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リビングデッドにキスをして  作者: 神川 宙
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魂の寄る辺

第十二話。

「神はいるのです」

 女は言った。周囲にいる人々もそれに賛同するかのように、静かに女の言葉に聞き入っている。静謐なホールにその声は虚しく反響した。

「奇蹟はあるのです。それは彼の御方の手にあり、彼の御方の手より我らにお与えくださるのです。此処に集う者は同じ神を信仰しています。同じく恩恵を得る同志たちなのです」

 女の声だけが響いている。大衆は皆が皆、陶酔したような表情をしていた。まるで本当に神がいるのだと疑わないような。

「誇りなさい。我々は神の更なる奇蹟の拠り所となるのです。さぁ、人間を捨てる覚悟のできた者からこの扉をくぐりなさい。必ずやその身は貴き御方の礎となるでしょう」

 その言葉を最後に演説を聞いていた人間たちが半狂乱になったように開いた扉に向かっていく。地面に落ちた羽虫の死体に群がる蟻のようだ。人々が犇めきあっていたホールからどんどん人がいなくなる。その中で一人の少女は隅でしゃがみ込んだまま動かなかった。

 ひとり残された黒髪の少女は澄んだ瞳でそこにいた。



+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


 七絆は鋏を持っていた。目の前には白い毛玉。下には広がった新聞紙。

 やると決めたらやる。彼女は持っている鋏に力を入れた。じゃきんとやる気満々な音がする。


 事の発端は夕食時の七絆の軽率な発言であった。あの後、盛大に七絆の腹が鳴ったことにより、ちょっと早めの夕飯と相成ったのである。その際、食事を取ることはないと思っていた“ゾンビ”の青年も目を輝かせたので分けたところ、半分以上持っていかれたことは割愛する。なかなか醜い争いが起こった。これからは青年の分の食事も絶対に用意しようと固く誓った七絆だった。

 その時に七絆はなんとはなしに「髪の毛、邪魔じゃないですか?」と聞いたことが始まりだ。青年は食事の邪魔にならないようにありとあらゆるヘアゴムとピンで髪をまとめていたが、いつまでもそうはいかない。切るなりなんなりしないと、と思ってのことだった。

「え、じゃあ、ナズナ切って」


 そうして今、七絆は汗で滑る鋏を握り直しているのだった。

「ほ、本当に私に委ねるんだ……」

「うん、任せた! 外には出れないし、何よりも一人でその、びようしつ?に行ってもよくわからないから。ナズナに一緒に来てもらわないと」

「それは嫌だな、うん。成人男性の美容室に同伴する女子高生ってどうよ」

 その図は想像しただけで気まずい。主に空想の中の美容師さんと。

 とはいえ、七絆はありとあらゆる家事、裁縫はこなせるし、運動以外の如何なることも人並み以上にできる自信もあるが、人の髪を切るというのは初めての経験だった。というより、美容師以外の人間は他人の髪の毛を切ったことがあるのだろうか。いや、子供の頃とかは親が切ることもあるのだろうが、どう足掻いても子どもだ。どんな髪型になっても親の視線が少々宙に浮くくらいだろう。

 対して七絆が相対するのは成人男性。目の前で悲惨な状態になった頭で歩かれたら、七絆は羞恥で憤死する。だからこそ、慎重かつ丁寧に。緊張で手が震えているのは見なかったことにしよう。

「か、覚悟を決めるんだ、七絆……。大丈夫、私ならできる。そうさ、出来るに決まってる。要は植物の剪定と一緒だから……」

「あっ!」

「ぎぇあああ! な、なになになに!? 突如振り返るのやめてもらえますっ!? あわや大惨事だよ、怪我的な意味で!!」

 白い髪に鋏を差し入れた瞬間に青年が振り返ったことで、七絆は素っ頓狂な声を上げた。一瞬鋏が肉というか皮膚とぶつかったような気がする。慌てて髪を捲り上げてみるが特に怪我はなさそうだ。

「いきなり振り向かないでくださいよっ! めちゃくちゃ危険じゃないですか。いいですか、痛みはない、死にはしないとはいえ怪我は怪我。甘い考えは死に直結、よく覚えておくように!」

