ポケットの内側、きみの裏側
第二十二話。
七絆は家の前に立っていた。その手には一枚の名刺と一つの端末。彼女の表情は非常に渋いものだった。
あの後、胡蝶に何度尋ねても彼は「用意にお時間を少々いただきたく」としか答えなかった。任せていいものかと迷ったところではあるが、答えてもらえない以上七絆にはどうしようもない。窓の景色が見知ったものへと変わるのをぼんやりと見ていた。
家の近くで車を止めると、胡蝶は後部座席のドアを開けた。促されるままに降りれば、今七絆の手にある名刺と端末が渡されたのだ。胡蝶は「長く共にいるのは危険ですので」とだけ言い、再び車に乗って去って行ってしまった。あの回りくどい台詞回しがなくて安心したとともに、一抹の寂しさがあったりもした。
出会いは唐突で別れは呆気なかった。けれど、これだ最後ではないだろうという確信が七絆にはあったし、何よりも零のことを知られている以上、七絆としても一方的に胡蝶を切ることはできない。恐らくは向こうのアクションを待つしかなく、二度目の接触を待つかと決め、七絆は家路を辿ったのだ。
そして今、思い出したかのようにポケットに突っ込んだ名刺を取り出して見たのだが、
「やっぱりヤベー奴じゃんか……」
視線の先の名刺には「始祖教会 吊木胡蝶」と書いてあった。
「ただいまー」
家の前で立ち往生しているわけにもいかず、全力疾走をさせられたせいでくたくたの七絆は玄関に倒れ込んだ。一生分の運動をした気がする。もう立ちたくないと思いながらも、ここで行き倒れているわけにはいかないのでのろのろと動き出す。
今日は零は出迎えに来なかった。それは七絆の教えを守っている証拠なのだが、なんとなく寂しい気もする。
「ぜろ~? あれ、零ー」
それに返事もない。もしかしたらリビングで寝てしまっているのかもしれない。とりあえずカバンを置こうと七絆は自室に向かうことにした。
「あれ、零?」
カバンを置いてからリビングに行ってみたが、そこに零はいなかった。七絆がいる時はリビングが彼の根城だ。寝る時は義父の部屋を使わせているが、ほとんど彼があの部屋に留まっている所を見たことがない。念のために義父の部屋も覗いてみたが、零の姿はなかった。けれど、ベッドのシーツがしわくちゃになっており、微かに湿っている。それにタンスからは義父の服がはみ出していた。七絆が家を出る時にはこうはなっていなかった。そこには自分と零以外の人間がいた気配がする。
零がいない。その事実に七絆の心の奥から焦燥感が湧いてくる。
「零、零! 零、どこにいるの! 私、もう帰ってきたから出てきて大丈夫だよ! ねぇ、零!」
静かな部屋に七絆の声だけが反響する。先ほどまで胡蝶と『タカ』の話をしていたからか、嫌な考えが降りてくる。もしかしたら、零の居場所がばれたのでは。その考えを払拭するかのように、七絆は声を張り上げて零の名前を呼んだ。もう外に聞こえたらなどとは考えていられなかった。
「零!! お願い、私を呼んで!」
「―――ナ。――――」
七絆は微かに聞こえた声に顔を上げた。確かに今、聞こえたのだ。微かにだけれど、零の声が。
「零? 零! もっと大きな声を上げて! 声を出し続けて! どこにいるかわからない!」
「――ズナ。――っち。こっち! ナズナの部屋!」
その声を頼りにくまなく歩き回れば、声が一番近いのが七絆の部屋だった。先ほど七絆が部屋に戻った時には誰もいなかったはずだ。しかし、ここから声が聞こえるというのなら、ここに零がいるのだろう。
意を決して自室に繋がる扉を開ければ、やはりそこには誰もいない。
「ナズナ! こっち! クローゼットの中!」
が、零の声だけは聞こえる。しかもクローゼットの中だという。なぜそんなところにいるのかは謎であるが、七絆は彼の声の通りウォークインクローゼットを開けた。
しかし、七絆の衣類が引っかかっているだけで零の姿は見えない。戸惑いしかないが、七絆は口を開いてそのままそれを声に乗せた。
「零? 今クローゼットを開けてるんだけど、どこにいるの?」
「奥! 左奥見て!」
「左奥?」
