赤色の悪夢、または邂逅
プロローグ2。今回はグロテスクな表現があるので、苦手な方はお気を付けください。
重い瞼を無理矢理開けると、蛍光灯の光が目を焼いた。白飛びした視界が元に戻ると、灰色の天井が見える。上半身を起こしてみると、閉ざされた多くの扉と無機質な廊下が延々と続いていた。どうやら私は廊下に寝転がっていたらしい。
そのまま伸びをしてみると、節々に痛みを感じた。それもそうだ、こんな固い床の上で寝ていればそうなるに決まっている。
そういえば、此処は何処だろう。
ふとそんなことを思い、私は慌てて立ち上がった。我ながら呑気なものだ。しかし、不意に沸き上がった疑問に恐怖の色を感じ取った。
辺りを見回せば、なんとなく既視感を感じる。アルバイトで出入りしているお母さんの研究所のように見えた。それにしては常と異なり物静かだし、何よりも今日はアルバイトの日ではなかったはず。いや、そもそも今日は一体何日だったか……。
またもや出てきた疑問は不安となり、私の判断を敏感にさせる。先ほどまでお母さんの研究所だと思った場所は見知らぬ場所になり果てた。似ていると感じていた造りも全く違う。
不安を抱えた私はそれでも前後関係を把握しようと考えを巡らせる。だが、自分が何をしていたのか、しようとしていたのか思い出そうとしても、頭に霧がかかったかのように何も思い出せない。
仕方ない。ここが何処であるかわからない以上、どの扉でもいいから開けて見るべきだろう。混乱から焦燥感を駆り立てられた私は俯いていた顔を上げたが、そこには静かな廊下のみが広がっている。先ほどまで見えていた扉が何処にも見当たらない。
まずは扉を探すしかない。ここで立っていても埒が明かないと、私が一歩踏み出したその時だった。
「やっほー」
突然、背後から能天気な声が掛けられた。さっきまでは誰もいなかったはずなのに。
驚いて振り返ると、そこには舌を出したファンシーな兎の被り物をした白衣の女性が立っている。
普通に考えれば怪しさしかない出で立ちだが、今の私は心細さの方が勝っていた。だから、人がいたと、そう安心して何も警戒することなく口を開きかけたのだ。しかし、その口から声が出ることはなかった。
「よっこらせ。いやいやぁ、これがあると話しづらいんだよねぇ。重くて肩も凝るしさぁ」
そこには在るべきものがなかった。血に塗れた兎の被り物がごとりと床に落とされる。
私の目はある場所に釘付けだった。人を象るにあたってあるべきものがない場所、そこからぼたぼたと血を溢し、彼女の白衣を染めている。いや、果たしてそれは女性だったのか―――
頭がその何かを理解する前に、足が動いていた。私の身体は私の意思とは無関係にぐるりと反転すると走り始めた。
恐い。恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い!
遅れて恐怖がやってくる。そのせいか膝が震えて、全然進めない。何よりもすぐに息が切れる。自分の運動音痴を呪ったけれど、私はここで立ち止まるわけにはいかない!
先ほどの首なしの様子を思い出してしまって、気持ち悪くなった。そうだ、あれには頭がなかったのだ。
考えないようにすればするほど、思考はぐるぐると巡り、吐き気が止まらない。そんな状態で走り続けられるわけもなく、ふらついてそのまま膝から崩れ落ちる。そして、そのまま胃の中からせり上がってきたものを目の前にぶちまける。胃の中のものは消化されてたのか、胃液だけがのどを焼いた。いつもなら、あんなもの見た瞬間に卒倒しているだろうに。どうして、なんでこんなに。
気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
「だぁいじょうぶー? そんなに逃げなくったって、食べたりなんかしないよぅ。そもそも口がないしねっ! なんつってブラックジョークみたいな? どっちかってーと、ブラッディだけど!」
目を向けていた床に血だまりが広がっていく。恐る恐る顔を上げると、先ほどの首のない女性がおそらく顔があれば丸い頬であったろう部分に両手をついてこちらを見ていた。いや、正式に言えば目がないのだから、彼女がどこを見ているかなんてわかったものじゃない。
でも、私にはそう思った。彼女は私を見ている。
「ちょっとちょっとー、そんな顔されると傷つくなぁー。そんな化け物でも見るような顔しないでよぅ」
そう言って、彼女はずいっと私に首を近づけてきた。
「だぁって、私はあなたじゃない!」
「は?」
きっと顔があれば満面の笑みであろう、その楽しげな声が放った言葉に思わず声が漏れてしまった。
私が? この首なし?