「いやー、そう言えばナズナの花言葉を昔誰かに教わった気がするんだよね。なんだっけ、うーんと……」

「え、それだけ? それだけのことで大惨事を起こしかけたの? そして私の話を聞いて?」

「あっ、思い出した! 『あなたに私の全てを捧げます』だった!」

 ぽんと手を打つと青年は七絆の言葉を全てスルーして、満足げな声を上げた。その様子に七絆はがくりと肩を落とすが、これで大人しくなるだろうと再び鋏を構える。

「僕の名前にはどういう意味があったんだろう」

 呟かれた言葉に七絆は構え直した鋏を降ろした。寂しそうな声だったから。

 はじめましての時、彼は名前を名乗らなかった。否、名乗れなかった。

 彼曰く、忘れてしまったらしい。久しく名前を呼ばれなかったから、だそうだ。それは七絆たちにはない感覚だった。だから、どれほどその事実が寂しいかわからない。

 そもそも本当に青年に名前がついていたのだろうか。七絆の頭にそんな疑問が浮かび上がる。特に彼の過去を知っているわけではない。自身に相手の情報を開示させるほどの信頼に足りうる人物ではないと彼女が一番知っている。なにせこんなことになりはしたが、会ったのは昨夜だ。

 だからこそ、そんな考えを抱いてしまうのだ。名前が元々無かったのではないかと。物を知らなさすぎるところや一般常識のなさから見ても、ひとりの生物として自由に、自立して生きていたとは思えない。

 それでも名前がなくて悲しいのは、寂しいのは本当の気持ちだろう。ただの個体識別名であったとしても、生まれた時から呼ばれるものである以上、その身体に刻まれたものとなる。

 命の名前がないというのは、からっぽの器を抱いているかのような空虚感だ。寄る辺もなく彷徨っていく。その想いは、七絆にもわかるような気がした。

 名前はあるけれど、そこに付随する思い出のない彼女にも。


「―――お兄さんの名前、つけましょうか」

「え?」

 七絆はこちらを振り返ろうとする頭を固定したまま、白い髪を櫛で梳く。痛みがひどく、ところどころ櫛が引っかかった。

「ほら、いつまでも『お兄さん』だなんて味気ないじゃないですか。それにこれから一緒に暮らすのに、他人行儀な感じがするし」

 しゃきん、しゃきん。二人だけの空間には鋏が鳴る音だけ。あとは止まらない七絆の口から転がり落ちる言葉。

「もちろん、お兄さんがそれでいいよって思えるんだったら、ですけれど。会って間もない私が言うのはおかしいかと思うけど、きみが寂しいのを見ているのは私も遣り切れない想いがする」

 どうしてかは知らないけど、とこぼした言葉とはらはらと切られた髪が床に敷かれた新聞紙に落ちていく。軽い音を立てて、身体から引き離されて、死んでいく。二度と同じようには戻らない。

「……名前っていうのはすごく大切だと思う。でも、それって呼んでくれる人がいて初めて大切になって、色付くもので。例え、ただの記号だったとしても誰かが大切にしてくれれば、それは偽物でも本物になるよ。その人の魂になるんだ」

 七絆は青年の前に回って、瞳を覆い隠す前髪にそっと指で触れた。腰を屈めると、ゆっくりと捲り上げる。見開かれた赤い瞳が徐々に影から現れる。


「だから、」

「きみさえよければ、私はきみの魂の寄る辺となりたい」


 七絆と青年の視線が合う。呆ける青年を前に、彼女は柔らかく微笑んだ。

 彼女には確かに嘉翅七絆という名前がある。クラスメイトに呼ばれているし、一応義母らにも呼ばれることはある。

 だが、それはただの識別名でしかなかった。人類という中で『嘉翅七絆』と呼ばれる個体がいる、程度の思いだった。あの夏の暑い日、初めてそう呼ばれて、何もなかった少女についたもの。

 他人との区別がつく点では役に立ったが、みんながその名前を呼びながら過去の『嘉翅七絆』を見ている。その名前はあくまであの夏に終わった少女のものであり、あの夏に始まった少女の楔にはなりえなかった。

 けれど、青年に『ナズナ』と呼ばれて、心が動き出したような気がした。たどたどしい発音で、まっすぐと七絆を見つめて。『嘉翅七絆』でも、誰でもない、ただの『ナズナ』だけを見ていた。

