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リビングデッドにキスをして  作者: 神川 宙
18/62

通りすがりの見知らぬひと

第十六話。

「あなた、悩み事がある顔をしていますね。始祖教会に入れば―――」

「そういうの間に合ってるんで」

 ぴらりと差し出されたチラシを押しのける。にこにこと張り付けたような笑顔が不気味な女性はその表情のまま七絆の背中を見送った。

 最近宗教の勧誘が多くて困ると、七絆は小さくため息を吐いた。神に縋っていれば助かるとでも思っているのだろうか。駅前通りを七絆は荒々しく歩いていく。

 菫との会話で些か冷静になった七絆は帰路についていた。本人に自覚はないが、その足取りはいつもより少しばかり早い。

―――恋、恋、こい、ねぇ……。

 恋の悲しみを知らぬものに恋の味は話せない、とはよく言ったものだ。経験していないことはわからない。ただわかった気になっているだけだ。

 だから、この想いが恋なのかがわからない。何せ恋心を抱くには早すぎる、と七絆は思うのだ。恋とは、―――愛とは時間をかけて煮詰めていくような感情であるはずだ。けれど、七絆はつい昨日零に出会ったばかりだ。ただの気の迷いということも考えられる。

 けれど、だったらこの想いは何なのか。恩人だから恩返しがしたい? それだけじゃないはずだ。たったそれだけのために七絆はそんなリスキーなことをしない。いや、これまでそんなことはしてこなかった。ただそういう過去の経験に基づいた事実からそう判断できるだけで、これからのことはわからない。

 そう、わからないのだ。そんなことは習わなかったし、本で読んでも理解し難かった。胸を切開して心という器官を取り出して誰かに見て判断してもらいたいくらいだ。

 くるくると考えが巡っては同じ結論に達して、また問いに戻る。抜け出せない迷路で立ち往生している気分だ。

「はぁ、やめやめ。どれだけ考えたって現実が変わるわけじゃないし、生産性もない。そんなこと考えてるくらいだったら、今日の献立考えてた方がよっぽど有意義だよ」

 声に出せばようやくふんぎりがついた。すれ違った女性にはちらりと見られたが気にしない。考えることをやめてしまえば、なんとなくすっきりした気分になった。

 凍雲のことだって、明日からの学校でのことだって頭の片隅に追いやってしまえば何の不安も心配もない。なるようにしかならないのだ、この世界は。そう思って七絆は無理にでも気分転換しようと鼻歌を歌いながら曲がり角を曲がろうとした。

 一歩大きく足を踏み出した時に、死角から人影が飛び出してくる。思わず仰け反ろうとしたが、七絆も前に踏み出している。止まるに止まれなくなっていた。

「う、わ」

「ッ、わ、すみませ―――」

 結局飛び出したのは目の前の少年か、七絆だったか。どちらにしろお互いの不注意で曲がり角で二人は衝突しそうになった。運動神経の悪い七絆はともかく、少年はどうにかこうにか身体を捻る。七絆はもう自分ではどうしようもなかったので、後ろに尻餅をつくことにした。咄嗟に受け身が取れただけ及第点だろう。

 七絆とぶつからないよう急遽避けた際、少年の腕が後ろから走ってきた自転車とぶつかった。そしてその人物が片手に持っていたジュースのペットボトルが傾くと勢いよく空に舞い、びしゃりと七絆と少年に降りかかる。少なくない量残っていたそれは七絆のブレザーと少年の上着を汚していった。

「あっ」

 二人が声を出した時には、件の人物は謝ることもなく、舌打ちひとつ残すと自転車を漕いで行ってしまった。

 残されたのは空になって道に転がるペットボトルとジュースに衣服を汚された二人、少年と七絆は互いに顔を見合わせるのだった。



「いやー、悪いな、お姉さん……で、いいんだよな?」

 現在、七絆と帽子を目深に被った少年は昨日の公園にいた。そして、七絆は公園の水飲み場で少年の上着を洗っていた。

「どこからどう見てもお姉さんでしょう、失礼な。まぁ、私も不注意だったし、それにお互い不運だったってことで」

 少年は弱冠所在なさげにベンチに座って七絆の丸まった背中を見ていた。その手には七絆に買ってもらったホットのミルクティーが収まっている。

 ここまでの経緯は簡単なことで、ジュースを浴びた二人は数分顔を見合わせた後、少年の方がそそくさと去ろうとしたところ、気の毒に思った七絆が引き留めて現在この公園で彼の上着を洗っている。七絆が常備している携帯洗剤がこんな所で役に立つとは彼女自身思ってもみなかった。見た目が完全にアブナイお薬なのであまり人目に出せない代物だ。

