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僕の好きが、彼女の嫌いで、彼女の好きが、僕の嫌いで


 今僕に必要な事は冷静になる事だと思う。

 自分の気持を整理しないと。どうしてこんなに腸が煮えくり返っているのか。誰に何をされたから、こんな気持に陥っているのか。

 そうだ、この少女が、僕が少女の好ましく思う部分を貶めたからだ。

「違う」

 少女の体がびくっと跳ねた。僕が思った以上に低い声を出してしまったせいだ。

「ち、違うって、何?」

「あ、ああ、その、ご、ごめん。気が合うって…その、僕は…」

 僕は、この子が並べた自分の嫌いな部分について、同じく嫌いだと思うと解釈された事を否定しようとしただけだ。だけど、あまりにも配慮が足りなかった。

 この空間には二人しかいない。この空間はおろか、半径何百メートルという範囲にこの二人しかいないだろう。男と女で、しかも女の方は足に怪我をしている。その状態で恐怖を感じさせてしまった僕の罪は深い。

「ぜ、絶対何もしないから、あ、安心してください」

「え、あ、はい…」

 頭が混乱してきた。おかしな吐き気まで覚える。ああ、トイレにも行きたい。訳がわからない。

「え、ええと、その、僕の好きなところを否定しないで欲しくて、さっき言ってたところ、僕が全部気になるというか、ずっと見てたいくらい好きで興味あって…だから、その、そこまで否定しないで欲しいというか…」