「そうそう! あなたは私、私はあなた! ちょおっと今はこんな感じで首がないんだけどね。ちょうどスペアも切らしちゃってさー」
首なしはそう言って、からからと笑った。私はどう反応していいかわからず、彼女を茫然と見るだけだった。彼女は突如立ち上がって、白衣のポケットから何かを取り出す。そしてそれを私の鼻先に突きつけた。
「あ、飴?」
真っ赤な真っ赤な飴だった。彼女はそれをずいっとこちらに差し出してくるので、仕方なく受け取る。彼女はくるんと白衣を翻しながら回った。
「あなたは忘れてるだけ。私を忘れてるだけ。彼を忘れてるだけ。過去を忘れてるだけ」
彼女は急に私の両頬を力強く挟み、大きく上に引っ張る。私の顔をまるで引っこ抜くかのように。あまりの痛みに私はつられたように立ち上がる。どうして私がこんな目に。涙が出そうだった。
彼女はにっこりと笑った。顔はなくとも、彼女はにっこり笑った。そうして、私の耳元に首を近づけてくる。
「お前は自分の罪を忘れているだけ」
声帯もないのに、その声は確かに耳元で聞こえた。どうしようもなく恐ろしかった。逃げたい。それでも掴まれてるせいでそれは出来ない。
何よりも、その声は確かに私のものだった。それが恐ろしくてしょうがなかった。
「都合がいいと思わない? 自分のことから目を背けて。自分は知らんぷり。目の前で何があっても揺らがなかった信念をあっさり忘れて。それに伴った血の数も覚えてなくて。あんな些細なことで痛みを、想いを捨て去った気でいて」
「な、何? 何のことかわからないよ……」
どうして私がこんな目に。何も知らない。何もわからない。怖くて怖くて怖くて。涙が出てくるけれど。あれ、こんな時にいつも私の隣にいた人がいた気がする。あれ、あれあれあれ。でも、思い出せない。
首なしの私は頬に添えていた手を私の首に手を掛けた。そうして、笑って言った。
「私はあなたの死骸だよ。あなたは私の抜け殻」
「あなたの想いは全部全部死んでいる。だから私が持っているの。死骸である私は一番大事なものを持っている。生きている私が捨てたものを。でも、この想いがあるから生きていけるの。首がなくてもね」
彼女は笑う。笑う。笑う。笑う。首がなくても笑う。大切なものをその胸に抱えて笑う。けたけたと声高に笑う。ぎりぎりと私の首を締めあげる。
でも、でもそれは―――
「そ、れは、わた、しの」
首なし女は何も言わなかった。代わりに私の首にかかっていた手が腐り落ちたかのように、ぼとりぼとりと落ちていく。彼女は呆気にとられたように落ちた両手を眺めている。そして、落ちた手に目を遣るとまた笑った。
「あは。あははは。あはははははははははははは!」
彼女は狂ったように笑いながら、私から一歩二歩とふらふら離れていく。落ちた両手からはぼたぼたと血を流している。それでも私は彼女から目を逸らさなかった。逸らせなかった。彼女は一通り笑い終えると、手を無くした腕を広げた。
「だったら、奪わなきゃ。欲しいものは殺してでも奪い取らなきゃ。何を犠牲にしても奪わなきゃ!」
そうして彼女はうふふと笑いながら、こちらに背を向け走っていく。彼女の背を目で追えば、先ほどまでは殺風景なまでに無機質な廊下はその様を変えていた。
「ッ!?」
血血血血血血血血血血血。
廊下の壁が血で真っ赤に染まっている。そして、たくさんの死体が無造作に転がっていた。どれもこれも首がない。首がないのに、それでも私にはわかる。あの死体達は私を見ている。
無性にこの光景が恐ろしくてしょうがなくなった。先ほどの首なしの女性を追わなければ。そうでもしなければ、この非日常から逃れられないような気がした。
死体の横を通れば、死体達が笑いだす。私を見て、さも滑稽かのように笑いだす。けたけたと大声で笑いだす。
最初は恐る恐る歩いていた私だったが、あれらの笑い声に耐え切れず走り出す。先ほどはすぐに息が上がっていたのに、今回はそんなことを考えている場合ではなかった。
あははは。あはははははははは。あはははははははははははははははははははははは。
耳を塞ぐ。それでもその隙間から笑い声が流れてくる。みんなが私を笑っている。私を嗤っている。
嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
