みしらぬひとたち
第二十七話。
次の日、七絆は気を抜くとくっつきそうになる瞼を持ち上げながら、コーヒーを片手にソファに座っていた。髪の毛はぼさぼさのままだが、二度寝をする予定なので問題はない。
こんなに睡魔に襲われているのは、昨夜は日付が変わってしばらくしてから寝たのも原因のひとつであろう。さらにベッドに入ってからもなかなか寝付けず、気がついたらカーテンから薄らと朝日が染み込んできていたというのも付け加えたい。ちなみに零は布団にくるまって、綺麗に寝ていた。
ブラックコーヒーを一口飲んで、舌を焼くような苦みに顔をしかめたままテレビをつける。昨夜、胡蝶は今日のニュースを楽しみにしておくよう言っていた。恐らく碌な内容ではないと思うけれど、何かしらの行動を起こしたのだ。共犯者の一人として確認はしておくべきだろう。
ちなみに内容が内容だと困るので、零はまだ寝かせておいている。正直な話、七絆も現時点で眠くて仕方がない。ずるずると体勢を崩しながら、ちまちまとコーヒーを啜る。両手の中が温かくなって、眠気を誘う。けれど、胡蝶が取る手段についてや、その手段を受けての七絆たちの態勢を考えなければならない。そのことを考えれば呑気に寝てなどいられまい。
『緊急速報:逃亡中の“ゾンビ”発見か』
ぼんやりと見ていた画面にそんなテロップが出て、七絆は文字通り飛び起きた。その拍子にマグカップの中身が零れて「あちっ!」と悲鳴を上げる羽目になった。だが、そんなことも構わず、七絆はソファから身を乗り出す。
―――零は確かに外に出ていないはずだ。いや、もしかしたら私が学校に行っている間に……? でも、そんな簡単に約束を違えたりはしないはず……。
真っ先にそんな考えが七絆の頭の中を駆け抜けるが、テレビの映像は待ってくれない。深刻そうな表情のニュースキャスターがこちらを見ている。心臓が耳元にあるようなくらい鼓動がうるさかった。緊張で身体が強張っているのがわかる。
もしも本当に零だったらどうしよう。手の中のマグカップが軋んだような気がした。それは本当にマグカップだったのか、それとも零を疑った自身の心だっただろうか。
『昨夜未明、都内某所の監視カメラに映った映像から、逃亡中の“ゾンビ”である可能性が非常に高いと考えられています』
昨夜未明という言葉に七絆の口から詰めていた息が漏れた。安堵からだろうか、全身に入っていた力が抜けていく。
昨日は零が布団の中でぐっすり眠っている所をきちんと確認している。七絆が眠る時にも布団にくるまっていた。さらに言えば、七絆は夜間ずっと起きていたのだ。誰かが出て行けば気がつかないなんてことはない。
しかし、目の前の不鮮明な映像には確かに白髪で赤目の青年が映っている。彼はカメラを見上げると、何かを振りかぶるような姿勢を取った。その後すぐにカメラの映像は暗転する。キャスターたちへとカメラが戻って、口々にこの件に関して意見を言い合っている。
七絆はゆっくりとソファの背もたれへと舞い戻った。未だにどくどくと心臓は煩わしいほどに音を立てているが、緊張は解けたようでじんわりと手足の末端が温かくなっていく。両手に祈るように持っていたマグカップに気がついたように口をつける。温くはなっているものの、相も変わらず苦いままだった。
七絆が平穏に心を委ねていれば、机の上に置き去りにされた端末が震える。画面を見なくても相手はわかる。
『おはようございます、クイーン。今日一番のビッグニュースは見ていただけましたか? いやはや、これのためにこの胡蝶、粉砕骨折しながら、這いずり回りながら準備をさせていただきました』
「瀕死じゃねぇか! それを言うなら粉骨砕身でしょう」
『ふふっ、それほどまでにクイーンのお力になりたかったということで。ええ、ええ、賛辞の言葉など不要でございますとも! 私は貴女様の望み通りに動く手足のようなもの! お好きなように罵り、虐げ、傅かせてくださいませ!』
「いや、嫌ですけど。……まぁ、でも狙いはわかりました。ダミーを用意して、括首町から『タカ』の目を離すってことですよね。でも、そんなに用意できるものなんですか? 協力してくれる人だって無限にいるわけじゃないし……」