 何なんだよ僕は。突然苛立ったり冷静になったり。

「…ご、ごめんなさい。少し怖くなってしまって」

「あ、ご、ごめん」

 ベンチの端へと距離を取る。

「は、離れなくて、いいから…そんなつもりじゃなくて…あの、そのあなたの言う事にちょっと驚いただけで…」

 違う。本当は目の前の男を怒らせてしまって襲われようものなら、誰も助けてくれないという恐怖を感じたんだ。

「あの、ごめん、怖がらせて本当にごめん!」

 目を合わせられない。

「な、なら、許すから、こっちを向いて、もっと近くに来て…お願い。お願いだから…」

 言われたとおりに少しだけ近づいてみる。

「えと、どれくらい…?」

「出来るだけ、近く」

 じりじりと距離を詰めてみる。先程置いた靴下が、二人の膝の間に挟まるくらい距離が詰まった。

「こ、このくらい?」

「そう…それくらい」

 震えるなよ。震えないでくれよ僕の体。

「あの、怖がってしまってごめんなさい…でも、拒絶されるのはもっと嫌で…」

 沈黙が流れる。下を向いてしまった少女に、何もしてやれない無力感が僕を支配する。

「…何度も何度も、気になるとか、好きとか、そんな事を言われたら…」

 僕の冴えない顔を映す水色の瞳から、大粒の涙が鼻を伝って、少女が手に持ったワイシャツに落ちる。

「ごめんなさい…ワイシャツ汚して…」

「そ、そんなのどうでもいいから」

 手の震えが止まらない。でも、隣の少女の方がもっと震えている。口元まで僅かに震えているくらいだ。

「ごめんなさい…ちょっと…」

 僕のブレザーの袖がぐいっと握られた。

 その瞬間、分かってしまった。この子は今、僕の期待に沿う言葉を絞り出そうとしている。

 でも、袖を握る手を通して伝わってくる相手の気持ちが、本音とは思えない。

 今、彼女は僕から見放されたら、ここに取り残されてしまう。つまり選択肢がない状態だ。

「あ、あの、安心して。その、無理に僕の気持ちに沿わなくても…ちゃんと、その、家まではちゃんと送るから」

 隣から伝わってくる震えが小さくなった。そうか。やはり、そんな懸念だったんだ。

 こんなに相手を追い詰めた状況で、好きだという言葉を並べることの卑怯さを、僕は全く理解していなかった。

 謝ろうと口を開いたが、何も言えなくなってしまった。

「ふ、ふふ…」

 笑う程安心しちゃったのか。こんなに近くにいるけど、この子の気持ちまでは届かないのか。

「…私の事、まだ分からないの?」

 分からない。分かりたくないよ。こういう時こそ、心をうまく冷やさないと。冷やしてちゃんと、返事をしないと。

「ごめん…分からない…こんな状態で、本当の事、言えないだろうから、月曜日にでも、現実に引き戻してもらえると…」

 何度目かの沈黙が走る。

「あ、あ、そうだ、タオルもう一度濡らして…」

「動かないで」

 有無を言わさないような、鋭い声だった。

「もしかして私が、そんな一時の精神的に追い詰められた状況だから、血迷ってあなたにとっていい答えを返すと思った?そんな馬鹿に見えるの?」

 突然声を荒らげられても、どう応えて良いんだろう。

「あなたは私に男が女にしてみたい色々な事をしたいと思うような好きなの?そうじゃないなら私の勘違いだったから訂正してよ。どうなの?」

「あ、合ってるよ。それで合ってるよ」

 そんな確認をされたら死ぬほど恥ずかしい。 僕は本来こんな事を言わない人畜無害な奴という扱いだったのは分かっているんだけど。

「なら…」

 憎々しげという表現がぴったりな声だった。

「なら、私にした仕打ちを思い出しなさいよ。一週間よ。丸々一週間。ちょうど先週の金曜日よ。昼休みに必ず声をかけてくるはずなのに、最初は隣の席からで、席替えしてからも毎日毎日、学年上がっても同じクラスだったことを喜び合って…それからも、今日はどんな話をしようって考えてたのに突然止めないでよ!」

「ご、ごめん…」

 白目が真っ赤になった青い瞳が僕を睨んでから、壁の方を向いてしまった。

「そんな謝罪じゃ足りない!この一週間で、どれ程私に話しかけてくる奇妙な奴を楽しみにしてたか、思い知ったわよ。何度も話しかけようと思っても、出来なくて。それが今日偶然、こんな所で会って、突然そんな事を伝えられて頭の中滅茶苦茶よ!もし今日ここで、ここで会えなかったら…私はずっと惨めな毎日を過ごさないといけなかったの!?」

 まさか僕よりもネガティブだとは。必要もないもしもの事を考えるなんて。

「た、多分、何日かしたら、ちゃんと話しかけてるよ」

 多分なんて付けてしまったけど、間違いなくだ。

「その時に私の気持ちが冷めてたらどうするつもりだったのよ!」

「え?冷めちゃうの…?」

「冷めない!」

 どっちなんだよ。惨めな日々を過ごすといいつつ、気持ちが冷めるといいつつ、結局冷めないのか。そんな風に思ってくれていたのか。

 心臓におかしな鈍痛が走った。今、僕への気持ちが冷めないって言ってくれたんだ。

「あと、あと、ボタン付けなんてこの百倍のスピードで出来るから!時間的猶予を与えてあげた事に気付いているの?これだけ時間があったらボタンだけでシャツ作ってのけるわ!」

「ご、ごめん、何度も作業の邪魔して…」

 声のトーンは変わらないけど、呼吸が荒い。呼吸を乱す程僕への不満があるとは。でも、吐き出される度に届かないと思っていた相手が近づいてくる気がする。

「それから…えと、それから!」

「そ、そんな搾り出さなくても…」

 また沈黙が辺りを支配した。

「ん?何?」

 少女が何か、つぶやいた気がした。

 そこからの数秒間、数十秒間か、どのくらいの時間があったのかは分からないが、ただ、とても静かな瞬間が訪れた。

 どうしてこのタイミングなのかなんて分からない。

 多分、僕は彼女の小さな声が聞き取りづらくて、無意識に頭を近づけてしまったんだと思う。

 鼻と鼻が少しだけ擦れて、お互いの引き結んだ口が当たった。

「…やり直し」

 顔が離れてから、なんて言葉をかけようとか混乱していた頭がすぐに冷静になった。

「え?」

「やり直し!今の無し!こんなの頬と頬が当たったのと変わらないもの!」

 確かに、お互い口を引き結び過ぎていて、唇が当たったとは言い難かった。

「だったら、普通にしててよ」

 少し息を整えてから、小さな両肩を掴んで、体をこちらへと向ける。もう一度顔を近付けて、やっと唇といえる部分が触れ合った。

 僕の肩にも腕が回されていくので、同じように、小さな体に両腕を回す。

 もっと、恋愛マンガのようにドキドキするものだと思っていたけど、ただ、体の芯がじんわり熱くなるような感覚を覚えるだけだった。お互いの力が抜けていく気がした。ゆっくり、少女の体重が僕の体にかかって来る。

「いたっ!」

「だ、大丈夫?」

 体を離して、少女の怪我した足を確認する。

「ううう…うううう…!ぶつけた!」

「い、痛む?どういう風に?」

 足にかかったままのタオルを外して確認する。

「いっつつ…えと、とにかくそろそろここを出てもいいかしら…その…」

「あ、そうだね、そろそろ動かないと寒くなってきたね」

 うん。なんとなく彼女が言葉の裏に隠している事が分かる。

「そ、そうね。ちょっとこれ、中途半端だけど、着てもらえる?」

 ワイシャツを受け取って急いで着る。

 急がないと。隣の少女が照れとかではなく、別の理由で落ち着かなくなってしまった事が分かってしまった。僕もそうだし。だけど、女子にそんな事を言わせるわけにはいかない。

