第4話 隣人はスロバキアの魔女
東京都某所にある、セキュリティ万全の高級マンション『メゾン・ド・ラプラス』の最上階。
その一角にある100平米超えの角部屋が、私――金子徹の城であり、世界の全てだ。
時刻は午前11時。
遮光カーテンの隙間から漏れる微かな陽光の中で、私は神聖な儀式を行っていた。
キッチンのIHコンロの上で、鍋がコトコトと音を立てている。
部屋中に充満するのは、クミン、コリアンダー、カルダモン、そして隠し味のフェネグリークが織りなす、芳醇なスパイスの香りだ。
「……完璧だ」
味見用のスプーンを口に運び、私は独りごちた。
今日のランチは『鴨肉とカシューナッツの極上マサラカレー』。
ネットスーパーで取り寄せた最高級の鴨肉を低温調理で仕上げ、最後にスパイスと合わせる。
引きこもりにとって、食は唯一にして最大の娯楽である。
しかし、その至福の時間を邪魔するノイズが存在した。
ダイニングテーブルの上に置かれたiPadだ。
画面には、昨夜の焼肉屋のレシート画像と、ふざけたメッセージが表示されている。
『店長! 昨日はごちそうさまでした! 上ロース追加分、領収書送っときますね! 合計4万8千円です! by ツッキー』
「……あの女、一人で牛一頭食ったのか?」
私はこめかみを押さえた。
先日雇ったカメラマン、中野月子。
彼女の脚力と撮影技術は確かに一級品だが、その燃費の悪さはランボルギーニ並みだ。
このままでは、私の食費が彼女の胃袋に吸い込まれて消滅してしまう。
「……ハァ。まあいい、今日は誰にも邪魔されず、カレーを愛でよう」
そう決意し、皿にご飯をよそおうとした、その時だった。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!!
インターホンが連打された。
宅配便ではない。彼らはもっと礼儀正しい。
モニターを確認すると、そこには燃えるような赤毛の女性が、鬼気迫る表情でカメラを覗き込んでいた。
「トオル! いるのは分かってるのよ! 開けなさい! 緊急事態よ!」
「……チッ」
私は舌打ちをした。
彼女の名はエレナ・ヴァルゴヴァ。
スロバキア出身のフリーランス翻訳家であり、このフロアの唯一の隣人だ。
知的な美人だが、距離感がバグっている上に、私のことを「スパイスの匂いがする便利屋」か何かだと勘違いしている節がある。
無視を決め込もうとしたが、彼女はカメラに向かって何かを突きつけた。
「これを見なさい! 『マリア』が……マリアが喋ったのよ!」
彼女が手に持っていたのは、古びた日本人形だった。
おかっぱ頭に着物姿。いかにも「いわくつき」な代物だ。
「……面倒くさいことになった」
私はカレーの火を止め、重い足取りで玄関へと向かった。
これが、私の平穏な引きこもり生活が崩壊する、第二の幕開けだった。
「で? なんで私たちまで呼ばれたわけ?」
30分後。
私の部屋のリビングには、招かれざる客たちが集結していた。
不機嫌そうに腕を組む岡本純。
目を輝かせてカレーを大盛りで食べている中野月子。
そして、ソファに鎮座し、日本人形を抱きしめて震えているエレナだ。
「あら、いいじゃない。トオルの手料理、久しぶりに食べたかったし」
エレナは胸元が大きく開いたラフな部屋着姿で、悪びれもせずに言った。
その豊満な肢体に、純が「ケッ、露出狂」と小声で毒づくのが聞こえる。
「事情を説明しろ、エレナ。僕のカレーが冷める前に」
私が促すと、エレナは青い瞳を見開いて語り始めた。
「昨日、骨董市で見つけたのよ、この子。名前は『マリア』ってつけたわ。可愛いでしょ? 明治時代のものらしいの」
「……そのセンスは理解しかねるが」
どう見ても不気味だ。髪は伸びているように見えるし、ガラス玉の目はどこを見ていても目が合うような錯覚を覚える。
「で、昨日の夜よ。ベッドサイドに置いて寝てたら……聞こえたの。『死ね』って」
「「「!?」」」
場の空気が凍った。月子だけが「んぐっ」と喉を詰まらせて水を飲んでいる。
「空耳じゃないの?」と純。
「違うわ! はっきり聞こえたの! しかもスロバキア語で!」
「はあ? スロバキア語?」
私は眉をひそめた。明治時代の日本人形が、なぜ中欧の言語を?
