降って湧いて落ちて
第十九話。ほんの少しだけ注意です。
七絆は件の袋を片手に公園で突っ立っていた。時計は昨日よりも遅い時間を指し示しているのに、待ち合わせ相手はまだ来ない。誰もいない静寂な公園で端末をいじりつつ待つのにも限界がある。もしかしたら、家出もどきがバレて怒られているのかもしれない。そうなると、今日はもう来ないという可能性もある。
端末から顔を上げて見れば、ほのかに異臭がした。先ほどから感じてはいたが、少しずつ臭いが強くなってきている気がする。何かが腐ったような、鉄錆のような臭いだ。生憎の曇天ということもあり、なんだか気味が悪い。零と出会った日の記憶が脳裏を掠めた。
家に帰ろう。七絆はそう決めると、端末をカバンに投げ込んで足早に出口は向かう。幸いにして家はそう遠くないのだから、さっさと帰ってしまおう。別に服を返すのは今日でなくてもいいだろうし、最悪返せなかったとしても仕方のないことだ。
名前も知らない、会ったばかりの少年なのだから。
「わっ!」
「ぐっ!」
不安感から周囲を確認せずに階段を飛び降りた七絆は誰かとぶつかった。勢いがついていたとはいえ、尻餅をつくほどの衝撃ではなかったため、何とか踏みとどまる。対して相手はひっくり返ってしまったようだ。
「ご、ごめんなさ―――あれ、昨日の少年くん?」
「いっつつつつ……」
謝りつつ右手を差し出せば、目の前にいたのは昨日の少年だった。相も変わらず目深に帽子を被っている。少年も七絆の声を聞いて、目を丸くした。
「あ? アンタ、昨日の―――って、呑気に話してる場合じゃねぇ! 俺はアンタ探しに来たんだよっ! いいから、逃げるぞっ!」
「え、ちょ、まっ……!」
ぐいと差し出していた右腕を引っ張られて、七絆は思わずつんのめる。少年はそんな七絆に構うことなく走り始めた。為されるがままに七絆も少年の後ろを走らされる。
「ちょちょちょ、ちょっと! どういうこと!? 説明を! 説明を求める!」
「あんまデカい声出すなっ! あとで教えるから黙って走れっ!」
「理不尽っ!!」
しかし、校内体力のなさワースト一位とも言えるべき七絆がそうも長く走れるわけがない。混乱状態からか平時よりは長く走れたが、次第に息が切れてきて足が重くなっていく。少しずつ重みを増す七絆の腕に気がついたのか、少年はちらりと振り返った。ちなみに息すら切れてない。
「もちょっと早く走れねぇか!」
「はっ、い、いやいやいや、もう無理……! はし、ってること、ほ、ほめて……!」
「体力ねぇな!? ……仕方ねぇ、そこ、隠れるぞ!」
言い切る前に少年はへろへろになった七絆を人ひとり入れるくらいの路地裏に投げ入れる。そのせいで七絆は顔面からスライディングする羽目になった。少年は表通りの周囲を確認すると地面に突っ伏している七絆の元へ戻ってくる。
「……俺が聞くのもあれだけど、大丈夫か?」
「大丈夫そうに見える?」
「うっ、いや、見えない……。悪かったよ、余裕がなかったんだ」
「……理由があってのことなら仕方ないけど」
七絆は顔を上げると恨みがましそうに少年を見た。よほどひどいことになっていたのか、少年は恐る恐る「顔、拭いた方がいいぞ」とだけ言う。七絆は言われるまでもなく、カバンからウェットティッシュを取り出すと乱暴に顔を拭いた。
「それで? この暴挙の理由は? 理由はありませんでした、だと納得がいかん」
「あー……。……うーん」
「そんなに悩む内容? ……確か逃げるぞとか言ってなかったっけ。何か逃げてるのさ」
七絆の問いかけにも少年は唸り声をあげるだけで答えない。埒が明かないと七絆が立ち上がったところで、少年はようやく「待った!」と声を上げた。
