ままごと
第十三話。
「あれ、零。なんか……布、巻いてる?」
それに気づいたのは唐突だった。少しでも髪を軽くできるようにと見様見真似で段でも作ろうとして、後ろ髪を持ち上げた時にそれがふと目に入った。
首に一周ぐるりと巻かれたよれた布。ところどころ赤茶けた染みがついており、しっとりと首元に張り付いていることから、もしかしたら風呂場の一悶着の時点でもあったのかもしれない。あの時は七絆も他に気を回している余裕がなかったから気づかなかったのだろう。
取ろうにも結び目は固結びになってしまって解けそうにない。零がどう感じているかは別にして、多くの人間にとって濡れた布は不快だろう。七絆は器用に張り付いたそれを持ち上げると、鋏の刃を通す。
「あっ、ナズナちょっとま―――」
零の言葉を最後まで聞くことなく、七絆はそれを持っていた鋏で切った。
はらりと切られた布は舞って、新聞紙の上に音を立てて落ちる。そして間を置かずに鋏が床に刺さった。
首をぐるりと一周。生々しく引き攣れた縫い目。まるで頭部と身体を無理矢理縫い付けたかのように、その傷跡はあった。
七絆はそこから視線を外せない。グロテスクなものが苦手で、いつもなら腹の底から這い寄ってくる吐き気は未だに遠かった。すぐに目を離すべきなのに、眼球に釘でも刺されているかのように動かない。
「ナズナ、だいじょうぶ? ゴメン、こういうの苦手だって言ってたから」
しかし、傷跡の方が七絆より先に動いた。七絆の手から白い髪が落ちて、真っ赤な瞳が白い髪の影から七絆を心配そうに見ていた。
赤い瞳が。赤い朱い紅い。紅い?
零の瞳に映る七絆もまっかだ。
「―――三分待って、ちょっと落ち着く」
そうとだけ言って、七絆はリビングを飛び出した。後ろから零の声が飛んでくるが、それすら振り切ってトイレに駆け込んだ。便器に首を突っ込みかけたが、吐き気はない。
ただ、首が痒くて仕方ない。突如身体が拒絶反応をみせたみたいに、ささくれだった麻縄でも首に巻き付けられたみたいに。
首を斬り取って掻き毟ってしまいたい。まるで別々の部位をくっつけて拒絶反応が出たようだ。
そう考えてがりりと爪を立てたところで、七絆の手は不意に止まった。
蝉の声。小川のせせらぎ。誰かが覗き込んで。黒い髪。あたたかい。血。
窓から漏れる光。散乱したガラス。割れて砕けた試験管。蔦の生えた木材。影。揺れて。
スライドのように脳裏で次々変わっていく景色。ぐらりと平衡感覚が失われて、備え付けの洗面台に強かに頭を打ちつける。がいんと響く衝撃に視線がぶれた。
壁にもたれるようにずるずると体勢が崩れて、天井を見上げたところで全ての不快感が糸を切ったようになくなった。
二度ほど目を瞬かせるが、もはや不調はない。倒れ込んだ時に床に頭をぶつけたのか、後頭部が少し痛む程度だ。起き上がってみても、先ほどの世界が回るような酩酊感は感じられなかった。むしろ視界はすっきりしたように感じるし、伸ばした手足もいつも以上に動かしやすい。神経がぴったりと繋がった気分だ。
「……なんだったんだろう、今の」
首の痒みもすっかりなくなった。もしかしたら、いつものグロテスク拒否反応が変わった形で出たのかもしれない。けれどそれでは先ほどの光景の説明がつかないなと、七絆はそんなことをぼんやりと思った。
「な、ナズナっ!? なんかすごい音したけど大丈夫!?」
ドアの向こうから聞こえる零の声に七絆は意識を戻した。
「だ、大丈夫! ちょっと滑って頭を打ったけど」
「えぇっ! それは大丈夫なの? ヒトの身体って脆いって聞いたことあるけど……」
「零たちと大して変わらないよ。ちょっと待っててね」
洗面台に手を突っ込んで水を出す。冷えた手を額に当てれば、頭がすっと冷えたみたいだ。七絆がドアを開ければ、捨てられた子犬のような顔をした零がしゃがみ込んでいた。視線をリビングへの廊下に流せば、白い髪束が落ちている。
掃除のことを考えて何か言いたくもなるが、「よかった、大丈夫そうだね」と歯を見せて笑う零を見ていると口を噤むしかない。そもそも今回悪いのは七絆だ。
「もう大丈夫だから。ほら、零。戻って髪切っちゃおう」
「うん! あっ、でも、ナズナが辛かったら僕、別にこのままでいいよ?」
「いや、それは私のプライドが許さないかな」
中途半端に切られたせいで不完全な毛玉になっている零の頭を見て、七絆はそう言い切った。そう?なんて零は疑問符を浮かべているが、一度引き受けた仕事はやりきるのが七絆の信条だ。それになまじ零の顔が整っているのもあって、こんな不格好なままではいけないと思う。強く思う七絆だった。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。……ぐっ、それなりにはちょっとアレだけど。気にさえしなければ大丈夫大丈夫」