 別に無視して帰ってしまってもよかったのだ。むしろ、以前の七絆はそうしていただろう。少年もその場を去ろうとしていたわけだし、無理に引き留めたりなどは絶対にしなかったはずだ。

「……しなかったはず、なんだけどなぁ」

 やはりあの夜、零に助けられたのが切っ掛けなのだろうか。それとも、自身に見返りのない同じような善行を積むことで零を匿ったあの想いを知ろうとしているのだろうか。七絆自身にもわからなかったが、もしかしたらこの行為が理解への一助となるかもしれない。

「というか、そんなに缶握ってて熱くない? むしろ痛くないの?」

「へっ? ……ああ!? あっつ!!」

「言わんこっちゃない。こっちに来て手を冷やした方がいいよ」

 七絆がしゃがんだまま少年を呼べば、少年は缶を自身の脇に置いて彼女の言いつけ通り水飲み場まで来た。

「ほら、手出して。冷たいかもしれないけど我慢してね」

「うぅぅぅぅ……」

 水の冷たさに驚いたのか、少年は七絆の手から逃げたが、問答無用で水の中に突っ込む。少年の手は思いのほか冷たかった。

「ていうか、お姉さん、めっちゃ手ぇ赤いじゃん」

「そりゃあ、この冷たさだからね。手も赤くなるけど」

「……わるかった」

「だから、別にどっちが悪いってわけじゃないって。私的にはあの自転車を蹴倒したい気分だけど」

「あ、それは俺も」

 少年は七絆の言葉ににししと悪戯っ子のように笑った。七絆もにやりと笑い返して、上着を押し絞る。そこではたと気がついた。

「……洗ったのはいいけど、これ、乾かせないわ」

「あっ」

 少年も気がついたようで、口をぽかんと開けた。水分は搾り取られた濡れた上着を持った女子高校生と中学生くらいの少年が立ち尽くしているのはなんとなく間抜けだった。

「どうしようか……」

 呟いたものの、この辺りにはコインランドリーもないし、かと言ってこの少年を七絆の家に招待するわけにもいかない。何故なら家には零がいるからだ。別に兄だと言って逃げることも出来るが、容姿が容姿だった。人類すべてが善なるものとは考えられない。この少年だって簡単に裏切る人間かもしれない。

 しかし、この乾いていない上着をそのまま彼に着せるのは可哀想だ。さすがにこの寒さの中こんなものを着たら風邪をひいてしまう。そもそも事の発端も彼の過失ではなく、第三者が原因なわけで。洗濯をしたのは七絆であるからにはこの現状を打開する義務がある。

 公園で火を起こすわけにもいかないので、仕方なく七絆はベンチにそれを干してみた。全く乾く気はしないがやらないよりかはましだろう。

「これ、乾くのか?」

「……乾くよ、たぶん。いつかは」

 七絆は手持ち無沙汰に自販機から同じくホットミルクティーを買った。熱すぎて持てなかったのでタオルに包んでベンチまで戻る。少年はベンチに干されたそれを指で突っついて濡れていることを確かめていた。

「しばらく様子、見てみよっか……」

 一時間待ってみてどうしようもなかったら、公園で焚火をしよう。“ゾンビ”騒ぎがあったからか公園に子どももいなければ、人もいない。きっとバレないだろうと、菩薩のような微笑みを浮かべた七絆だった。少年はそれを見て首を傾げた。

「おっ、もしかしてお姉さん、暫くここにいてくれるカンジ?」

「そりゃね。ここで、はい、後はお任せですよって責任感なさすぎでしょ」

「よっしゃー! いや、実はさ。俺さー、家に居にくいんだよねー。だからさ、ほら。お姉さん、話し相手になってよ」

「……なんか新手のナンパみたいだから帰ってもいい?」

「えぇぇぇぇ! マジで!? 俺、ぜんっぜんそんなつもりないんだけど!」

「私も子どもにナンパされるつもりはないんだよね」

「というか! その子どもって言うのやめろよな。俺、結構歳いってるんだぜ? こう見えても施設の中じゃ年上だし。……子どもの中では、だけど」

「へー、なんさいなのー?」

「ぜんっぜん興味ないのな、その棒読み加減。夢人ゆめと兄ちゃんみてぇ……。まぁ、いいや。俺はこう見えても16歳なんだぜ!」

「へー。……えっ、6歳?」

「6歳にしてはデカすぎだろ! じゅう! じゅうろくさい!」

 七絆はあまりの衝撃に目を開き、プルタブを引こうとしていた缶を地面に落とした。転がる缶をそのままに少年をまじまじと見つめる。少年は「な、なんだよ……」と言いながらも若干居心地が悪そうにしている。

