彼は葵から引き継いだ研究の成果を出そうと躍起になっているのだろう。そして、成果が出なくて焦っている、そんなところだろう。
七絆は薫には研究を成功できるとは思えなかった。そもそも、薫は葵の目指しているものがわかっていないような気がするのだ。彼は結局、葵に近づくことだけしか考えられていない。その考えを超えないことには、葵ですら為せなかったことを為せるわけがないのだ。根拠があるわけではない。それでも、七絆はそう思った。
つらつらとそんなことを考えていれば、目的地は目の前だった。軟弱な七絆の腕は既に痺れ始めていたので、さっさとこれを置いて家に帰りたい思いでいっぱいだ。家では零が待っていると思えば、あと少し頑張れる気がした。
―――気がした瞬間、七絆は横から襲ってきた衝撃に持っていた段ボールを落とした。
「うぐっ……!」
肩が抉れたような気がするのは多分気のせいであるが、廊下いっぱいに散乱した紙に絶望する。そもそも一体何が起きたのかと見上げれば、二階の倉庫の隣室である第一研究室の扉が七絆に向かって大きく開け放たれていた。どうやらこのドアが七絆に直撃したらしい。
「あっ、ごめんなさぁい!」
間延びした声とともに、最近流行りの緩いパーマをかけた長い茶髪がドアの向こうから揺れて見えた。遅れて顔を出したのは垂れ目がちな大きい瞳が特徴的な可愛らしい女性だ。彼女こそ先ほど七絆と薫の話題に上がった小金井マリアだった。
彼女は小さな手を口に当てて、廊下の惨状に「あっ!」と目を丸くした。その視線の先では七絆が廊下に伸びており、かつ資料であろう紙が散乱している。
「あ、あわわわわわわわわっ! か、嘉翅さん!? だぁいじょうぶですかぁ!?」
「……とりあえず、ドアを閉めてください」
先ほどからばたばたとマリアがドアを開け閉めするたびに七絆の足にドアが直撃しているのである。そう言えばマリアは素っ頓狂な声で謝りながら慌ててドアを閉めた。
「ご、ごめんね。書類拾うの手伝ういますからぁ!」
「踏んでます踏んでます踏んでます」
「ひえっ! ご、ごめんなさぁい!」
マリアは踏んでいた資料から足を退かそうとして、焦りすぎたのか紙で足を滑らせてそのままひっくり返った。その衝撃で廊下に散らばった資料が舞い上がる。
散らばった資料を拾いながら、それを見ていた七絆の目は完全に死んでいた。
先ほど薫との間で話題に上がった人物こそ、この小金井マリアだった。別に彼女は悪い人間ではない。決して悪い人間ではないのだけれど、驚くほどにどんくさいのだ。試験管やビーカーを割るのなんて日常茶飯事だし、ありえない計算ミスをして分量を間違えることもある。新しく買う羽目になった備品の金額を見て薫が頭を抱えていたのをついこの間に見た。
「本当にごめんねぇ、嘉翅さん。……はぁ~、私、さっきも所長に怒られちゃってぇ。やっぱりミスが多いからなのかなぁ。気をつけてはいるんだけど……」
「はぁ……。いや、でもまぁ挽回していけばいいんじゃないですかね」
まさか「はい、そうですね」なんて言えずに、七絆は間の抜けた吐息ともつかない声で相槌を打った。
「でも、嘉翅さんはいいですよねぇ。偉大なお母さまを持って、何にもしなくても所長から声かけてもらえて研究所にいられるんだもん……」
「雑用係ですけどね。ちょうどよかっただけじゃないですか」
「今だってこうやって所長に頼られてますしぃ……。はぁ……私もそうだったらよかったのに」
「いや、ただの雑用ですけど」
「ねぇ、嘉翅さん! やっぱり所長って夜日羽前所長のこと好きだったと思いますかっ!? 娘さん的に見てどうでしたっ!?」
「知らないですけど、資料踏んでるので退いてくださいね」
小金井マリアは悪い人間ではない。けれど、圧倒的に空気が読めない。先の発言だって、ただ七絆の境遇を羨んだだけで他意はないのだ。ただ、相手のことを考える間もなく話すせいで、とてつもなく自己本位な話し方をするだけで、そこに悪意はない。だが、彼女が気づいていないその悪癖のせいで、研究所でのマリアの立ち位置はなんとも不安定だった。