『ええ、ええ、問題ございませんとも。信徒の皆様方にご協力を頂いておりますので! 人員は湯水の如く、町をダムに沈める勢いで溢れ出てくるものです!』
「……それは勝手に溢れているのではなく、人工的なものでは?」
『んんっ、そうとも言うかもしれませんが、なんにせよクイーンはお気になさらずに。彼らは蜜に集まる虫の如く集まってきますから。ええ、ええ、問題ございません。彼らの望んだことです、選んだ結果でございます。恨みはなく、報復もなく、絶頂のままクイーンに祝福を与えるだけです。そうすることで、彼らもまた救われるのですから』
「……結構しっかりと『宗教』してるんですね、始祖教会って。怪しげな勧誘はしてないでしょうね?」
『洗脳なんてとんでもないっ! 彼らは救われたくて望んで教会へと足を運ぶのです。“カミサマ”のために礎になりたいのですよ』
“カミサマ”。その単語に七絆は背筋を震わせた。吐き気を催すほどの邪悪さを伴った言葉だ。美しくもなく、清廉さもなく、聖なるものでも何でもない、信じた人間にしか見えないただの幻覚の話。そんなもののために危ない橋を渡る始祖教会の信徒共の考えが知れない。
「よくそんな上辺だけの存在に命を賭けられますね。今回の偽装だって、『タカ』にバレたらそのままありもしない罪を擦り付けられてからの不審死ですよ。信徒の人たちは知っているんですか?」
『知らなくても問題ございませんとも。彼らにとって“死”は始まりでしかないのですから』
端末の向こう側で胡蝶の口が三日月型に吊り上がったのがわかった。嘲笑とも、憐れみとも言えぬ声音だった。
きっと彼は“カミサマ”を信じていないのだろう。だからこそ崖の上から身を投げる人々の先導をしている。落ちていく人間をさぞ冷たい瞳で見下ろしているのだろう。そういうタイプの人間だ。
七絆はどっちになるのだろう。身を投げるのか、それとも死にゆく人々を胡蝶の隣で見守るのか。どちらにせよ、胡蝶には油断も隙も見せるべきではないと思った。背中を見せたら後ろから丸呑みにされてしまうかもしれない。七絆の思惑も想いも願いも、全部。
「……見も知らない人間が勝手に死んだところで、痛む心は持ち合わせていませんよ。目の前で死んだならともかく」
『おや、おや、そうですか。わざわざそれを私めに告げることが傷を曝け出していることだと言うのに? クイーンは随分お優しくなったのですね。まるで平凡な人間だ。……いえ、いえ、戯れが過ぎました。貴女様が仰るのであればそうなのでしょう! まぁ、なんです。人間なんて所詮はそんなものですよ。誰かの死体が転がる上しか歩けないので』
上手く息が吐けなかった。零がいつか言った“やさしいひと”が頭を過ぎる。唇を噛みしめれば、ぷつりと鉄の匂いが広がった。
「私はやさしいひとなんかじゃない。たったひとりのために、全部を投げ出せるような醜いヤツだ」
『ええ、ええ、この胡蝶、海よりも深く、空よりも高く存じ上げておりますとも。クイーンは“愛”のためなら何だって振り払える女性でしたから。―――私が一番、よく知っている』
「―――胡蝶さん?」
暗く沈んだ言葉はうまく聞き取れずに、七絆は聞き返すが胡蝶は「何でもございませんとも」としか言わなかった。
なおも言い募ろとした時、ピロリンとテレビから音が流れる。落としていた視線を持ち上げて画面を見れば、そこには『速報:逃亡中の“ゾンビ”複数目撃される』と文字が並んでいた。次々と切り替わる映像にはどれも白髪に赤目の身長が高い男性が映っている。ニュースによると、現場は混乱しているとのことだ。
「そりゃそうだ」
七絆は思わずつぶやいてしまった。日本においてあんな特異な見た目をした人間がほいほいと現れるはずがない。それに今回は『タカ』が捜索しているのだ。『タカ』の恐ろしさは一般人でも知っている。こと“ゾンビ”に関わることであるとなりふり構わなくなると。だからこそ、こんなふざけた事態になるとは思ってもいなかっただろう。
『如何ですか、クイーン? この胡蝶の、―――はっ?』