「わかった。言うから座れ。あと俺より向こう側に行くな」
「う、うん」
ぴしりと地面を指差され、七絆は大人しく従った。昨日のような明るさはなく、少年は切羽詰まったような顔をしている。七絆はそのギャップに若干戸惑いを覚えた。彼のことを良くは知らないが、恐らくは生来的に明るい性格をしているのだろう。そんな彼がこんな表情をする事態が起きているのだ。七絆の手のひらにじわりと汗が広がった。
「いいか、絶対パニックになるなよ。さすがにそうなったら俺は困る」
「困るんだ……」
「困る。ものすごく困る。気絶でもさせて運ぶくらいしか方法がなくなるからな」
「ぶ、物騒……! で、本題は?」
促されると少年はすぅっと一つ息を吸った。そして口を開く。
「“ゾンビ”がいる」
端的かつこれ以上納得のしようのない言葉だった。七絆は思わず開いた口を両手で覆う。そうでもしないと、悲鳴を上げてしまいそうだった。
「ぞ、“ゾンビ”って、あの? 嘘ではなく?」
「こんなくだらない嘘つくかよ。あのってのがわからないけど、アンタの考えてるので間違いない。顕在型の方だ」
「ひっ……!」
両手で口を覆ったまま、七絆は引き攣った声を出した。声というよりは呼吸が上手くできずに音が漏れてしまったような声だ。血の気がさっと引いていくのを感じる。頭がくらくらしてきたような気がした。
零とて“ゾンビ”であるが、彼はあくまでも潜在型で常識は通じなくとも言葉は通じるし、意思の疎通はできる。だからこそ、七絆は彼を受け入れた。けれど、顕在型はそうもいかない。話に聞いたところ暴れる獣のようなものだそうだ。和解なんて逆立ちをしたって不可能だ。
「あー! もうっ! だから言いたくなかったんだよ!」
「声っ! 声のトーンを落としてっ!」
真っ青になった七絆を見て、少年は頭を抱える。その声の大きさに今度は七絆が慌ててしまう。通りに続く道を見るが、今のところ“ゾンビ”はこちらに来てはいなさそうだ。
「……アンタ、顕在型の“ゾンビ”を見たことは?」
「な、ないよ。そんなの……」
「あー、そうかよ。先に言っとくが、どんな姿形してても絶対にビビるな。足を止めたら殺されると思え」
少年はいつになく真剣な顔をしている。これは脅しでも何でもなくて本当のことだろう。七絆は口を押さえたままこくこくと首を振った。
不意に何かが腐ったような異臭がしてくる。公園で感じた臭いと同じだ。さらに言えば、零と出会ったあの夜と似た臭い。もしかしたら、これは“ゾンビ”の臭いなのかもしれない。けれど、目の前の少年は辺りを警戒してはいるが、何か感じたようなそぶりは見せない。勘違いかもしれないけれど、伝えておきたくて七絆は口を開く。
「ね、ねぇ。なんか、腐った臭いが近づいてきてる気が―――」
しかし、七絆が不安から出した言葉は最後まで紡がれることはなかった。
急に少年に腕を引っ張られたからだ。先ほど走っていた時よりも強い力だった。その直後、大きな衝撃が走り、思わずバランスを崩す。少年は腕を離すことなく、より強く七絆を引っ張り、彼女はその勢いのまま少年の背後にまわる形となった。
そうして七絆は初めて顕在型の“ゾンビ”と向き合うことになる。
こちらを向く白く淀んだ目。
ありとあらゆる場所から垂れ流れていく血。
鼻を突き抜けるような腐臭。
青い血管が透けた病的なまでに白い腕がこちらに伸びてくる。
血に塗れた口からは生臭い呼気を吐き出していた。
実際に出会うと声も出なくなるのかと、妙に冷静な七絆の頭はそんなことを考えていた。きっとこれが混乱状態というのだろう。思考が乱れて、嫌な汗が背を伝う。膝は震えてしまって、歩くことすらできなさそうだ。