椅子に座った零は心配そうに聞くが、七絆はけろりとしたものだ。いや、首回りの傷を見た時にはそれなりにダメージを受けたが、先ほどのように取り乱しはしなかった。実際切るのに集中してしまえばあまり気にもならない。
成長したなぁ、自分。七絆はしみじみと自身の成長を心より褒め称えていた。昨日ゾンビの画像を見て飛び出した人間とは思えない。なんだか大切なものを摩耗してそうな気もするが、そこには目を向けないこととした。
その後は特にアクシデントもなく、そう時間もかからないで零の髪を切り終えた。初めてにしてはなかなかのものではないだろうかと七絆は自画自賛する。鏡を見せた零が嬉しそうに笑っていたので、すべて良しとした。廊下の掃除はとりあえず置いておく。
「でもさっぱりしたね。もさもさの毛玉のままだと有事の際困るし」
「うん! すっごい嬉しい!」
「ぐっ……。零、もさもさで隠れてたけどイケメンだね……」
「? いけめん? いいことなの?」
「一生そのまま無垢なきみでいて……」
未だに手鏡を持ってにこにこ笑う零を置いて、七絆は彼の周囲の新聞紙を片付け始めた。何の歌かはわからないけれど、楽しそうに鼻歌を歌っている零を見て、七絆も自身の口の端が持ち上がるのを感じた。
成人男性のように立派な体躯をしているが、こうしてみると本当にただの子どもみたいだ。姉になったような気持ちでばたついている長い脚を避ける。
新聞紙を丸めて立ち上がれば、零の白い項が見えた。傷跡を隠せるほどの長さに切ったが、俯くとどうも見えてしまうようだ。生々しい傷も七絆の視線の先に姿を現していた。
継ぎ接ぎのようなのに、境目の肌の白さは変わらない。わざと首の周りだけを傷つけたかのように見える。どうやったらこんな傷がつくのだろうか、七絆はそこまで考えて頭を振る。考えたところで零が憶えていないのなら答え合わせはできない。考えるだけ無駄なことだった。
―――ほんとうに?
自分にそっくりな少女の声が問いかけてくる。一瞬だけ七絆の動きが止まったが、彼女は何事もなかったように動き出す。きっとそれは今じゃない、そう思ったから。
傷跡以外にも項が見えることで、零の隠したいであろう事実の証明も見てしまう。ニュースで流れていた識別番号。七絆がきちんと目にしたのはこの時が初めてだった。
数字とバーコード。数字は〇〇番。ゼロゼロ。零零。ぜろ。
ああ、とそこで七絆はひとり合点した。確かに彼はそう呼ばれていたのかもしれない。
ただ、識別番号として零番と。何の因果か、七絆が名付けた名前と同じ音を持つ数字で。
ひどく暗い海底の底に沈んでいくような感覚、それでいて心の奥底で仄暗く燃える炎。この感情はなんと呼べばいいのだろうか。するりと七絆の指が零の身体に打たれた識別番号をなぞる。
「きゃうっ!」
零が甲高い声を上げたのを聞いて、七絆はびっくりしたように瞳を丸くした。尾を踏まれた子犬が鳴いたような声だった。零は顔を赤らめて先ほど七絆がなぞった首筋を慌てて手で覆った。
「お、おおう?」
「あ、あの。くすぐったくてびっくりした……」
「お、おおう……」
零の解説によって何が起こったか理解した七絆だったが、口から出たのは何の伝達能力もない音だけだった。そんな七絆の様子に揶揄われていると思ったのか、零は耳までまっかにする。
「な、ナズナが急に触るからだからね! 僕だってあんな声出してないし! ふかこうりょく?ってやつだから!」
手鏡を強く握ってそう弁解する零。七絆はそんな彼の様子を見て悪戯心が湧いてきた。手をワキワキと動かしながら、ゆっくり零に近づいていく。零は引き攣った顔で椅子の上で後ずさりをした。
「ま、まって。ナズナ、話し合おう。話し合えばわか―――」
「問答無用!」
七絆が零に飛びかかって脇を擽れば、零は「あははははははは!」と耐え切れないように笑いだした。そのまま体勢を崩して椅子から転げ落ちる。七絆も巻き込まれて一緒に床にダイブすることになったが、それでも彼を擽り続ける。
「ちょ、ほんっと、あはっ、なず、はははははっ! やめ、やめてってば!」
「もしかしてと思ったけど、零くすぐりに弱いね?」
「よわい! よわいからっ、ははっ、い、いったん休ませて!」
零は言うが早いか、七絆の身体をひょいと持ち上げると床に転がした。思いの外力が強くてごろごろと転がったが、机の脚にぶつかって止まる。ぼさぼさになった髪を掻き上げれば、零はまだ笑っていた。それを見て、なんだか七絆も楽しくなってきて笑う。
底から顔を覗かせた暗い感情は消え失せていた。
ただこどものようにふたり、床を転げ回って、笑った。
夜の十一時のことである。
伏線をしっかり回収できるかよりも、どこに複線を張ったかを忘れる恐怖の方が勝ってます。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




