海生石の唄
アーシェは一日かけて、王子に潜りの基本をたたき込んだ。
潜り手を志す娘たちがやる訓練を課したのだが、王子は体力的にも技術的にもしっかりとついてきて驚く。
さらに驚いたのは、王子が水の中でも自在に動くすべを持っていたことだった。
「以前、湖の精霊と親しくなってな。水の加護をもらったのだ。私が水の中では死ぬことがないようにと」
「ふつうは精霊にあっても、話すらさせてもらえないものだけど」
「それがなあ。あまりにも人がこないようになって寂しかったらしい。何せ、湖の水があふれかけるほど泣き暮らしていたようだからな。気のいい人だったよ」
アーシェは、魔王を倒した勇者には及ばずとも、この放浪王子には数々の武勇伝があることを今更実感する。
あまり気は進まなかったものの、王子の技量は及第点に達したのでその努力に免じて、その翌朝、日の出前に待ち合わせをし、船へ乗り込んだ。
寝坊すればいいのに、と若干思っていたがそうはならず、王子は船に乗っている間中上機嫌で一緒になった潜り手の女たちの話に応じていた。
「アーシェその貴族さんはおまえの客だ。面倒はおまえが見るんだぞ」
船長の言葉にアーシェは不承不承うなずく。
クラーケンに会いに行けないのは残念だが、それでも海に潜れるのは嬉しい
だいたいの潜水地点にたどり着くやいなや、潜り手たちが起動詩を唱えて海に飛び込んでいく。
その姿を船員から借りた潜水服を身につけた王子がびっくりしたように眺めているのが少々おかしかった。
「心の準備は良い?」
「あ、ああ。いつでも」
アーシェは胸の守り石を握って、起動詩を唄う。
「”我、陸に上がりし一族の末裔 しかし今一度海に抱かれることを望むもの也”」
ほの温かい光に包まれたアーシェは、紺青色の水面に吸い込まれるように飛び込み、海の中から王子を促した。
若干躊躇しつつもばしゃりと、派手に飛び込んできた王子の腰に手を回し素早く、ひもを結ぶ。
「な、なんだ?」
「このあたりは海流が複雑だから、初心者のあなたが飲み込まれたら二度と帰ってこられないわ。万が一にもはぐれないように、こうしておくの。未熟な潜り手を補助する手なのよ」
「ということは、私が流されれば君も巻き添えなのか。肝に命じる」
そうして、自分の腰にもひもを結びつけたアーシェは真剣にうなずく王子の片手を握った。
「じゃあ、練習を思い出して。いち、にの、さんで水面を蹴って沈み込む。潜ったら、私の手を離さない。うまく足を使えなかったら、体から力を抜いているだけで良いから」
「わかった」
「じゃあ、いち、にの、さん!!」
王子とアーシェはほぼ同時に水面を蹴り飛ばし、一気に海そこへ加速した。
いつもの倍以上負担がかかっているから多少移動速度が落ちているが、アーシェであれば問題なく潜れる。
淡い光の粒子を引き連れて、アーシェは体をくねらせ底へ向かう。
途中、小魚の群や、巨大な海洋生物とすれ違ったりして、初めて潜る人にってはなかなかおもしろい光景だと思うのだが、なぜか背後の王子は怖いほど静かだ。
もしや水の圧に負けたか、と思い振り返ろうとしたら、王子は笑っていた。
その若草色の瞳がひどく優しくて、アーシェは妙に落ち着かない気分になった。
「……初めて出会ったとき、私は君を泉の妖精だと思ったが、違ったな。海の女神だった」
「は?」
「君は海の中でこそ輝くのだな。今まで一番楽しそうだ」
最後の言葉に、王子の案内にあまり乗り気ではなかった事を見透かされたようだった。
アーシェはちょっと恥ずかしくなって目をそらしたが、王子はすべてわかっていると言わんばかりにほほえむ。
「その……」
「かまわない。私が多少強引だったことは自覚している。だがどうしてももう一度君に会いたかったのだ。事実、正解だった」
手を握る力がわずかに強くなった気がして、アーシェは不意に、異性と手をつなぐのが久し振りなことを思い出した。
それに、その言葉はどういう意味なのか。
今更な事に勝手に頬が熱くなる。なんで、何でこんなに胸が騒ぐ?
