第6話 警察のデータベースはフリー素材じゃない
午前10時。
私の安息の地であるマンションの最上階には、芳醇な赤ワインとフォンドヴォーの香りが満ちていた。
「……素晴らしい」
私は寸胴鍋の中を覗き込み、恍惚の溜息を漏らした。
今日のメインディッシュは『牛頬肉の赤ワイン煮込み・ブルゴーニュ風』だ。
丸二日マリネした肉を、弱火でじっくりと煮込むこと4時間。箸で触れるだけで繊維が解けるほどの柔らかさに仕上がっているはずだ。
付け合わせのマッシュポテトも準備万端。
あとは仕上げのバターを落とし、優雅なランチタイムを迎えるだけ――だった。
ピンポーン。
無粋な電子音が、私の至福の時間を切り裂いた。
宅配便ではない。彼らは指定時間以外には来ない。
エレナでもない。彼女ならインターホンを連打しながら奇声を上げているはずだ。
「……誰だ」
私はモニターを覗き込んだ。
そこに映っていたのは、黒のパンツスーツに身を包み、眉間に深いシワを刻んだ「氷の美女」だった。
「……原田深美。なぜここが分かった」
私は舌打ちをして、インターホンの通話ボタンを押した。
「何の用だ、刑事さん。僕に逮捕状でも出たか?」
『……捜査協力の要請だ。開けろ、金子徹』
彼女の声は硬い。だが、その瞳には焦燥の色が見えた。
私が「帰れ」と言おうとした瞬間、リビングのソファでポテトチップスを貪っていた居候が反応した。
「あ、深美さんじゃないですか! お疲れ様です!」
中野月子が、弾丸のような速さで玄関へダッシュし、ロックを解除してしまった。
「おい月子! 勝手に開けるな!」
「え? でも深美さん、手土産持ってますよ? あの紙袋、駅前の高級シュークリームです!」
「……お前は食い物で警察に魂を売るのか」
ガチャリ。
重厚なドアが開き、原田深美が土足で上がってきた。
彼女は私の顔を見るなり、深々と頭を下げたわけではなく、鋭い眼光で睨みつけてきた。
「……いい匂いだな。昼食前か?」
「ああ。君が帰れば最高のランチになる予定だったんだが」
「そうか。なら話は手短に済ませる。……この少女を探してほしい」
彼女は一枚の写真をテーブルに叩きつけた。
そこには、制服姿の地味な女子高生が写っていた。
「……なるほど。家出人捜索願が出ているが、警察は『事件性なし』として動いてくれない、と」
私はシュークリームを頬張りながら、深美の話を聞いていた。
少女の名は、佐藤ミナミ。
3日前から行方不明になっているが、書き置きがあったことと、家庭環境のトラブルから、警察は単なる家出として処理している。
「だが、彼女の友人の証言が引っかかる。『ミナミは最近、ネットで知り合った年上の彼氏に会いに行くと言っていた』そうだ」
深美はブラックコーヒーを飲みながら語る。
「よくある話だ。パパ活か、あるいはSNSで釣られたか」
「問題はその『彼氏』だ。友人が見せてもらったという相手のアカウントは、既に削除されている。だが、その友人が言うには『やたらと金回りが良く、投資家を名乗っていた』らしい」
「……投資詐欺、あるいは未成年者誘拐の常習犯か」
「私の勘が告げているんだ。これはただの家出じゃない。彼女は今、危険な状況にある。……だが、上層部は『証拠がない』の一点張りで捜査本部を立てようとしない」
深美は悔しそうに拳を握りしめた。
真面目な刑事だ。組織の論理よりも、自分の正義感を優先させて、こんな怪しい引きこもりの元に来るほどには。
今日は非番を使って、タクシーでここまで来たらしい。公用車を使えば足がつくからだ。
「そこで僕の出番というわけか。警察が動けないなら、民間の探偵を使えばいい」
「……不本意だがな。お前たちのあの『数万人の目』が必要だ。彼女が最後に目撃されたのは渋谷だが、そこから先の足取りが完全に途絶えている」
私はニヤリと笑った。
「いいだろう。依頼料はシュークリーム1箱で手を打ってやる。ただし、条件がある」
「……なんだ」
「今回の捜査、僕の指示に全面的に従ってもらう。そして――警察のデータベースにある『ある情報』を提供してもらう」
「なっ……! 内部情報を漏らせと言うのか!?」
深美が色めき立つ。
私は人差し指を振った。
「勘違いするな。僕が欲しいのは、君たちが持っているが活用しきれていない『断片』だ。パズルのピースさえあれば、あとは僕とリスナーが完成させてやる」
午後1時。
岡本純が到着し、緊急配信が始まった。
タイトルは『【警察コラボ】現役美形刑事が凸ってきたから、一緒に行方不明JKを探すことになった』。