 だから、七絆も青年の楔になってあげたい。心を動かせるような、そんな存在になりたい。そう思うこの心は恋なのかもしれない。


「―――僕も、ナズナにつけてもらいたいな」


 見開かれていた赤い瞳はふわりと目尻を緩めて、温かな色へと輝いていく。穏やかな春の陽気のように愛らしく笑うものだから、今度は七絆が呆けたように青年を見た。取り落とした鋏が床に落ちるが、そんなものに構っている暇はない。

 次の瞬間、頭の中に突風が吹いたような感覚がした。それは七絆を押しつぶすものではなく、彼女を花びらのように舞い上がらせるものだった。とくん、と心臓が脈打つのが聞こえる。

―――ああ、多分、私、浮かれてる。

 思考がクリアになって、身体と心のずれが少しずつ噛み合っていく。手が震えて、それが歓喜からくるものだとわかった。

 青年は何も知らない。常識とよばれるものすら知らない。

 名前も憶えていない。大切な記憶もない。朧げな思い出しか持っていない。

 真っ白で、純粋で、無垢で。

 ナズナが初めて、唯一になれる存在。


「―――ぜろ

 気がついた時には唇から声が零れ落ちていた。目の前の赤い瞳がきょとりと子どものように七絆を見た。

「ぜろ?」

 問い返されて、はっと我に返った。青年が、ナズナだけの人がこちらを見ている。あどけない表情のまま、何も知らないように。

「……うん。きみの名前、零がいいなって。何もないのなら、ここから始めていきたいって想いを籠めて。あと、私の中で変わらない基準になってほしいから。……どうかな?」

 七絆はそこでようやく不安を感じて、彼を窺い見た。反応がどう返ってくるかが恐い。

「うん! 僕、すごく好きだよ。昔から呼ばれてたみたいにしっくりくるし、何よりもナズナがつけてくれたってことが嬉しい!」

 七絆の不安と裏腹に彼――零は満面の笑みを見せた。瞳を柘榴石のように輝かせて、七絆の落ちていた手を大きな両手で包んだ。

「おに、……ぜ、零が喜んでくれてよかった」

 にこにこと笑う零に七絆はほっと胸を撫で下ろす。同時にちょっとした羞恥も感じ始めていた。今までのやり取りを脳内で反芻した七絆は零の前に崩れ落ちた。なんだかぺらぺらと気障ったらしいことを言っていなかったかと一人悶えている。それも本心だからこそ、気恥ずかしいのである。

「え、どうしたの?」

「いや、なんというか……気にしないで。穴がなくても埋まりたい感じなのです」

「? 掘る?」

「掘らない……」

 床を指差す零に七絆は床をゆっくり転がりながら、そう返した。彼女は壁にぶつかったところで、座ったままの零の元に黙ったまま戻ってきた。耳まで真赤だが、鋏を拾い上げると何事もなかったように零の髪を切り始める。

「ナズナ、顔まっかだよ?」

「まっかじゃないです……。いや、まっかだけど、きにしないの……」

「? ふぅん」

 前髪に鋏を入れていけば、隠れていた赤い瞳が露わになっていく。目を閉じない零と視線が合って、七絆はふいっと視線を背ける。が、このままでは一向に進まないと意を決して切っていく。

 その間も零は楽しそうに部屋にある物について、七絆に尋ねていった。忙しなく動こうとする彼を押さえながら、四苦八苦して進めていく。

 ナズナ、あれはなに。ナズナ、これは。ナズナ、ナズナ―――

 七絆が意識を持って以来、こんなに名前を呼ばれたことがあっただろうか。

「……名前がないっていうのは、嫌だよね。自己が曖昧になる感じがして、世界に存在が固定されてないみたいな。本当にこの意識を持っている“私”は私なのかわからなくなる」

 ぽつりと七絆がそう漏らすと、零はそうかも、と小さく応えた。

「でも、僕にはもうナズナからもらった名前があるから。大丈夫だよ」

 そうやってきみが笑うから。

 七絆は何でもしてあげたくなってしまうのだ。


余計な部分をカットしてると、どこが余計なのかすらわからなくなってくる……。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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