「あ、あのさ、学校の方に戻ったら農協あったよね?ちょっとのっぴきならない事情があるから行こうよ」

「と、トイレに行きたいならそう言えばいいのに」

 もじもじしながら言うなよもう。せっかく言葉を濁したのに。

 外の自転車を急いで立てて、サドルの高さを適当に合わせ、荷台にちょうどよく巻いてあったゴム製の荷紐で、僕の鞄を固定する。

「ちょっとごめん」

 自転車を体で支えつつ、少女を抱きかかえて乗せる。かなり体重は軽い方なんだろうけど、僕にとってはなかなかの重労働だった。力を込めた瞬間、漏らすかと思った。

「あ、あの、少し飛ばすから、しっかり捕まってて」

 初めて乗る電動補助自転車の感触に戸惑いながら、ペダルを踏む。

 腰に回った腕は嬉しいけど、これ、あんまり楽しくないな。当たり前の事なんだけど、相手の顔が見えないのが少し残念だ。



 真っ暗な農道を、二人乗りの自転車が走り抜ける。

 今年の秋は温かくて良かった。これで路面凍結でもしていたら危なかった。

 憧れの二人乗りは、のっぴきならない生理現象によって、その喜びは半減どころか、ほぼ感じる事すら出来やしないが。

「ねえ、聞こえる?」

 少し大きい声で話しかけられた。風切音に負けそうだったが、彼女の声はかろうじて聞こえた。

「何?」

「さっき、とてもまずいことに気づいたの」

「と、トイレ行きたい以外?あいた!」

 わりと強めに頭を叩かれた。これは失言だったなぁ。

「…足を怪我してて、歩くことすら叶わない穀潰しがいるのだけれど?どうしてくれる?」

「ど、どうしたのいきなり?」

 また穀潰しなんてそうそう使わない日本語を。

 そうだ、歩けもしないのに日曜日まで一人で居なければならないのか。

 先程、これでは済まないお願いをするかもしれないと言っていたのはこの事か。

「え、ええと、友達を呼ぶとか…僕もその、会いに行くし」

「そう、こんな気分にさせて他人に任すの?」

 ばれているんだろうな。僕が紳士を気取ろうとしているって。

「ねぇ、こんなにイタイ女がそんな事で納得すると思ってる?」

 僕の大事な人をそんなふうに言わないで欲しいと、当の本人に言いたくなるなんておかしな気分だ。

「と、とにかく、どういう事?」

「だから、後日必ずお返しをするから、日曜日の夜まで家畜と思って飼育してくれないかしら?」

 なんて表現だよ。多分親は女の子の家に外泊なんて許可してくれないから、我が家に迎えるしかないよなぁ。妹に頼めば身の回りの世話はなんとかなるし。

「と、とりあえず僕の家でいいよね?後で家に寄るから着替えを…」

 腰に回っている腕に力が込められる。

「そのまま家に泊まっても良いのに。送り狼というのかしら?」

「む、無茶言わないでよ!」

 そんなことは出来ない。ご両親に印象最悪になったらおしまいだ。

「ヘタレ!」

 もう、なんでいきなり積極的になれるんだか。僕は

「ヘタレでもなんでもいいよ。あ、トイレ済ませたら病院に行くからね」

「え!嫌だ!なんでよ!」

 病院嫌いなのかな。でもそんな事は言ってられない。僕がどれだけ心配しているか分かっていないんだな。

「そんなに腫れてるのに行かない方がおかしいって!とにかく整形外科の場所教えてよ」

「それだけ言っておいて知らないってどういうことよ!絶対教えない!検索しようとしたら携帯叩き割ってやる!」

 それからずっと押し問答が続いたが、農協に辿り着いてトイレを借りるやいなや、残業中の世話焼きな事務員のおば様によって、僕達は整形外科へと車で連行され、彼女の母親も呼び出されてしまった。

 彼女は最後まで家族への連絡を頑なに拒否していたのだが、おばさんはさも当然といった具合に電話をかけ始め、彼女の母とあっさり連絡がついた。

 残念ながらこの地区唯一の欧米人一家を知らない人間などいるはずも無かった。

 不満の塊のような少女の顔は、本人には悪いけど、可愛くてたまらなかった。

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