マリアは資料を踏みつけたまま、彼女の思う薫の長所を七絆に熱弁している。七絆はというと、最後に残った彼女が踏んでいる資料を回収するか捨て置くかを悩んでいた。余部が出るように作っているはずなので、一部くらい足りなくてもばれやしないだろう。そう思って、彼女は資料の詰まった段ボールを持ち上げようと立ち上がった。
「あれ、七絆ちゃん?」
廊下の端からそんな声が聞こえた瞬間、マリアは素早く立ち上がってその方向を見て目を輝かせた。その先では薫が右手に何かを持ったまま立っていた。不思議そうな顔をして、頭を掻きながらこちらに向かってくる。
「全然戻ってこないからどうしたのかなって、様子を見に来たんだけど。何かあったかい?」
「あー、えっと。ちょっとこう、ドアとぶつかりまして……。資料をまき散らしてしまったので、拾ってました」
薫の視線はきらきらと目を輝かせているマリアの足元に移り、全てを把握したように額を押さえて深々とため息を吐いた。恐らく事の顛末を理解したのだろう。この研究所の中で不可解なことが起きた時、そこにマリアがいれば大抵は彼女が原因なのだ。
「大体の状況は把握。……小金井、研究室の掃除は終わったんだよね?」
「はいっ、もちろん! ちゃんと終わらせましたぁ。ちょうど雪落所長のところに行こうと思ってたんです。その時に嘉翅さんとぶつかっちゃって……。遅くなってすみませんでしたぁ!」
「あぁ、そう……。じゃあ、もう始められるかな?」
「えっ? 今日はもう終わりかと、てっきり……。まだ準備できてないんですけど、えっと、もしかして準備しておかなきゃいけなかったんですか?」
「…………いや、うん、僕もそこまで説明していなかったしね。実験はまだ終わってないから、準備してきてもらっていいかな」
「はぁい」
マリアは不満そうな顔をしながらも、第一研究室へと戻っていった。それを見てから、七絆は段ボールを持ち上げて薫を見遣る。彼はもはや文字通り頭を抱えていた。
「えぇっと、小金井さんも悪気があるわけじゃないと思うんですよ、たぶん。ほら、足の遅い子に早く走れって言ってもしんどいみたいな……」
「それ、地味に落としてるよね? まぁ、彼女を採用したのは僕だし、本人も頑張ってくれてるんだけど……。だからと言って全てを許せるわけじゃないんだよなぁ」
「……お疲れ様です」
じゃあなんで採用したんだという言葉は呑み込んで、七絆が掛けられる言葉はそれだけだ。それに薄く声をあげて笑う薫の瞳は死んでいた。
「あぁ、そうだった。七絆ちゃん、カバン持ってきたからこのまま帰りなさい。その段ボールは僕が運んでおくから、その辺りに置いておいて。ほら、『タカ』がいるとはいえ、この辺りも物騒だから、早く帰った方がいい」
薫が持っていたものは七絆のカバンだった。彼は人のよさそうな笑みのまま、七絆にカバンを差し出す。
「え、いいんですか? ……でも、すぐそこまでですし運びますよ?」
「いいよ、いいよ。僕もどうせ倉庫に取りに行くものあるから、ついでに運ぶよ」
「うーん、じゃあ、お言葉に甘えて」
雑用係としていいのだろうかと一瞬思ったが、あまり固辞しては相手に悪い。七絆は薫に甘えることにして、抱えていた段ボールを一旦廊下に置き、薫からカバンを受け取る。
「くれぐれも帰り道には気をつけて」
にこやかに七絆を見送る薫に挨拶してから、正面出入り口へと向かう。すれ違う研究所のメンバーは一様に明るく挨拶を返してくれる。ほとんどが葵がいた頃と変わらない顔ぶれだ。
外に出れば、すっかり暗くなっている。端末で時間を確認すれば6時を既に回っていた。零が待っているであろう家に思いを馳せて、七絆は真っ暗な世界に足を踏み出した。
ちなみにゴリゴリの文系なので、いまいち理系の話が書けません。心理学科だったから実験とかはしたことあるんだけれど。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