私は笑いたくない。まだ失えない。何かもわからない。何を失いたくないのもわからない。そもそも何のために、どこを目指しているのかもわからない。
それでも。
それでも、私は行かなきゃいけないんだろう。
笑い声が響いてくる。右に曲がれば死体があって、左に曲がれば死人がいて、まっすぐ進めば死んでいる。どこまでも死が広がっている。
走って走って走って。目を瞑って、耳を塞いで。死人がいて死体があって死んでいて。そんな場所でようやくドアを見つけた。
真っ白などこまでも真白なドアだった。でも、そんなことに構っている暇は私にはなかった。ぶつかりながらも、ドアノブを思いっきり捻る。幸いにも鍵は掛かっていなかったようで、そのまま呆気なく私の身体はドアの向こうに転がっていた。
「ううぅ……」
強く頭を打ち付けたが、あまり痛みは感じなかった。頭を押さえながら周りを見回すと、そこはただの白い空間だった。先ほど入ってきたドアはもう見当たらない。部屋ではなく、そこはどこまでも広がっている白い空間だ。
慎重に立ち上がってみれば、しっかりと足は地についている。振り返ってみれば、その空間は終わりが見えなかった。追いかけていたはずのあの首なし女性は見当たらない。
何処に向かえばいいんだろう。
ふとそう思ったが、私の足は勝手に前に進んでいた。まるで行き慣れた場所にでも行くように。止まろうと思っても止まれなかった。私はただただ自分の示す道に向かって進むだけだった。
いくらか歩を進めると、白い空間にポツンと何かが現れたのが見えた。近づいていくにつれて、それは机とその上に乗っているナニカであることがわかる。真っ黒な机に真っ白いものが乗っている。白色は真っ黒な机の下の床にまで及んでいた。
少し進めば、その白いナニカは毛玉のようだった。何の毛玉かはわからないが、そう形容するしかなかった。白と黒のコントラストが美しい、まるで何かの芸術作品であるかのように見える。
もっと近づいてそれを手に取ろうと思ったが、私の足はそこでぴたりと止まってしまった。あれほど止まろうと思っても止まらなかったものが、完全に止まってしまった。一歩踏み出そうと思っても、石膏で固められてかのように動かない。
動かないものは仕方ない。私はそこからそれを見る。上から見るからわかりづらいのかもしれない。そう思ってしゃがみ込む。
その白いナニカには、鼻と口がついていた。
「ひっ!!」
思わず後退ろうと思ったが、私の足は縫い付けられたように全く動かない。その状態で体重移動をしたものだから、無様にも後ろにすっころんだ。
毛玉ではなかった。あれは髪の毛だ。真っ白い髪の毛だ。それに、瞼は閉じられているもののしっかりと目があるのが、長く伸びた髪の隙間からうかがえた。
ならば、あれは首じゃないか。
さきほどまで首なし共がうろうろしていたが、今回のこれはまごうことなく首じゃないか。
なのに、首だけなのに、それは先ほどのように死体のようには思えなかった。
それが血を流さず、美しくそこにあるのも影響しているのかもしれない。でも、私にはそれが死んでいるように思えなかった。死んでいるとは思いたくなかった。
ぼうっとそれを見ていれば、目の前が突如滲み始めた。鼻の奥がつんとしてくるが、それでも、その首から目が離せなかった。いつのまにか身を乗り出してそれを見つめ続けていた。
頭の中で警鐘が鳴り響いている。今すぐにそれから離れろと。それは自分に害をなすものだと。心の奥底で獣の如く唸り声をあげている。
けれども、私はそこから動けなかった。パズルの最後のピースを嵌める瞬間を見ているような気がした。これはきっと私のハジマリなのだ。
微かに白い瞼が動く。そしてそれは緩やかに開き始めた。
その下には柘榴色のモノが嵌まっていた。
赤くて紅くて。血の色みたいに鮮やかだった。
その首は私を見た。確かに私を見た。
ゆっくりとその唇が動く。
私はそれを食い入るように見つめた。
「××××」
ああ。それはわたしの――
とりあえず第一話まで今日あげようかなと考えていますが、まだ第二話の校正が進んでないのでどうしようかなと思ってます。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。