零の声に導かれるように左奥を見れば、確かに七絆の探し人はそこにいた。そこにいたのだが、彼を見て七絆は開いた口が塞がらなかった。
「―――なにやってるの、零?」
「は、はまっちゃった……」
七絆の視線の先、照れくさそうに言う零はクローゼットの底板に嵌まっていたのだった。尻部分が底に嵌まっているためか随分滑稽な格好で会った。
「ちょっと色々と整理をさせて欲しい。ちなみに異議は認めない」
「は、はい……。ゴメンナサイ……」
現在、零はリビングにて七絆の前で正座させられていた。ラグが引いてある場所に正座させられているのは七絆の愛ゆえだろうか。
あの後、すぐに零の両手を引っ張って引き抜いた。かなりしっかりと嵌まっていたようで、なかなか抜けずに両者とも焦ったのは触れないでおく。長時間あんな格好でいたせいか、零は尻を摩っていた。
「とりあえず、最初から。なんで私の部屋に?」
「そ、それは……その、知らない人が入ってきたから……」
「はぁっ!? し、知らない人っ!? は、入ってきたの!? いつ、どうやって、どんな人がっ!?」
「な、ナズナ、近い、近いよっ!」
零の言葉に七絆は飛び上がらんばかりに反応した。勢いあまって零の両肩を掴んで揺さぶれば、彼は驚いたのか小さく悲鳴を上げる。その声に少し落ち着いた七絆が揺するのをやめれば、零は口を開いた。
「えっと、女の人だったよ。ナズナみたいにフツーに鍵開けて入ってきたから、僕、慌ててソファの裏に隠れたんだけど、リビングには来なかったんだ」
「そ、ソファの裏……。それは隠れたというのだろうか……?」
「もうっ! 僕もそれくらいわかってったって! だからちゃんと隠れようと思って、夜寝る時の部屋に行こうとしたんだよ。そうしたら、その女の人、その部屋のベッドの上で呻いていたから不気味で……。悪いなとは思ったんだけど、ナズナの部屋に隠れたんだ。と言っても、隠れられるところがクローゼットしかなくて。隠れたのはいいんだけど、奥に座った瞬間底が抜けて……その、あとはナズナが見た通りです……」
きゃっと両手で赤くなった顔を隠す零は心底恥ずかしそうだ。一方で七絆は今零から聞いた内容を頭の中で反芻していた。首を捻って、そしてある答えに行きつく。
「……それってお義母さんでは?」
「? “おかあさん”?」
「うん。あれ、話してなかったっけ。二階部分に義母と義弟が住んでるって。何しに来たかはわからないけど、鍵開けて入ってきたんだったら多分……。その人、肩口くらいの黒髪だった?」
「ちゃんとは見てないけど、それくらいの長さだったと思うよ」
「うーん、じゃあ、そうだ。ちなみに他の部屋行ったとかはわかる?」
「わかるよ、こう見えても耳はいいんだ。特にその部屋以外は行ってなかったよ。その、僕はまってたから見たわけではないけど……。ナズナの部屋ではまってる間もなんか苦しそうな声出してたよ。聞き耳立ててたんじゃないよ! 聞こえちゃっただけで」
零の言葉と七絆が先ほど見た義父の部屋の惨状が組み合わさり、なんとなく義母が行っていた行為に思い至り七絆は顔を顰めた。ただ義父のいないことを嘆いているだけならばいいのだが、そんなのはどこでもできる。わざわざ一階に降りてきて、尚且つ義父のベッドで行うことが重要なのだとしたら。七絆はそれを想像してしまい、吐き気を催しそうだった。せめてシーツとかは洗っていくべきだと思う。
「…………零」
「うん? どうしたの、恐い顔して」
「来客用のふかふか布団があるので、今日からそれを持ってきて私の部屋で寝よう。私がいるから大丈夫だとは思うけど、万が一お義母さんとばったり遭遇してしまったら洒落にならないからね」
「ナズナがいいんだったら、僕はいいよ? “べっど”って段差があって良く落ちちゃうから苦手だったんだよね」
「夜中にどっすんどっすん音がすると思ったら零がベッドから落ちる音だったのか……。じゃあ、今日からそういうことで。布団は後で出しておくから」
七絆が話は終わりだと立ち上がれば、零は安堵のため息を吐いて足を崩した。彼女が立ち上がった時にふわりと香る匂いに零はふと何かに気がついたように顔を上げると、次の瞬間には顔を強張らせた。