「そういえばさっき、君たちが唄っていたあの詩が海に潜るための魔法か」
アーシェは王子が話柄を変えてくれたことに無性にほっとした。
「……まあそうよ、海生石の魔法を使うための呪文で、あれのおかげで私たちは海の中を自在に泳げるようになるの。この街の住民にしか使えないのよ」
「その歌の意味をみな知っているのか」
「いいえ、たぶん古代の言葉ということくらいしかわかっていないと思うわ」
アーシェは海底都市に残っていた資料やクラーケンから、だいたいの意味を知っていたが言わなくても良いことだろう。
「君は、魔法がごく限られたものにしか使えないことを知っているか」
「まあ、そうらしいわね。お城の賢者様にしか使えないのでしょ?」
父につれられて城下町へ行くと、運が良ければ、城付きの魔法使いが上げる魔法の花火を見られるのだ。
「そんな魔法を、君たちは平然と使う。一体なぜ使えるのか、賢者この街のことを知れば、とても調べたがるだろうな」
「そんなのどうでも良いわ。私たちは花火を上げられない代わりに、海を魚のように自在に泳ぐことができる。それだけだもの」
「君は全く欲がないな。ひとつでも魔法が使えれば、城に仕えることだって夢ではないのだよ」
「それで、どうなるというの? でもお城に行ってもこの力は全然生かせないでしょう?」
王子が目を丸くするのに、アーシェは言った。
「私たちには、誰よりも深くもぐり、誰よりも早く泳ぐことができるって誇りがあるわ。そのおかげで海生石がとれるの。この海だからこそ、私たちは活躍できる。生かせる。それを手放すのってつまらないわ」
「そう言うものか」
「そういうものよ」
アーシェが言って、下を指させば、海底ではすでに潜り手たちが作業を始めていた。
彼女たちは腕輪だったり指輪だったり、耳飾りだったり、それぞれの持つ海生石に手をかけ、ささやかに唄う。
「”さあ、眠り子よ、目覚めなさい。母はここだ。声を上げて、呼ぶと良い。母にそなたが分かるように”」
彼女たちの歌は、初めはばらばらだったが不思議とまとまり、昇華され、心地よく水に染み渡っていく。
自分は加われないけど、手助けをしようと、アーシェもその唄に加わった。
高く、低く、どこまでも響くように。眠れる海生石が目覚めるように語りかける。
すると、海底全体から、淡く輝く筋がたちのぼりはじめる。
潜り手たちの持つそれと共鳴した海生石が放つ光だった。
「よかった。少しはあるみたい」
儚く散る燐光にアーシェはほっとしながら、呆然とする王子の腕を引いて潜り手たちの作業の邪魔にならない程度に近づく。
唄が終われば、光は消えるが、潜り手たちはほかの仲間と唄いだしのタイミングを微妙にずらしているから、とぎれることはない。
弱々しく揺らめくようなそれを目印に、潜り手たちは唄いながら、そっと砂をかき分けて岩の隙間をのぞきこんでは、少しずつ拾っていった。
海の中で唄う。海生石の力があるとはいえ、それは人の自然の摂理にはないものだ。
だから、こうしている間にも顔をゆがめた潜り手が、海面を目指して帰って行く姿もある。
でも彼女たちの表情は輝いている。自分のこの身で生きているという誇りがある。
入れ替わり立ち替わり、潜り手達が唄う声は、海流のさざめきによって彩られ、そこに青とも緑ともつかぬきらめきが飾る。
本来の海生石採りはこういうものだ。
アーシェが特殊なのである。
唄い終えたアーシェが、一息つくと、その光景に見入っていた王子がぽつりと言った。
「君がなぜ、この仕事を愛しているか、わかったような気がする。これは過酷だが、とても美しい」
その横顔の真摯さに、アーシェはじんわりと胸に広がる温もりを感じた。
