第8話 炎上対策と英国式ティータイム
午後3時。
私の安息の地であるマンションの最上階には、芳醇なバターと小麦の焼ける香りが漂っていた。
「……腹が割れたな。成功だ」
私はオーブンの扉を開け、満足げに頷いた。
天板に並んでいるのは、黄金色に焼き上がった『スコーン』だ。
外はサクッと、中はフワッと。側面には美しい亀裂が入っている。
これに合わせるのは、イギリス・コーンウォール地方特産の『クロテッドクリーム』と、自家製のイチゴジャム。
そして紅茶は、フォートナム&メイソンの『ロイヤルブレンド』を、少し濃いめに淹れてミルクティーにする。
完璧な英国式アフタヌーンティー。
優雅な午後のひとときを過ごす準備は整った。
ピンポーン。
……またか。
なぜ私のティータイムは、こうも毎回妨害されるのか。
モニターを見ると、そこにはこの世の終わりみたいな顔をした岡本純が立っていた。
「Qちゃん! 開けて! 死ぬ! 私もう死ぬ!」
「……死ぬ前に用件を言え。あと、手土産がないなら帰れ」
「手土産どころじゃないのよ! これ見て!」
純がカメラに押し付けたのは、一通の封筒だった。
そこには赤字で、不吉な単語が印字されていた。
『内容証明郵便』
「……チッ。面倒くさい」
私は舌打ちをして、ロックを解除した。
優雅な午後は、一瞬にして消え去った。
「損害賠償請求……金一千万円!?」
リビングのソファで、中野月子が素っ頓狂な声を上げた。
彼女は私の焼いたスコーンを勝手に二つも頬張りながら、書類を覗き込んでいる。
「そうなのよ! 一千万よ! 私の全財産合わせても足りないわよ!」
純が頭を抱えて喚く。
私は紅茶を啜りながら、書類に目を通した。
差出人は『大日本開発株式会社』。代理人弁護士の名もある。
内容はこうだ。
先日のS区地下調整池での配信において、同社が管理する施設に無断で侵入し、さらに「犯罪の温床」であるかのようなデマを流布して、同社の社会的信用を毀損した。
よって、風評被害による損害賠償として一千万円を請求する。支払わない場合は法的措置をとる。
「……なるほど。あの地下道の管理会社か」
「デマじゃないわよ! 実際に犯罪者がいたじゃない!」
「だが、警察発表では『海外の窃盗団』としか報じられていない。管理会社との癒着までは公になっていないんだ」
私は冷静に分析する。
あの地下道は、確かに犯罪に使われていた。
だが、管理会社であるこの『大日本開発』が、意図的に見逃していたのか、あるいは単に管理が杜撰だっただけなのか、証拠はない。
相手はそこを突いてきた。「ウチは被害者なのに、お前らのせいで悪評が立った」と逆ギレしてきたわけだ。
「これ、払わなきゃダメなんですか店長?」
月子が口元のクリームを舐めながら聞く。
「法的には微妙なラインだ。不法侵入は事実だし、配信で社名が映り込んだのも事実。向こうが優秀な弁護士を立ててきたら、負ける可能性は高い」
「そんなぁ……! じゃあ私、一千万の借金背負うの!? チャンネルもBANされちゃう!」
純が泣き崩れる。
これはまずいな。ハッキングや情報戦なら私の独壇場だが、表の法律と、こうした泥臭い民事トラブルは専門外だ。
警察の深美を呼んでも、これは「民事不介入」で動けないだろう。
私は手元のiPadを操作し、一人の人物にメッセージを送った。
『ヘルプ。至急。報酬は言い値でいい』
送信先は、以前から存在だけは知っていた、ある「最強の弁護士」だ。
すぐに返信が来る。
『あら、珍しいわね。でも今、丸の内で別のクライアントと打ち合わせ中よ。終わってから向かうから、1時間はかかるわ』
1時間か。まあ、内容証明が届いたばかりだ。相手が法的措置をとるにしても、数日の猶予はあるはず――。
その時、私のスマホが鳴った。非通知設定だ。
嫌な予感がする。
『……もしもし? 岡本純さんの代理人の方かな?』
スピーカーにすると、粘着質な男の声が響いた。
相手側の弁護士だろう。
『書類は届いたね? 我々としても、若い配信者の未来を潰したくはないんだ。どうだろう、今からそちらへ伺って、示談の話し合いをしないか?』
「……今から? こちらも弁護士を選定中ですが」
『ハハッ、そんな悠長なことを言っている場合じゃないよ。実はね、私はもう君のマンションの下にいるんだ』