「走るぞっ!!」
少年が七絆を引っ張ってくれなければ、彼女は自失の内に殺されていたかもしれない。少年の声に我に返った七絆は促されるままに走り出した。
まだ死にたくない。息が切れようとも、足を止めてはならない。足の速い少年についていくので必死だったけれど、その想いだけで足を動かした。けれど、腐臭は一向に消えない。むしろ近づいてきているような気がする。
「ッ、はッ、ど、しよ! まだ、追って!」
「チッ! アイツ、厄介なタイプだ! このまま行けば追いつかれるぞ!」
「そ、なこと言われてもっ!」
誰がなんと言おうとこれが七絆の全力だ。彼女の普段を知っている人間なら目を丸くすることだろう。
「どっか! どっか、家に!」
「……それはだめだ。中にいる人間を危険に晒すことになる」
そう言っている場合かと七絆は叫びたかったが、少年の言うことももっともである。“ゾンビ”には身体能力が強化されている者がいると、昔何かの情報番組でやっていた。きっとあの“ゾンビ”は恐らく身体が強化されているタイプだ。そうでなければ、五階以上の高さがある建物から飛び降りて無事ではすむまい。普通に家を破壊して入ってくる恐れもあるのだ。よりによって極稀なタイプと出会うとはついていない。
「で、でも、ッは、このままじゃ!」
「わかってる! わかってるよ!」
少年は自棄になったように叫びながら、大通りに飛び出した。警報が出ているのだろうか、人っ子一人見当たらない。
しかし、道路に一台だけ黒い車が止まっていた。まるで二人を迎え入れるかのようにその車はそこにあった。少年はそのまままっすぐ車に向かうと乱暴に窓を叩く。七絆はその隣で膝に手をついて荒い呼吸を整えるので精いっぱいだ。
「おい、開けてくれ!」
「―――おや、どうかしましたか。そんなに血相を変えて」
冷静な低音が七絆の耳を打った時、彼女は一瞬呼吸を忘れた。こんな状況なのに得も言われぬ懐古の念に駆られたような、胸の奥がもぞりと動いたような気がした。
中から顔を覗かせたのは細身のフレームの眼鏡の奥、切れ長の涼やかな目元が印象的な男性だった。誰もが羨むようなストレートな黒髪を後ろで結わえた美丈夫だ。
「“ゾンビ”に襲われてんだ! コイツだけでいい! 車に乗せてやってくれ!」
「えっ! なんで私だけ!? 一緒に乗らせてもらえばいいじゃん!」
「ごちゃごちゃうるせぇ! いいから乗れ! 俺は大丈夫だから!」
少年は男性の返答を聞くこともなく、後部座席のドアを開けるとそのまま七絆を車内に押し込んだ。おかげで七絆は本日二度目の顔面ダイブをする羽目になったが、さぞかし高級そうな肌触りのクッションが彼女を受け止めてくれる。
「おやおや。強引な人ですね」
男性は喉の奥でくくくっと笑うと、それ以上何も聞かずにドアの鍵をロックしてしまう。七絆がそれに抗議しようと頭を上げた時には車は発進した。危うく座席から転がり落ちるところを座席にしがみついてなんとか耐えきる。
「え、ちょっと!」
七絆がリアガラスから顔を出した時には、もうすでに少年の姿が遠くなっていた。少年も車が動き始めたのを見届けると、逆方向へと走り始める。どんどんと互いの距離が離れていく。
七絆は小さくなっていくその背中の無事を無力に見送ることしかできなかった。
更新頻度が上がってますが、そろそろストックが……。あと、読み直すと誤字が多いのね……(にっこり)
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