街の外の人なのに認めてくれた。それが、無性に嬉しい。
「なあ、私もさがしてみて良いか?」
「どうぞ。見つかるかどうかは、あなた次第だけど」
だからたちまちうずうずとしだす王子に、アーシェは素っ気なく返しつつも、つき合ったのだった。
結局王子は一つも見つけられず、時間切れで船に戻ってきた。
「何であれほど明確な目印があるのに見つからないんだ!?」
「だって、あのフレーズは肉眼で見えないほど細かくなった粒子まで反応するから。光っているところを探しても見つからない事のほうが多いのよ」
そこは潜り手達の勘と、海生石の導きに頼るしかない、といえば、濡れて張り付く淡い色の髪を乱暴にかき上げた王子は、決意の表情である。
「こうなったら、自分でとれるようになるまでやるぞ! また明日も頼む!」
「はあっ!?」
その言葉通り、王子は翌日もそのまた翌日も潜り手達に混じって海に潜って海生石を探した。
反対してくれるかと思った船長は完全に面白がり、潜り手の女達は見目麗しい王子がムキになって探し回るのをからかいつつも代わる代わる面倒をみていた。
「あった、あったぞ!! とうとう見つけた!!」
4日目にしてようやく砂粒ほどの海生石を見つけた王子が海の中で全力で喜べば、潜り手達はあきれつつも、拍手をしてやっていた。
「まあ、がんばったほうじゃない? 根性は認めるさ」
「確かに、あなた方にはかなわないな。大変さが身にしみた。令嬢達を飾る海生石がこれほどの労力を払われて採られるものだとは」
秀麗な王子に真摯にほめられた潜り手達は、海の中でもわかるほど照れた顔をしていた。
「まあでも、あたい達じゃそれくらいが精一杯だよ」
「アーシェは親指サイズをごろごろ採ってくるもんねえ」
「アレは、あたし達じゃ真似できないよ」
「そうなのか?」
急に注目されたアーシェは、思わずどきりとして、砂から海生石の粒を摘んだまま固まった。
アーシェははじめの一日以外はいつも通り海生石探しに加わっていたのだが、さすがに王子をおいて別行動をとるわけにもいかず、潜り手達に混じっていたのだ。
「ええと、まあ、ここじゃないところで採ってるんだけど」
「私も連れてってくれまいか!!」
そう言うと思ったから言わなかったのだ。
何せあそこはクラーケンとの逢瀬の場、誰にも知らせたくないし、万が一にでもクラーケンの姿を見られるのがまずいことぐらいアーシェは百も承知だ。
だからアーシェは顔を怒らせて断ろうとしたのだが、その前にトキが笑って否定した。
「アーシェがいくのはあたしたちだって運が良くなきゃついていけない深みだよ。あんたには無理さね」
「なんていったって海底都市の近くだし。命がいくつあっても足りやしない」
「あそこはアーシェだけが行ける、特別な場所なんだよ」
女達が口々に言うのに、王子の雰囲気が少し変わった気がして、アーシェは少し意外に思った。
どんなにぞんざいに言われても、飄々といなしていたのに、今さら癇に障ることがあったのだろうか。
「……海底都市、とは?」
「ああ、大昔に栄えたらしい古代の都市があるんだよ。この海底を東へずっとたどっていくとあるらしいんだけど、あたしも見たのは一度かそこらだ。あそこは複雑に海流が絡み合っているし、なんていったって、あのクラーケンが守ってるからね。下手に近づくべからず、なんだよ」
「そのようなものが」
「まあ、街の古い住人なら誰だって知ってる話だよ。要は近づかなければ安全さ」
からからと笑って皆に船へ戻るよう、指示をし始めたトキに従い、王子を連れて海上を目指すアーシェだったが。
王子がひどく真剣な顔をして考え込んでいる姿に、妙に胸騒ぎがしたのだった。