早すぎる。最初から詰めに来ている。
これは「示談」という名の恐喝だ。部屋に入れてしまえば、恫喝されて不利な念書を書かされるのがオチだ。
「Qちゃんどうしよう! ヤクザみたいな人が来てる!」
純がパニックになる。
月子が木刀を構える。
「私が玄関で迎撃します! 『お取り込み中失礼します!』って言って!」
「やめろ、傷害罪で逮捕されるぞ」
私は月子を制止し、深いため息をついた。
セシリアが来るまで1時間。相手は真下。
……やるしかないか。
「……いいだろう。上がってこい」
私はインターホン越しに告げた。
そして、セシリアに追加のメッセージを送った。
『敵が来た。できるだけ急いでくれ。それまで僕が時間を稼ぐ』
『OK。私のタイムチャージは高いわよ?』
数分後。
リビングには、異様な緊張感が漂っていた。
ソファには、ダブルのスーツを着た強面の男が二人。
弁護士と、その秘書だ。
「いやあ、いい部屋だねえ。こんな所に住んでるなら、一千万くらいポンと払えるんじゃないか?」
弁護士の男――鮫島と名乗った――は、下卑た笑みを浮かべて部屋を見回した。
「……紅茶でも淹れましょうか。茶葉は何がいいですか? ダージリン? アッサム? それとも……」
「いらん! 水でいい!」
鮫島は私の「おもてなし」を一蹴した。
「単刀直入に言おう。今すぐ示談書にサインしろ。そうすれば五百万にまけてやる。断れば、徹底的に裁判で争う。お嬢ちゃんの過去の素行も全部洗い出して、社会的に抹殺してやるぞ」
「そ、そんな……」
純が震える。
典型的な脅し文句だが、今の純には効果てきめんだ。
「……随分と強引なやり方だな。法的根拠が薄弱なんじゃないか?」
私が口を挟むと、鮫島は私を睨みつけた。
「部外者は黙ってろ。これは警告だ。我々のバックには、もっと怖い人たちがいるんだよ」
私は時計をチラリと見た。
まだ30分しか経っていない。
私はのらりくらりと反論を続けた。
「しかし、御社の主張する風評被害の算定根拠が不明瞭だ。地下道の利用実態について、御社はどの程度把握していたのか……」
「屁理屈を言うな!」
バンッ! と鮫島がテーブルを叩いた。
「いい加減にしろ! さっさとサインさせるんだよ!」
痺れを切らした鮫島が、ボールペンを純に突きつける。
純が泣きながらペンを握らされそうになった。
まずい。これ以上は引き伸ばせないか。
その時だった。
ピンポーン。
救いの鐘が鳴った。
「あ? 誰だ?」
鮫島が不審げな顔をする。
私はニヤリと笑った。
「……僕の『代理人』だ。開けてくる」
私は玄関へ向かい、ドアを開けた。
そこには、少し息を弾ませた女性が立っていた。
「遅くなってごめんなさいね。……首都高が事故渋滞で、最後は車を捨てて走ってきたわ」
セシリア・クロス。
イギリス出身の国際弁護士であり、都内に事務所を構える経営者だ。
絹糸のようなブロンドのロングヘアに、宝石のように透き通ったブルーの瞳。
仕立ての良いオーダーメイドのネイビーのスーツを着こなし、手には高級ブランドのブリーフケースを持っている。
その佇まいは、まさに「氷の女帝」。深美とはまた違う、洗練された貴族的なオーラを放っていた。
「……入ってくれ。状況は最悪だ」
「あら、あなたの『最悪』なんて、私にとっては準備運動にもならないわ」
セシリアは優雅に微笑み、リビングへと足を踏み入れた。
「なんだ、この女は?」
鮫島が顔をしかめる。
セシリアは彼を一瞥もしないまま、空いているソファに腰掛け、足を組んだ。その所作一つ一つが、計算されたように美しい。
「初めまして。岡本純氏の弁護人を務めます、セシリア・クロスです」
彼女は名刺をテーブルに滑らせた。
『クロス法律事務所 代表弁護士』の文字を見た瞬間、鮫島の顔色がさっと変わった。
「クロス……? あの、外資系の……?」
「私の名前をご存知なら話が早いわ。……さて、鮫島先生。あなたが私のクライアントに対して行っているのは、『損害賠償請求』ではなく、『恐喝未遂』および『強要罪』に該当する行為とお見受けしますが?」
セシリアの声は、鈴を転がすように美しく、そして絶対零度のように冷たかった。