釣りタイトルに見えるが、事実は小説より奇なり、だ。
「えー、みんな聞こえてる? 今日はなんと、あの『廃病院の氷の女刑事』こと、深美さんがゲストです!」
『うおおおおおおお』
『ガチ警察キター!』
『また逮捕しに来たのか?』
『美しすぎる』
『Qちゃんついに自首?』
画面端に座らされた深美は、カメラに向けられた視線に居心地が悪そうにしている。
「……警視庁の原田だ。今回はあくまで、個人の資格で協力を依頼した。誤解のないように」
『堅苦しいw』
『だがそこがいい』
Qのアバターが画面に割り込む。
『さて、特定班。仕事の時間だ。ターゲットは佐藤ミナミ、17歳。3日前の15時、渋谷駅ハチ公前で目撃されたのを最後に消えた』
私は深美から提供された写真を画面に映し出した。
『警察の捜査では、彼女のスマホは電源が切られており、GPS追跡は不能。だが、彼女は裏垢を持っていた可能性がある』
「裏垢?」
純が首を傾げる。
『今どきのJKがSNSをやっていないわけがない。本垢は3日前から更新が止まっているが、別名義のアカウントがあるはずだ。……原田刑事、例のブツを』
深美は渋々、手帳を取り出した。
「……彼女の部屋から押収したタブレットの解析データだ。ブラウザの履歴に、ある投稿サイトへのアクセス記録が残っていた。ハンドルネームは『ミナ・パステル』」
『聞いたか特定班? 『ミナ・パステル』だ。全SNS、動画サイト、掲示板を洗え』
指令からわずか30秒後。
コメント欄が加速した。
『あった。インスタの別垢だ』
『Twitterにもいる。鍵垢だけど』
『TikTokに動画上げてるぞ。最後の投稿は……3日前の17時!』
「早っ!?」
深美が目を丸くする。警察のサイバー犯罪対策課でも、ここまで迅速には動けないだろう。数万人が一斉に検索をかける、人海戦術の暴力だ。
『TikTokの動画を解析する。……これか』
画面に動画が再生される。
加工フィルターがかかった少女が、どこかのカフェらしき場所で自撮りをしている映像だ。背景にはおしゃれなレンガの壁と、観葉植物が見える。
『文章は「彼氏くんと待ち合わせ♡ ドキドキ」……典型的なカモだな』
「場所はどこだ?」
深美が身を乗り出す。
『特定班、背景のレンガの積み方と、映り込んでいるメニューのフォントから店を特定しろ』
『このレンガ、渋谷の「カフェ・ラ・ボエム」じゃない?』
『いや、目地が違う。これは代官山の「IVY PLACE」だ』
『メニューに「季節限定パンケーキ」の文字。これ先週から始まったやつだ』
『確定。代官山だ』
『よし、代官山だ。……原田刑事、ここからが君の出番だ』
私は深美に向かって言った。
『3日前の17時以降、代官山周辺で「Nシステム」に引っかかった車両の中で、過去に不審な動きをしている車はないか?』
「……Nシステムのデータだと? そんな膨大なデータ、絞り込めるわけが……」
『あるだろ。「投資詐欺グループ」のブラックリスト車両が』
深美がハッとした顔をする。
彼女が追っていた医療機器リース詐欺グループ。その残党が、今回の「投資家彼氏」と繋がっている可能性。
「……ちょっと待て。すぐに照会する」
深美はその場で警察専用の端末を操作し始めた。
本来なら令状が必要なレベルの検索だが、彼女は「緊急配備」の権限を拡大解釈してアクセスしているらしい。
「……ヒットした。黒のアルファード。ナンバー品川330……。3日前の17時15分、旧山手通りを走行している」
『その車の所有者は?』
「ペーパーカンパニー名義だ。だが、この会社は以前、未成年者略取の疑いで捜査対象になっていた」
『ビンゴだ。……さて、ここからがハイブリッド捜査の本領発揮だ』
私はニヤリと笑った。
『警察のデータで「怪しい車」は分かった。だが、その車が今どこにいるかは、Nシステムのない路地に入られると追えない。……そこで、特定班だ』
私は画面に、そのアルファードの車種と色、特徴的なステッカーの情報を表示した。
『この車だ。都内全域の「ドライブレコーダー映像」をYouTubeに上げているユーザー、あるいはTwitterに「煽り運転された」などの動画を上げているユーザーの記録を洗え。3日前から今までの間でだ』
これは賭けだ。
だが、今の日本には数百万台の「走る防犯カメラ」がある。
誰かが、どこかで、この車を目撃しているはずだ。
『あった!』
10分後。一人のリスナーがURLを貼った。