 そんなことには目もくれない七絆は昨日の零との会話を思い出していた。

『そういえば零って歳はいくつだかわかるの?』

『僕? ……わかんない。でも、ナズナよりは年上だよ、ぜったい!』

『うん? その心は?』

『僕のが大きいから!』

『男女の差とかは考えてないんだね? 世の中、小柄な男性もいるんだよ?』

『……よくわかんない! でもナズナよりは年上だよ! だって、ナズナより大きいし!』

『謎の理論で圧し切ったな。ところで、彼女より背の低い彼氏に土下座する?』

 回想終了。結局零の年齢はわからずに終わり、ソファで寝落ちた零を運べるはずもなくそのままブランケットだけかけて自室へ戻った七絆だった。

 虚空を見つめていた七絆は視線を少年に戻す。どうやら零の身長年齢説がいつの間にか七絆にも根付いていたようだ。身長で決めつけるのは良くない、七絆はそう思った。地面に転がった缶を拾い、一息でプルタブを引いてから彼女は口を開く。

「16歳にしては身長低くない?」

「そんだけ間を置いてから言うことがそれかよ! おまっ、そういうことはもっとオブラートに包んで言えよ! そして俺はそんなに低くない! ……たぶん」

 時に正論は人を傷つけるのだということを七絆は学んだ。他の人にも言われた経験があるのか、少年は若干涙目だった。少年はぶつぶつと文句を言いながらミルクティーの缶を傾けている。

 そんな彼の様子を見ながら閖坂くんもこれくらい単純であれば面倒くさくないのになと七絆は思う。けれど、これに絡まれるのはそれはそれで面倒くさいなと思い直す七絆だった。

「16歳って言ったら、私の2個下…もしくは1個下か。ということは、高校生じゃん、きみ。それが男子高校生のノリなの? ちょっと……ねぇ?」

「やめろよ、その含みのある言い方! 身長のこととかはデリケートな問題なの!」

「なんだそれ、死の呪文かよ」

「いや、お前性格変わりすぎかよ! さっきまでお姉さんぶってたくせに!」

「普通に現在進行形でお姉さんなんだけど。もはや変えられない現実なんだけど」

「ンなこと言ったら、お前だってスカート穿いてなかったら男と間違えられる体型だろ!」

「あ゛ぁ? 誰の胸がないって? これかな、この目玉が腐ってるのかな?」

「あ、あだだだだだだだだだだだだだっ!」

 今も昔も変わらぬコンプレックスを突かれて七絆は少年にアイアンクローを決めていた。さすがにベンチで悶える少年が哀れになり、数分後に解放する。

「俺、頭変形してない?」

「頭の形も身長も変わってないよ」

「ぐっ……。自分は指摘されると暴力に訴える癖に……」

「暴力じゃない。教育的指導だよ」

「いや、それを人は暴力と、アイエ、ナンデモナイデス……。それにしてもお姉さん、手ぇ大きいのな。夢人兄ちゃんと同じくらいかな」

「男の人と比べないでもらえるかな?」

 ミルクティーを飲みながら、ちらりと少年に視線を向ける。帽子を目深に被っているせいかあまり顔は良く見えないが、どうも七絆の左手に夢中なようだった。やはり16歳にしては身長からだけでなく、なんとなくそれよりも幼い印象を受ける。

「さっき家に居づらいって言ってたけど、ちゃんと家には帰りなね。何歳であっても親御さんは心配するよ」

「……ちょっとくらい、別にどうってことないだろ。俺だって男なわけだし、もうそんなに過保護にされる歳でもないし。なのに、みんな過保護なんだよなー。どこ行くにしても外出許可必要だし」

「ふうん。きっときみのことがみんな大切なんだよ」

「心にもないことを言うなー、お前。じゃあさ、家族にわざわざどこどこ行きますーとか、何時に帰ってきますー、とか言うか? めんどくさくね?」

「いや、言ったことないな。というか、会った覚えもないし。そもそも私養子だから、実質他人みたいなものだから」

 寒さに赤くなった鼻のまま七絆はけろりとそう言った。少年はそんな彼女をぎょっとしたように見て、七絆は身の内話をすべきではなかったなと反省した。そんな七絆を置いて少年は突如立ち上がり、彼女に人差し指を突きつけ口を開く。

「お、お前なぁ! 血が繋がってようがなかろうが、それは家族だろっ! 他人なんかじゃなくて……。大切にしてもらってんだろっ!」

―――大切?