「な、何を馬鹿な! 我々は正当な権利を……」
「正当? ……ふふっ」
セシリアは嘲笑した。
「先ほど、私はここに来る車の中で、Qさんから送られた貴社の登記簿と過去の判例、そして裏帳簿の一部を拝見しました。……渋滞のおかげで、じっくりと精査する時間がありましたわ」
彼女はブリーフケースからタブレットを取り出し、鮫島に見せた。
「大日本開発株式会社。表向きは不動産管理会社ですが、実態は指定暴力団のフロント企業。過去に3回、同様の手口で配信者やジャーナリストを訴え、示談金をせしめていますね? ……しかも、その金は会社の口座ではなく、あなた個人の隠し口座を経由して、上納されている」
「なっ……!?」
鮫島が狼狽える。
金子がハッキングで抜いたデータを、到着までの1時間の間にセシリアに送っておいたのだ。彼女の読むスピードと理解力は異常だ。
「さらに、今回の『地下道』の件。……貴社の管理責任を問う準備はできています。不法侵入を訴えるなら、こちらは『施設管理権の濫用』および『犯罪組織への場所提供』で反訴します。……警察の原田刑事とも連携済みですわ」
ハッタリだ。深美にはまだ連絡していない。
だが、鮫島にはそれが真実として刺さる。
「くっ……! こ、こんなデタラメ……!」
「デタラメかどうか、法廷で争いましょうか? ……ただし、私のタイムチャージは1時間1000ドルですが、そちらの資金力でいつまで耐えられます?」
セシリアは慈悲のない笑顔を向けた。
勝負ありだ。
法的な知識量、情報の質、そして何より「格」が違う。
「……撤収だ!」
鮫島は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「覚えてろよ! このままじゃ済まさんぞ!」
「ええ、覚えておきますわ。……次は刑務所の面会室でお会いしましょう」
捨て台詞を吐いて逃げ出す男たち。
玄関のドアが閉まった瞬間、部屋に静寂が戻った。
「……す、すげぇ……」
月子がポカンと口を開けていた。
純は腰が抜けたようにソファにへたり込んでいる。
「た、助かった……」
「ふぅ。……日本の弁護士は品がないわね。紅茶が飲みたくなるわ」
セシリアはふわりと髪をかき上げ、私の方を向いた。
「金子さん。これで貸し一つよ」
「……分かっている。報酬は?」
「そうね……。この件の顧問料として、あなたのスパチャ収益の20%。それと……」
セシリアはテーブルの上のスコーンを指差した。
「そのスコーン、美味しそうね。いただいても?」
「……どうぞ」
15分後。
私たちは改めて、優雅なティータイムを囲んでいた。
純と月子も、緊張が解けてスコーンにがっついている。
「んーっ! このクリーム美味しい! 何これ!」
「クロテッドクリームだ。ジャムと一緒にたっぷり乗せるのが流儀だ」
私が説明すると、セシリアが上品にスコーンを割り、口に運んだ。
「……悪くないわ。粉の配合も、焼き加減も合格点。ロンドンのホテルでも通用するレベルね」
「それはどうも。お褒めに預かり光栄だ」
「ただし」
セシリアはイタズラっぽく微笑んだ。
「紅茶の蒸らし時間が30秒足りないわ。……次は私が淹れるわね」
彼女はそう言って、私にウィンクをした。
やれやれ。手厳しい批評家だ。
「ねえセシリアさん! 私たちのチームの顧問になってくれるって本当ですか!?」
純が目を輝かせて聞く。
セシリアは紅茶を一口飲み、頷いた。
「ええ。あなたたちの活動、リスクマネジメントが杜撰すぎるわ。放っておけばいつか本当に逮捕されるか、消されるわよ。……それに」
彼女は部屋のメンバーを見回した。
引きこもりの探偵。
崖っぷちの配信者。
大食いのカメラマン。
「退屈しなそうだから。ビジネスとしても、エンタメとしてもね」
こうして、チームに最強の盾が加わった。
英国の氷の女帝、セシリア・クロス。
彼女の加入により、私たちは「法律」という武器を手に入れ、社会的な信用(?)を得ることになった。
……まあ、私のスパチャ収益はさらに減ることになったが。
「店長! スコーンおかわり!」
「……月子、お前は少し遠慮しろ」
私の安息の地は、今日も賑やかだ。
スパイスと紅茶の香りが混ざり合うこの部屋から、次の事件への幕が上がる。