『これ、昨日の夜のツイート。「港区の倉庫街でヤカラっぽい車が路駐してて邪魔」って動画。ナンバー一致!』
「場所は!?」
『背景の倉庫の看板……「芝浦ふ頭」の第3倉庫裏だ!』
深美がガタリと椅子を蹴って立ち上がった。
「芝浦……! あそこは再開発で立ち入り禁止区域になっているはずだ。アジトには絶好の場所か!」
『決まりだな。……深美刑事、君はどうする? 令状を請求してから行くか? それとも……』
「愚問だ。現行犯で踏み込む!」
深美はジャケットを羽織り、玄関へと走った。
「月子! お前も来い! 運転手が必要だ!」
「えっ、まだシュークリーム食べてる途中……」
「いいから来い! 私は今日、足がないんだ! タクシーで行くわけにはいかないだろう!」
深美が叫ぶ。非番で来たため、覆面パトカーは署に置いてきたのだ。
「あ、なるほど! じゃあアレ出しますね! 純先輩のロケバス!」
「アレで行くのか……? まあいい、背に腹は代えられん! 晩飯は回らない寿司を奢ってやるから飛ばせ!」
「ラジャッス! お任せください!」
月子が食べかけのシュークリームを口にねじ込み、深美の後を追う。
台風のような二人が去った後、リビングには私と純だけが残された。
「……ねえQちゃん。これ、また私たちは留守番?」
『当たり前だ。現場は危険すぎる。……それに、僕たちの仕事はまだ終わっていない』
「え?」
『深美たちが到着するまでの間、敵の目を欺く必要がある。……特定班、芝浦ふ頭周辺の「ライブカメラ」をハック……いや、閲覧できるサイトを探せ。敵の見張りの位置を深美に伝えるぞ』
それから1時間後。
芝浦の倉庫街で、ちょっとしたアクション映画のような捕り物があったらしい。
深美と月子が突入した時、監禁されていた佐藤ミナミは、男たちに無理やり契約書を書かされそうになっていた。
そこへ、私の指示を受けた月子が、ロケバスに常備されていた非常用の発煙筒を抜き取り、倉庫の明かり取りの窓から投げ込んだ。
真っ赤な煙が充満し、混乱に乗じて深美が制圧したのだ。
男たちは全員逮捕。ミナミは無事保護された。
夜のニュースでは『警視庁のお手柄』として報じられていたが、ネット上では『またQか』『特定班すげえ』と祭になっていた。
午後8時。
疲れ果てた様子の深美と月子が、再び私の部屋に戻ってきた。
手には、約束通り寿司の折詰が握られている。
「……終わったか」
私がワイングラスを傾けると、深美はドカッとソファに座り込んだ。
その顔には、安堵と疲労、そして少しの敗北感が滲んでいた。
「……ああ。ミナミは両親の元へ帰した。男たちは黙秘しているが、証拠は揃っている。起訴は免れないだろう」
「それは重畳。で、約束の寿司は?」
「ここにある。……だが金子、一つ言っておくことがある」
深美は鋭い目で私を睨んだ。
「今日の捜査手法……あれは完全にグレーだ。いや、Nシステムの情報を外部に漏らした時点で、私は懲戒免職モノだ」
「おや、共犯者が何を言う。君が漏らしたんじゃない。僕が『たまたま』君の独り言を聞いて推理しただけだ」
「……屁理屈を。警察のデータベースはフリー素材じゃないんだぞ」
そう言いながらも、彼女の口元は僅かに緩んでいた。
「だが……感謝はしている。正規の手順を踏んでいたら、彼女は今頃、海外の風俗に売り飛ばされていたかもしれない」
「礼には及ばない。僕はただ、パズルを解きたかっただけだ」
その時、横で寿司をバキュームのように吸い込んでいた月子が口を開いた。
「んぐっ……でも店長、今回のMVPは深美さんですよ! あの犯人のナイフを素手で受け止めた時、超カッコよかったです!」
「おい月子、その話はするなと言っただろ」
深美が慌てて止めるが、月子は止まらない。
「私のことを庇ってくれたんですよね? 『一般人に指一本触れさせるか!』って! 惚れちゃいますよ!」
「……うるさい! 寿司を食え!」
深美は顔を赤くして、マグロの赤身を月子の口に押し込んだ。
私はその様子を見ながら、冷めてしまった牛頬肉の赤ワイン煮込みを温め直すために席を立った。
「……やれやれ。警察のデータベースはフリー素材じゃないが、どうやら君自身は、僕たちの『フリー素材』になりつつあるようだな」
「何か言ったか?」
「いや。……ワインのおかわりはどうだ?」
夜景の見えるリビングで、刑事と探偵、そして大食いの助手による奇妙な晩餐会は、夜更けまで続いた。
こうして、警察という強大な権力が、なし崩し的にチームの手札に加わったのだった。




