起床、その後
第十話。特に注意書きはなしです。
ゆるゆると意識が浮上していく。七絆が目を開くと、リビングの天井が見えた。どうやらあのままソファで眠ってしまったようだ。
ゆっくりと上体を起こすと、無理な体勢で寝ていたせいか寝違えた首が痛む。うんと大きく伸びをすれば、その拍子に七絆の体にかかっていたブランケットがはらりと落ちた。寝る前にはソファの背もたれに引っかけてあったものだ。不思議に思って摘み上げるが、その途中でなぜ己にブランケットが掛けられていたかが判明した。
七絆の脚の上にちょこんと乗った白い頭。その主はぴくりとも動かずに、彼女の脚に突っ伏している。すわ死んでいるのではと思ったが、その背はゆっくりと上下していた。どうやら眠っているようだ。
時計を確認すれば午後3時を指し示そうとしていた。もう一度だけ伸びをして、七絆は自身の覚醒を促す。そしてふとあることを思い出して、再度時計を確認した。ちょうどぴったり午後3時になっている。
その事実に内心慌てながらも、ゆっくりと自身の脚を青年の頭の下から抜き取る。彼はソファに突っ伏すことになったが、「うー」と小さく呻いただけで起きそうになかった。
忍び足のまま自室に戻り、端末のカレンダーを開けば、そこには赤い文字で『バイト』と書かれていた。血の気が引くのを感じる。しかし、その手は電話帳からバイト先の電話番号を選んでいた。自失しながらもするべきことはすべきだ。
三度目のコールで『はい、夜日羽研究所です』と男性の声が応答した。
「あ、あの! 嘉翅です!」
『おー、七絆ちゃん。どうしたの?』
声の主は所長代理の雪落薫だった。七絆の母である葵の右腕的存在であり、今でも彼女のことを尊敬し、その娘である七絆にもよくしてくれる人だ。ちなみに研究所では『葵さんに惚れていたのでは』説がずっと流れていたりする。本人は肯定も否定もしていない。閑話休題。
「きょ、今日私バイトすっぽかしちゃってすみません!」
『え? 今日休みになったよ? ほら、外出禁止令が出たでしょ。メール入れといたんだけど……』
「えっ、本当ですか」
パソコンを起動してみれば、確かに薫からその旨のメールが送られてきていた。七絆がほっと胸を撫で下ろしたのが伝わったのか、向こうでは薫が朗らかに笑っている。
『もしかして七絆ちゃん、こんな時間まで寝てたりしたのかな?』
「うっ……。昨日は文化祭の打ち上げで夜更かししちゃって。以後気をつけます……」
『いつも真面目に来てくれてるんだから、そんなに気にしないでくれ。七絆ちゃんの真面目さは葵さん譲りだからね。むしろ慌ててこっちに来ようとしなくてよかったよ。ゾンビが出たらしいからね、この町で』
「私のところにも来ましたよ、『タカ』」
『そりゃそうだろう。さっきニュース見て驚いたよ。七絆ちゃんの家の近くで死体が発見されたって』
「……そ、そうだったんですか」
七絆はもちろんそんなことは知っている。まさにそのニュースの事件に巻き込まれた、否、行き遭ったのだから。それにしても、あの犯人が“ゾンビ”だったとは思いもしなかった。傍から見たら普通に怯えている男の人だったのだ。……潜在型だったのかもしれない。
『多分、『タカ』が処分するまでは外出禁止令も解けないと思うから。くれぐれも外には出ないように。七絆ちゃんはよくわからないところで行動力を発揮するからね』
「さ、さすがの私でもこんな中外に出るほど呑気じゃないですよ……」
『ははは、そうかい。でも、七絆ちゃん、本当に突拍子もないことするからさ。“ゾンビ”を観察してみたいーとか言い出しそうで』
「い、いやいやいや、私がそんなこと言うわけじゃないですか……。だって、人間じゃないですか」
七絆がそう答えると、薫は電話の向こうで何事か呟いた。しかし、声が小さすぎて七絆にはなんと言ったか聞き取れなかった。
「あの、」
『まぁ、どちらにせよ、研究心で外に出ないようにね。ちなみに僕は外出禁止令が出た時に研究所にいたので、このままここで待機です』
「いつものことじゃないですか。研究熱心なのはいいことですが、ちゃんと家に帰ってくださいね」
『ははは、耳が痛いなぁ。善処はするさ。それじゃあ、また何かあったらこっちに電話してくれ』
「あっ、はい。失礼します」
七絆は電話を切ってから、端末のメールアプリにざっと目を通す。凍雲と桧兎美以外からはきてなさそうだ。二人に自身の無事の連絡をしてから端末の電源を落とす。どうせまた電話をかけまくってくるに違いない。今の彼女にまともに二人の相手をするだけの体力がなかった。
充電器に差し込んで端末を放置し、リビングに戻ろうかと考えたが、その前に風呂に入ってしまおうと思いついた。先ほどはソファで大爆睡してしまったが、七絆の髪の毛は砂や泥などでごわごわだ。この格好でこれ以上家をうろつきたくはない。
そうと決まればシャワーを浴びに行こう。未だに頭の奥に眠気が蟠っている。眠気覚ましの為にも、早々にさっぱりしてしまおうと七絆は思った。
七絆は足取り軽く自室から着替えを引っ張り出すと風呂場へ向かう。早々に何もかも脱ぎ捨てて、頭からシャワーを浴びた。暖かい湯を浴びると汚れとともに疲れも流れていくような感じがする。指が引っかかる髪も数度洗い直せばようやくするすると流れるようになった。鏡の中の自分が泥まみれ血塗れから綺麗になったのを見ると、爽快感とちょっとした達成感も同時に感じる。
「あれ、やっぱり赤くなってる」
あのフードの男に襲われた時にぶつけたのだろうか。首元の髪を上げれば、首を一周ぐるり、まるで首でも絞められたかのように赤くなっている。痣にはなっていないようだが、指を這わせてみれば色の違いは明確にわかるほどだ。
恐らくぶつけたわけではないのだろう。よくよく見れば掻き毟ろうとしたかのような跡もある。寝苦しさから自身でやったことかもしれないと、七絆は早々に考えることをやめた。
「あ゛~、いきかえるぅ~」
なぜか丁寧に抜かれていた湯を張り直して、七絆は肩まで浸かると思わず声が漏れてしまう。ゆるゆると体勢が崩れて、結局顎先まで浸かることとなった。ゆらゆらと湯に髪が揺蕩う。
水に浸かるのは好きだ。目を閉じていれば、自分も同じ液体になってしまったように穏やかな気持ちになれる。ぷかぷか浮いてれば、何も考えなくてもいい。羊水に浸った赤子のように。
このまま何もしないままでいたい。あの時の出来事や、これからのことも全部、全部消えてなくなってしまえばいいのに。存外あの事件は七絆に浅くはない傷を残していったらしい。ぼうっとしている時に頭を過ぎるのはそのことばかりだ。
七絆はふるりと瞼を持ち上げると、手から零れる湯を見る。そうして、我ながら感傷的すぎると笑うのだった。
ようやく二桁の大台に乗りましたー。ぜんっぜん物語的には進んでないという。短く切りすぎか……?
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




