一章 8
市役所って、何時行っても混んでいるんじゃないかな。
平日、しかも午前中にもかかわらず、人がいるわいるわ。今の姿をあまり見られたくないと言うのに。女になって恥ずかしさも増したとでもいうのか?
受付の女の人が挨拶をしたのでこちらも返す。特に表情に変わった点がなかったので、変に見えてはいないとはわかった。
一先ず安心。
春先、雨降る中を自転車で突き抜け市役所を目指してた時、最後の最後でスリップ転倒手の平大出血した私に絆創膏を恵んでくれたっけ。
まさか、二度目の出会いで性別が変わっちゃいました、なんてぶっちゃけたらどんなに驚くだろうか。
いやいや、言わないけよ。
細やかな、私の現実への抵抗。
「324番でお待ちの方、10番にお越しください」
待つこと数分。思いの外早く番が廻ってきた。10番へと向かう中、緊張感が私を襲った。大きいものではなく、小さな振動で伝わる感覚は、とても不快なものだった。
10番の窓口で、少し肥えたおばさんから申請した書類を受け取る。350円は高い気もするが致し方ない。
安い缶コーヒーなら5つは買えたのに…。
「どうだった?」
「地雷な缶コーヒーを5つ試し買いしたほうが有意義な金銭の流通になった」
「その可笑しな単語の使用はおいといて、見せてみ」
さようなら私の飲むはずだった未知なる缶コーヒー。君たちの犠牲は無駄に終わるようだ。
申請した書類には、間違いなく「橘瑞穂」という名が今私の住む住所と共に記入されていた。
実は、申請した時に本人確認の為に保険証を提出したのだがそれにもきっかり「橘瑞穂」と記入されていたので半分はわかりきっていた。
もしかしたらエラーとか起きるかな、と思っていたけど微塵も起きなかった。
国家機関の発行する証明書にも「橘瑞穂」は認可されていた。
つまり、私が、この私が橘瑞穂であることに間違いはないということだろうか?
証明書を隅から隅まで見つめていた視線が下へと落ち、正志は書類を返した。
受け取っても破り捨てたくもなるが、これでも缶コーヒーの形見である。
鞄に書類をしまうと、二人で市役所を後にした。相談室がちらっと見えたが、さすがに相談なんてできない。
帰り際に受付の人にお辞儀した。少し頬を赤くしながら返されたが、その理由に気がついたのは随分後の話となる。
「よし、親に電話しよう」
「仕事中じゃないのか?」
「息子、いまは娘か。我が子からの電話に出ない親じゃないから大丈夫。きっと」
「きっとかよ。確かに、手っ取り早く確認できるが、だがしかし」
「だがしかし?」
携帯の着信履歴の上から三番目にあった母親の携帯番号をあとは押すだけの状態で、止まる。
「なにを聞く?」
「…名前?」
「…一種のオレオレ詐欺だよな、それ」
「…知ってるかい?私は物事に何が起こるか予想するよりも、何か起こってから考える方がすきなのだ!」
予想するのが面倒なだけなんだけどね。母の番号を押し、携帯電話を耳に向ける。年柄もなく最近流行りの着メロが耳に流れること数秒。
「はいは〜い。勇流?こんな朝からどうしたの?まぁママとしては朝から勇流の声を聴けるんだから万々歳なんだけどね〜」
「あ、もしもし母さん?」
私が言葉を発した途端、何かが割れる音が電話の向こうから聞こえた。これは、まずい。
電話越しからでも伝わる、負のオーラ。いや怖い。めっちゃ怖い。蛇に睨まれたように、ただただ母の反応を待った。