白色の疾走
プロローグ。
夢を見る。あの日の夢だ。
夏のあの日。蝉の声が響く、とても暑い中学二年生の夏休み。
私が誰かに何処かの山に置き去りにされた、あの真夏日。助けを求めて手を伸ばしたような気もするし、汗と涙の味も覚えている気がする。
あの日を境に私は混ざり合ったかのように曖昧になった。記憶も朧気で、どうやってあの山を下りたのか、あそこに何があったのかも覚えていない。
そこで経験したことも、過去も、現在も、未来も。
何も記憶していないし、見てもいない。
それでも、私は大切なナニカに出会ったような気がする。頭と身体がぴたりと当てはまるナニカ。
陽炎の立ち昇る夏の日。私がもう一度生まれた日。
白い誰かが私に微笑んで、真っ赤な愛が私を食べた日。
私はそうして愛になった。
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「愛とは何だと思う?」
そのヒトはそう問いかけた。唐突な問いかけに私は黙り込む。そもそも声というものがあっただろうか。よくわからない。
それはヒトであるように思えたけれど、よく見てみればそれは形も持たない靄だった。そもそも私に瞳などあっただろうか。よくわからない。
音が鳴りそうなほどの静寂が私の耳を打つ。だが、そもそも私に耳などあっただろうか。よくわからない。
「……いつまでこのくだりをするんだい。いいかい、きみは既に肉体を持っていて、これから人間として生きていくんだ」
痺れを切らしたのかヒトはため息交じりにそう言った。このヒトが言うのならそうなのだろう。私は拙い動きでこくりと首を縦に振った。それは満足げに微笑んだ。
「此処から先はきみひとりだ。ボクはもう戻れない」
「はい」
「そこで先の質問に答えて欲しい。突拍子もないとはわかっているさ。でも、まだ“何者でもない”きみに聞いてみたい」
「貴方の言うことはよくわかりません。不可解です」
「そうかい」
「“愛”とは何かを理解していません。意味を知りません。どのような色をしているのかもわかりません」
「うんうん、そうだね。生まれたばかりだからね」
「ですが、その言葉を聞くとなんだか、胸部の周辺が暖かくなり、心臓の鼓動が早くなります。これは……とても不思議な気分です」
「だから、」
「だから、私はきっと……これが知りたいのです」
ほろりと唇から零れた言葉に、そのヒトが息を呑む音がした。
そのヒトはとても満足そうに頷いた。
「きみはそのままでいいと思うよ」
「はぁ」
なんとも曖昧な相槌が漏れた。けれども、ヒトはそれを気に入ったのかにこにこと微笑んでいる、ような気がした。
それを見ていると、段々と頭の奥底が引っ張られるような感覚を覚える。徐々に目の前が暗くなっていく。狭まる視界の先、居住まいを正したそのヒトは『私』に手を伸ばしてきた。赤色を捉えた瞬間、勢いよく世界が反転する。
「それでは、“アイ”に幸あれ!」
―――遠くで蝉の鳴き声が聞こえた。
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走る。
走る走る。ただ走る。前だけを目指して、ただ一心に。
走らなければいけない気がしたから、走っていた。早くここから逃げなければ、どうしてかそう思った。ここに居ると、殺されてしまうから。
死んでしまいたいといつも思っていたくせに。生きていたくないと願っていたくせに。そのくせに生きていたいと駄々をこねる自身に嫌気がした。
久しぶりにこんなに走ったからなのか、足が縺れて前に身体が投げ出されそうだ。それでも、ここで止まるわけにはいかない。
彼女に会いに行くまでは、死ねないのだ。
後ろから怒号とたくさんの足音が聞こえてくる。それを掻き消すかのような自分の喘鳴が耳障りだった。視界を遮る長い白色も煩わしい。
争いごとは嫌いだ。先生も悲しそうな顔をしていたから、僕は誰かと争うのはやめようと心に誓ったのだ。けれど、例え僕一人がそう思ったとしても、他の人達は違う。みんながそう思ってくれない限り、争いは止まらない。だから、僕はひたすら逃げるのだ。
誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方がいい。もう取り返しのない罪を犯している、この身にとっては。
左頬を銃弾が掠めていく。生命が零れ落ちる熱さと、たらりと血液が伝う感覚がする。こんなもの、僕にとっては些細な怪我だ。むしろ怪我にすら入らないだろう。
おそらく彼らも殺さずに僕を捕らえたいのだろう。必要以上に危害は加えてこないようだった。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。傷が少しづつ増えていくことに変わりはないのだから。
いくら自分の身体が不死と呼ばれるに値するそれだとしても、傷を負わないわけではない。現にこうして血を垂れ流しながら逃げ回っているのだ。さらに言えば、積もりに積もった怪我は返しきれない負債のように命を脅かす。
死なないわけではなく、ただ死にづらい。
そして、どうしようもなくこの世界では生きづらい。
右肩に衝撃を受けて、バランスを崩しかける。そこを見れば、真っ赤な液体勢いよく噴き出している。痛みは感じない。
けれども、確実に命が消費されている感覚がそこには在った。このままでは自分の手札が失われていく一方だ。
自身の命が尽きるのが先か、彼らに掴まるのが先か。どちらにしても救われない結末だ。思わず、自嘲の笑みが広がる。
それでも。
それでも、やらなければいけないことがある。何もかもなくして、何もかも覚えていないけれど、それだけは確かに覚えていた。漠然と、漫然と心の中にあるのだ。
名前も顔も知らない彼女に会いに行くまで。そして―――
―――彼女をこの手で殺すまで。
ぼくは死ねないのだ。
とりあえず終わりまで書ききれていないのですが、走り始めることにしました。昔書いた文章に無駄が多すぎて校正しながらになるので、亀更新になるかと思いますが、のんびり待っていただければ。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。