絞殺する夢
第十七話。久しぶりにちょっと注意です。
―――きっといつか、私が私でなくなった時にはあなたが殺してね。
悲しそうに、でもどこか嬉しそうに笑う彼女に自分は何と返したのだろうか。
頷いたのだろうか、それとも首を振ったのだろうか。
どちらにせよ自分にはできそうになかった。
長い黒髪が翻るのを見るのが好きだった。
赤い瞳が優しく狭まるのが好きだった。
優しく髪を梳いてくれるその白い手が好きだった。
腕にすっぽりと収まる彼女の小さな身体好きだった。
全部、ぜんぶ好きだった。
ああ、でも、きっと。
いつかぼくはその細い首に手をかけて、縊り殺すのだろう。
大好きなきみを。
遅くなってしまったと思いながら、七絆がスーパーの袋を両手に引っさげて家のドアを開けると、忠犬よろしく零が玄関にいた。ついでに言えば、うろうろと熊のように右に左にと狭い廊下を往復していた。
犬なのか熊なのかはっきりして欲しいと遠い目でドアを開けている七絆に気がついたのか、零の顔がぱぁっと輝く。
「! おか―――」
零の続きの言葉は七絆の手に吸い込まれた。零が目を丸くしている隙に、七絆は急いで鍵を閉めてドアガードもかける。それからゆっくりと振り返った。
「ぜぇぇぇぇぇろぉぉぉぉぉぉ? 私が学校行く時に約束したよねぇ? 覚えてるかなぁ?」
「うん! 玄関には近づかない、ドアが開く音がしたらクローゼットに隠れる、それでナズナが呼ぶまで出てかない!」
「うーん、よくできました! ―――じゃないのさ! 覚えてるのに! 実行しなかったら意味がないの! 隠れてなきゃダメじゃん! 私じゃなかったらどうするのさ。いや、私じゃなかったら、それはそれでいろいろと問題だなっ!?」
思わず七絆も玄関で叫んでしまった。はっとして慌てて口を押さえて視線を動かすが、当たり前にもにこにこ笑う零しかいない。とりあえず声が外に漏れてないかだけが心配で、覗き窓を見るも自転車が素通りしていくのだけ見えた。
七絆は零をリビングに追い立てながら自身もリビングに向かう。先ほどまで難なく持てていたスーパーの袋がずっしりと重く感じた。リビングに入れば先に戻らされていた零が七絆の両手からスーパー袋をひょいと取り上げると、机の上に丁寧に置いてくれる。
「おかえり、ナズナ」
そして眦を下げてにっこりと笑うものだから、七絆の口から出かかったお小言はそのまま飲み込まれてしまう。彼は何かを期待しているようににこにこと笑っている。ぶんぶんと振られる犬の尻尾は幻覚だろうか。七絆は額に手をやり、深くため息を吐いた。
「……ただいま、零」
そう返せば、零は一層顔を輝かせる。どうやらこのやり取りがしたかったようだ。七絆が洗面台へ向かえば、その後ろをインプリンティングされたひよこのようについてくる。
「どうしてついてくるのさ」
「いやー、ナズナが無事だって確認したくて」
「無事って……ただ学校に行ってただけだよ。そんなほいほい命の危険に晒されたりしないって。犯罪率の低いこの国だよ? この前みたいなのが稀なんだって」
「でも、“ゾンビ”はいるよ」
「そりゃいるけどさ。彼らだって出会う確率は低いから大丈夫だよ。それに、多分この町には幸か不幸かまだ『タカ』がいるだろうし。だから、そんなに心配しなくても―――」
タオルで手を拭きながら七絆は軽く言ったが、鏡越しに見えた零の表情に最後まで言葉が紡げなかった。
彼はひどくまじめな顔をしていた。それどころか、少々青褪めているようにも見えた。もしかしたら、先ほどまでの明るい表情は取り繕われていたものかもしれないのだ。玄関で七絆の帰りを待っていたのも、彼を不安にさせる何かがあったからなのかもしれない。
「零、どうしたの」
「! う、ううん、なんでもない」
「何でもなくないよ。ちゃんと私の目を見て言って」
冷たい零の両手を握ったまま、七絆は彼を見上げた。その赤い瞳に映るものは怯えのようなものだった。視線をうろうろと彷徨わせてから、零は恐る恐る彼女を瞳に捉える。
「……転寝してた時にちょっと変な夢を見て。それで、無性に心配になったんだ。今までずっと施設にいたから、僕が外に出たことでどんな影響を及ぼすかわからないし……」
「そんな悪い電波でも飛ばしてるんじゃないんだから。別に零が外にいたって何の悪影響もないよ。それより、どんな夢を見たの? 大丈夫、どんな夢でも私が笑い飛ばしてあげるからさ」
「……よく、覚えない。でも、なんか嫌な夢だったんだ。ナズナが“がっこう”に行ってるっていうのは頭ではわかってたんだけど。こう、なんて言えばいいかわからないや」
「そっか。でもさ、零。今私はきみの前にしっかりと五体満足で存在しているよ。きみの手を握れるし、きみと会話だってできる。だから、心配することなんて何もないよ」
七絆は零の大きな手をぎゅっと握ってから微笑んだ。少しだけ零は不安そうに瞳を揺らしたが、瞬きした次にはいつも通りの輝きを取り戻していた。
「さぁ、お腹空いたでしょ。ちょっと遅くなっちゃったけど、お昼ご飯作るからね」
「うん! 楽しみだなぁ、ナズナのごはん。ナズナのつくるごはんは美味しいからな」
「ほ、褒めても料理が一品多くなるだけなんだからね!」