「―――ちょっと待って、ナズナ」
キッチンに向かおうとしていた七絆が振り返ると、すぐそばに零がいた。長身の零に見下ろされて七絆が硬直していると、彼はすんっと七絆の首元に顔を埋める。七絆は一瞬何が起こっているか理解できなかったが、どうやら匂いを嗅がれていると気づいて真っ赤になった。
「え、え、ちょっ、なに!? あ、もしかして汗臭い!? 今日走り回っ―――た、体育あったからなぁ!」
「―――ナズナ、今日誰かに会った?」
零の両手が七絆の肩にかかり、その言葉にほんの少し体を強張らせた。赤い瞳がじっと七絆を見ている。嘘偽りを糾弾するかのその視線の強さに七絆はたじろいだ。七絆の黒い瞳が緊張から揺れるのは止められなかった。
「や、やだなぁ、零! まっすぐ帰ってきたに決まって―――」
「嘘、だよね」
七絆が言い切る前に零にそう断言され、七絆は自身の目を泳がせた。追及を交わせそうにないと彼女はそっぽを向いた時、零は行動を起こした。
「隙あり!」
「え、ぎゃあっ! どこに手ぇ突っ込んでんの!?」
零は七絆からぱっと手を離すと、スカートのポケットに手を突っ込んだ。七絆の叫びに意も介せず、零は手に入れた紙切れを見る。
「…………。これ、なんて読むの?」
「読めないんかいっ! 実力行使で奪っておいてこれかっ!」
「読めないけど赤い血の匂いがするよ、これ。……よくない、よくない気がする。ねぇ、ナズナ。この紙くれた人と会わない方がいいよ。嫌な予感がする」
零は七絆の顔をまっすぐに見据えると、ひどく真面目な顔をした。その表情に僅かに滲むのは焦燥感と嫌悪感だ。まだ少しの時間しか共にいないが、七絆はそんな零の表情を初めて見た。基本的に笑顔でいることを崩さない零にしては珍しいことだった。
これにそんな重みがあるのだろうか。七絆は零の持つただの紙切れを見てそう思う。
もし零が本能的な嫌悪感を露わにしているのならば、胡蝶とかつて何らかの関わりがあったりするのかもしれない。そうすると、胡蝶は本当に零のことを知っているということになる。七絆が知らない七絆のことを知ると言うように、零の知らない零のことを。零は自身が物事を知らないことを気にしてはいたけれど、どうして記憶がすっぽりないかなどはあまり気にしていないようだった。
けれど、七絆は知りたい。零のことを余すことなく。それは好奇心と呼ぶには拙すぎて、探求心と呼ぶには愛がなかった。
もしかしたら彼と出会った時に去来した懐かしさの意味がわかるかもしれない。失われた記憶を持つ者同士、どこかで出会っていたことがあるかもしれない。そんな運命的なことを心の端で思っていた。
まだ胡蝶が零のことを知っているかどうかは断定できない。その情報すら七絆を揺さぶるためだけのカードである可能性があるからだ。実際、胡蝶は結局零については何も話さなかった。
だが、可能性があるのならばその芽を潰すわけにはいかない。いかに零が嫌がろうとも、この件に首を突っ込まれるのは七絆が望まないところである。
「そっか。零がそう思うんだったら、もう会わないよ」
だから、七絆は笑顔で嘘を吐く。先ほどのような失態は犯さないように、にこりと笑って偽りの仮面を被るのだ。そんな嘘に気がつかないまま零はぱっと顔を輝かせる。
「うん! なんでかはわかんないけど、こういう時は心に従うものだって“先生”も言ってた!」
「そうなんだ。一応それは個人情報だし、シュレッダーかけるから一度返しくれるかな?」
「はい!」
―――本当にこんなところで詰めが甘い。でも、そんなところが零の美徳かな。
七絆は零から胡蝶の名刺を返してもらいながら、そんなことを思った。名刺のことを解決したと思っている零は「お腹すいたー」とラグの上にごろりと転がっている。
「簡単なもの作るから待っててね」
そっと名刺をポケットに仕舞いこんで、何事もないかのように七絆は振る舞うのだ。
その手の内には蛇の這い寄る林檎は握られたままで。
注意書きってどこまで書くのがいいんかなと思う神川です。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