 ぴくりと米神が引き攣るのを感じた。七絆には彼の言う言葉が、意味がわからなかった。家族だとか、大切にされるだとか、七絆の知らない単語のオンパレードだ。学校での一件で落ち着いていた怒りがふつふつと湧いてくるのがわかる。いつもならこんなことにいちいち目くじら立てはしなかったのに、なんだか今日はおかしい。

 まるで自分が制御できない。不快なことを伝えるために泣く赤子のように、感情が抑えきれない。人間に成りたてじゃあるまいし、こんなのただの八つ当たりに違いない。

「―――ごめん」

「はっ?」

 持て余した怒りをどうしようかと七絆が黙っていると、少年は先ほどの勢いを失ってベンチに座った。一体なんなんだと七絆が目を白黒させていると、少年は項垂れたまま話し始めた。

「俺、お前の事情とかわかってないのに、勝手に自分の価値観を押し付けた。お前の気持ちとか、何にも考えてなかった。……前から息吹いぶきさんにも注意されてたのに、俺はいつもこうだ」

「え、え、え? あ、いや、その、キニシテナイヨ?」

「いや、お前がよくても俺が良くない! 俺が! 謝りたかったから謝ったんだ。お前が許しても許さなくても、だ」

「お、おおう……」

 あまりのテンションの落差に七絆はついていけていない。マンボウだったら死んでるぞと思った頃には、燻ぶっていた怒りは消えていた。消えたというよりか、それよりも戸惑いの方が勝ったのだ。

「……俺、施設みたいなとこで暮らしてんだ」

「はぁ……?」

 そして突如始まった自分語りに七絆は追いつけずに、中途半端な声を出した。ぎろりと上目遣いに睨みつけられたので、慌てて口を閉ざす。これは静かに聞いていた方がよさそうだ。

「別に施設に文句があるってわけじゃないんだ。普通にみんな良い奴らだし、飯も美味いし、雨風だってしのげる」

「じゃあ、何に文句があるの?」

「文句じゃねー! ……文句じゃねぇけど、なんつーの? こう、全然仕事任せてもらえねーんだよ。信頼されてねぇのかな、俺」

「? 普通に年齢じゃないの。何の仕事してるか知らないけど、任せられることと任せられないこと、あるでしょ」

「……そうなのかな。でも、俺はもっとみんなの役に立ちたいんだよ」

「任せられることしか任せられないよ。だって、みんな、きみのことが心配だから。小さいことからコツコツ、それだけで誰かの役に立ってると私は思うけどね」

 少年はまた小さくそうかな、とだけ呟く。帽子の影になってその表情までは見れないが、肩を落としたその姿からは後悔しているようだった。七絆は彼を横目に温くなったミルクティーを飲む。本当ならスーパーで買い物して、今頃は家に居たはずなのにどうしてこうなった。七絆が後悔してももう遅い。

「あー!! ダメだ、やっぱり心配になってきた!! あんずとか泣いてそうだし、むくもきっと俺のこと捜しまわってるだろうし……。なにより杏泣かしたら夢人兄ちゃんが絶対恐いし!!」

 唐突に大声で叫ばれて七絆は驚きでミルクティーを吹き出しそうになった。無理矢理飲み込んだら気道に入ったようで激しく噎せる。しかし、隣の少年は気にした素振りもなく勢いよく缶の中身を呷っている。

「げほっ、そんなに心配ならもう帰りなよ……。別に私、引き留めたりとかしないから」

 七絆が弱々しくそう言えば、少年は「めっちゃ声枯れてるぞ」と言った。主に少年のせいなのだが、そう言うのも馬鹿らしい。七絆は残り僅かになった缶をベンチに置くと、背もたれに引っかけておいた少年の上着を手に取った。

 やはり少年の上着は乾いていなかった。さすがにこれを返すのは七絆の良心も痛む。仕方ないと七絆はブレザーの下に着ていたセーターを脱ぐと少年に押し付ける。シャツが冷たい風を吸い込んだ。

「……なに、これ」

「明日、同じ時間にここに来れる?」

「え?」

「服、やっぱり乾いてないから、明日乾かして持ってくるよ。その時にまた話し相手になるから、今日のところは帰りなよ」

 なかなか受け取らない少年に業を煮やして、七絆は彼の頭からセーターを被せてやる。もたもたと腕を出そうと躍起になっていた少年を置いて、ブレザーを着直して立ち上がった。カバンを腕に引っかけると、少年はようやく襟ぐりから頭を出した。

「明日はちゃんと家の人に伝えてから出てこいよ、家出少年」

 にかっと笑うと七絆は缶をゴミ箱に突っ込んだ。そのまま少年に背を向けるとそのまままま家路につく。

「い、家出じゃねーよ、ばーか!」

 彼女は振り返らずにひらひらと手だけを振った。

 あとに残されたのは花のような柔軟剤の匂いに真っ赤になる少年だけだった。


休日って無為に過ごしてしまうよね……という感じ。いや、続きを書くべきなんだが。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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