リビングに戻りキッチンへと入る七絆の背を、零はソファの背もたれ越しに見ていた。彼女はその視線に気がつくと、エプロンを結びながら照れくさそうに笑った。
先ほど見た夢について、零は小さな嘘を吐いた。それは夢を覚えていないという、彼女の追求を拒むための嘘だ。実際にあまり覚えていないというのは本当のことだが、脳裏に焼き付いて離れない光景があった。
時は七絆が出かけてからそう経たないところまで遡る。暇になってしまった零は七絆の言いつけ通りテレビを見ながら静かに過ごしていた。ソファに寝転んだのが行けなかったのか、微睡むまでそう時間はかからなかった。
夢の中では顔の見えない誰かが楽しそうに笑っていた。鈴を転がすような綺麗な笑い声だった。薄いガラスの向こう側、決して手の届かない場所で。
零はその空間をひどく居心地よく感じていた。彼方側の誰かはゆっくりと零に話しかけていたが、ガラスに遮られて何を言っているのかはうまく聞き取れない。それでも、その人が楽しそうに話すものだから、零はそれでよかった。
―――ああ、きっとこれが幸せっていうものなんだろう。
胸の奥底がじんわりと温かくなって、自然と笑みが零れてしまう。この感情に名前を付けるとしたら、そう呼ぶのだろう。零は生温い幸福に瞳を閉じた。
次に目を開けた時、そこは地獄だった。先ほどいた場所と変わらないはずなのに、零と誰かを隔てていたガラスは割れ、零の座っているベッドももはや元型を留めていない。誰の血ともわからない赤い液体は床一面に広がって、零の足先を赤く染める。
―――あの人を探さなければと。
零は自身の手が切れるのも構わず、割れたガラス窓から飛び出す。手からは血が流れていたが痛みはなかった。それが夢だからなのか、それとも自身の体質によるものかはわからない。
部屋の外では物言わぬ人間たちが、否、かつて人間だったものが転がっている。もしかしたら彼方にいたあの人もこの中の一つになってしまっているのではないかという考えが過ぎり、零はうまく唾が呑み込めなかった。
その考えを早く払拭してしまいたくて、一人ずつ顔を確認していくが、どうもあの人はこの中にはいないようだ。顔も知らないのに、零にはその確信があった。
ちかちかと点滅する光が視界の端に移り、零は顔を上げる。視界の先では非常口のランプが点滅していた。そして、その下では誰かが蹲っている。思わず駆け寄り抱き起せば、白衣を着たその人物は一目で助からないという怪我を負っていた。
それでも辛うじてその胸が上下しているのを見てしまえば捨て置いて行くわけにはいかない。自分の服を引きちぎり止血を試みるが、覆った先から赤色が滲み出てくる。きっと助からないと、その人の顔を窺うと―――。
そこに嵌まっている顔は七絆のものだった。
零はその瞬間に飛び起きた。周囲を見回して、自分がどこにいるかがわからなくなる。ようやく落ち着いて、ここが七絆の家だと理解したが、家主である七絆の姿が見当たらないのだ。
『ナズナ? ……ナズナ、ナズナ、ナズナ、』
全ての部屋を開け放ち、タンスやクローゼットの中、ソファの下まで覗き込んだが彼女は見つからない。家中探し回って途方に暮れたところで、はたと思い出した。彼女が“がっこう”なる場所へと出掛けたことを。
それを思い出して一度は落ち着いた零だったが、七絆が出かけ際に言った帰りの時間になっても彼女は帰ってこない。先ほど見た夢も相まってどうしても七絆が心配になってしまった。その結果、ドアの前で右往左往する羽目になったのである。
時は戻って、零は料理する七絆をぼんやりと眺めていた。キッチンからはいい匂いがしてきて、今まで鳴ることのなかった腹の音が大きな音を立てる。この身体は食事を必要としていないと思っていたが、どうにも違ったらしい。
七絆が帰ってきた時、零はとても安堵した。安堵なんて言う言葉は生温いかもしれない。ありもしない鼓動が始まったような、零が今まで経験したことのない衝撃を感じた。今でも左胸が脈打つようだ。
嘉翅七絆は不思議な少女だった。初めて会うはずなのに、こんな死にぞこないを拾うだけでなく匿ってまでくれたのだ。きっと彼女の性質からして“ゾンビ”という存在は苦手な部類に入るであろう。そんな不得手を呑み込んでまで、彼女の柔らかい所まで受け入れてくれた。
そんな彼女に零は言いようもない既視感を覚えていた。なくした記憶の向こう側で、もしかしたら七絆に会ったことがあるのかもしれない。こんなことを“先生”に言ったら一笑に付されるだろうなと、零は頭を振った。
「零ー、オムライス出来たから持って行ってー」
「はーい」
ずっと昔からそんなやり取りをしていたかのように、七絆は背を向けたまま零に声を掛けた。するりとソファから立ち上がって彼女の元へと向かう。
いつまでもとは言わない。零が捕まるまで、あるいはこの身朽ち果てるまで。少しでいいからこのぬるま湯のような幸せに浸かっていたかった。
あんまりもったいぶってても仕方ないなと思い投稿です。未だにここに何を書けばいいのかがわからない……。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