誇らしげに七絆へと語りかける胡蝶の言葉は最後まで続かなかった。彼にしては珍しく素っ頓狂な声を出したので、七絆は首を傾げる。テレビの画面では白髪の男性が防犯カメラを見つけたのか、カメラに近づいてきていた。赤い瞳がくっきりとカメラを捉えると、真っ赤な舌を垂らして中指を立てる。その後はカメラを破壊することもなく、黒いパーカーのフードを被ると猫背のままポケットに手を突っ込んで去っていった。
一瞬、息をするのを忘れた。それほどまでに画面の向こうの男は零によく似ていたのだ。白い髪、赤い瞳だけじゃない。カメラに気がついた時の素の表情が、その目鼻立ちがそっくりだった。あんなパフォーマンスがなければ、零と間違えてしまいそうなほどに。
だからだろうか。言い知れない寂寞感のような、心にぽっかりと穴が開いたような気分になるのは。外を自由に歩けない零の姿をそこに見てしまったのだろうか。
「ず、随分過激な人も中にはいるんですね」
七絆はその思いを悟られぬように取り繕った明るい声を出すが、胡蝶からのリアクションは何もない。はて、と思うより先に端末の向こうで唸り声を聞いた。
『……ッ、あの野郎』
まるで地を這うような声だった。いつもの慇懃無礼な態度を取り去った胡蝶に、七絆は端末越しではあれど肩を震わせた。こちらにも怒気が伝わってくるほどだ。
「こ、胡蝶さん?」
『―――ッ、ええ、ええ、申し訳ございません。少々取り乱してしまいまして。ええ、ええ、あの男についてはこちらで処分いたしますので、クイーンはお気になさらず。はい、ええ、それはもう、見つけ次第口に出すのも憚れるような方法で殺しますとも。ははは、ええ、ええ、本当に、クイーンは気にもかけなくてよい存在ですので』
胡蝶は早口に捲し立てるようにそう言った、もはや、七絆はついていけず目が点である。
「いや、貴重な資源ですし殺さずとも―――」
『いえ、殺します。きっちりかっちり、二度とクイーンの視界に入らないよう磨り潰して殺します』
「ええ……」
胡蝶の変貌っぷりに七絆は戸惑いを通り越して呆れていた。確かにパフォーマンスとしては少々過激だったと思うが、殺すほどまでだろうかと思ってしまう。あの飄々とした感じで場をかき混ぜてもらった方がいいのではと考えるが、七絆が口に出したところで言い切るまでもなく胡蝶の「殺します」に遮られるだろう。
『―――ふう。いやはや、お見苦しい所をお見せいたしました。長話となってしまいましたね。そろそろ件の彼も起きてくるころでは?』
そう言われて時計を見れば、既に八時を回っていた。今から学校へ向かっても間に合わない時間だ。そもそも、七絆は仮病というワイルドカードを切ろうと考えていたので問題はない。
「そうですね。それにこれ以上話しててもどうにもならないでしょうし」
七絆としては胡蝶のごまかしの理由が非常に気になるところではあるが、これ以上突いても何も出ないだろう。どうしてか胡蝶はこの件にしては頑なだ。クイーンとして命令するのはなんとなく違う気がした。そもそも七絆はクイーンなんて大層なものではないのだから。
『それでは、私めはこれで。ああ、そうでした。私めからのプレゼントは見てくださいましたか? 貴女様の私用端末にお届けていたしましたので、ご確認を。ええ、ええ、やはり電話というものはよいものですねぇ。遠くにいるのにクイーンの息遣いが耳元に―――』
容赦せずに七絆は端末を切った。
「どうしてこの人は最後に気持ち悪いことを言ってくるんだろうか……」
七絆最大の謎である。暗い端末の画面を眺めるが、ふと胡蝶の“プレゼント”という単語が頭を過ぎる。そういえば私用端末に送ったとかなんとか。七絆は胡蝶専用端末をパーカーのポケットに押し込んでから、自身の端末を見る。そこにはSNSに連絡が入っているとある。番号を見てみれば知らない端末番号だが、胡蝶の口ぶりからして彼だろう。これで詐欺だったら笑い話であるが。
「……へっ?」
そこには「よい週末を!」と書かれたスタンプと括首町から電車で一時間程度の距離にある遊園地の電子チケットが二人分送られてきていた。
思いの外投稿期間が開いていたことに気がつきましたが、多分元気です。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