「『Zhebnite』って。私の故郷の方言よ。怖くなってトオルの部屋に逃げてきたの。あんた、こういうの詳しいでしょ?」
「僕は探偵であって、エクソシストじゃない」
しかし、興味深い話ではある。
物理的にあり得ない現象。だが、エレナが嘘をついているようには見えない。彼女はオカルトマニアだが、同時に優秀な翻訳家であり、知性は高い。
「……いいだろう。検証してやる」
私は眼鏡の位置を直し、純と月子に向き直った。
「純、配信の準備だ」
「は? ここで?」
「タイトルは『緊急特番! Qの自宅に呪いの人形が持ち込まれた件』だ。場所が特定されないよう、背景はグリーンバック合成にする。カメラは人形だけを映せ」
「あんたねぇ……自分の家で心霊配信とか正気?」
「家賃の足しにしろ。月子、照明をセットしろ。人形の表情が影で変わるように演出するんだ」
「了解ッス店長! カレーおかわり!」
こうして、私の聖域は、即席の心霊スタジオへと変貌した。
『うわっ、ガチの人形じゃん』
『Qの部屋?』
『特定班待機』
『人形の目が動いた気がする』
配信開始から10分。同接数は早くも1万人を超えていた。
画面には、薄暗い照明の中に浮かび上がる日本人形『マリア』のアップが映し出されている。
私はPCの前でコメント欄を監視し、純はMCとして怯える演技をし、エレナはゲスト席で人形の由来を語っている。
「……でね、この人形の作者は、愛する娘を亡くして、その髪の毛を植え込んだという伝説があるの」
エレナが流暢な日本語で怪談を披露する。
彼女のハスキーで妖艶な声質は、怪談と妙に相性が良かった。
『外人お姉さん誰?』
『美人すぎワロタ』
『胸にしか目がいかない』
『オカルト詳しいな』
コメント欄はエレナの容姿と知識に食いついている。
だが、私の関心はそこではない。
「……特定班、どうだ?」
私はマイクをミュートにして、別回線のDiscordで指示を出した。
画面上には、オーディオスペクトラムを表示させている。
『Qさん、人形周辺で微弱な電波を検知しました。周波数帯は2.4GHz。Wi-FiかBluetoothです』
『人形の右目の虹彩、拡大するとレンズのような反射があります』
『これ、市販の見守りカメラのモジュールじゃないですか?』
優秀なリスナーたちからの報告が次々と上がる。
やはりな。
「……エレナ、ちょっといいか」
私は配信に割り込んだ。
『あ、Qちゃん? 何かわかった?』
「ああ。……今から面白い実験をする。月子、部屋のWi-Fiルーターの電源を切れ」
「え? 配信止まっちゃいますよ?」
「有線LANで繋いでるPC以外はな。いいから切れ」
月子がコンセントを抜く。
その瞬間。
『ザザッ……ピーーッ……』
人形から、不快な電子ノイズが漏れ出した。
そして。
『……おい、聞こえてんのかよ! 応答しろ! チッ、回線切れやがったクソアマが!』
人形の口元あたりから、男の怒鳴り声がはっきりと聞こえた。
スロバキア語ではない。汚い日本語だ。
「キャアアアッ! 喋った!」
純が絶叫し、エレナは目を丸くした。
「日本語……? でも昨日は……」
「種明かしだ」
私はPCのキーボードを叩き、配信画面に解説図を表示させた。
「この人形の眼球には超小型のWi-Fiカメラが、腹部にはスピーカーとマイクが内蔵されている。いわゆる『スマート・ベビーモニター』の改造品だ」
『えっ、盗撮!?』
『ハイテク呪物w』
「昨夜、エレナが聞いたスロバキア語。それは恐らく、犯人が翻訳アプリの音声機能を使って再生したものだろう。『Zhebnite』なんてマイナーな方言、翻訳精度が悪ければノイズ混じりでそう聞こえただけかもしれないし、犯人がわざわざ調べたのかもしれない」
私はエレナを見た。
「エレナ、君はこの人形をどこで買った?」
「骨董市よ。……あ、でも、売ってくれたのは若い男だったわ。『元カノが置いていったものだから処分したい』って」
「……なるほど。その男が犯人か、あるいはその『元カノ』をストーキングするために仕込んだものを、知らずに君に売ったかだ」
その時、人形から再び声がした。
Wi-Fiが切れたため、内蔵のバックアップ機能か、あるいは近距離通信に切り替わったらしい。
『……おい、そこにいるんだろ? 開けろよ。ドアの前にいるんだぞ』
戦慄が走った。
これは録音じゃない。リアルタイムの音声だ。
そして「ドアの前」ということは――。
「トオル……これ、私の部屋の鍵を持ってないと入れないオートロックの内側よね?」
エレナが顔面蒼白になる。
彼女の部屋のスマートロックがハッキングされたか、あるいは物理的に侵入されたか。
いずれにせよ、犯人は今、隣の部屋――つまりこの壁一枚隔てた場所にいる。
「月子!」
私は叫んだ。
「はいっ!」
月子は瞬時に反応した。
食べていたカレーの皿を置き、部屋の隅にあった私の護身用木刀を掴む。
そして、玄関へとダッシュした。
「純、配信はそのまま! 警察に通報しろ! エレナはここから動くな!」
私はモニターを切り替え、玄関前の防犯カメラ映像を映し出した。
そこには、スマホを片手にエレナの部屋のドアノブをガチャガチャと回す、パーカー姿の男が映っていた。
『うわ、ガチ不審者』
『通報した』
『これ今の映像?』
配信画面にもその映像をワイプで流す。
犯人はスマホに向かって何か喋っている。それが人形から聞こえていたのだ。
「……行くぞ」
私は深呼吸をした。
引きこもりの私が、玄関ドアを開ける。それはエベレスト登頂に匹敵する決断だ。
だが、隣人が危険に晒されている。そして何より、私の聖域が汚されようとしている。
ガチャリ。
ドアを開けた瞬間、男と目が合った。
「あ? なんだテメェ」
男がこちらを向いた隙に、月子が飛び出した。
「よくも私のカレーをォォォ!!」
風を切る音。
月子の踏み込みは鋭く、木刀が空気を裂いて男の手首を打ち据えた。
「ぎゃっ!」
スマホを取り落とす男。
月子はそのまま流れるような動作で男の襟首を掴み、柔道の要領でコンクリートの廊下に叩きつけた。
ドゴォッ!!
見事な一本背負い。
男は白目を剥いて伸びてしまった。
「……はい、一丁上がりです」
月子は木刀を肩に担ぎ、ニカっと笑った。
私は……ドアの隙間から顔だけ出して、その光景を見ていた。
一歩も外には出ていない。セーフだ。
数時間後。
犯人は警察に引き渡された。
男はエレナのストーカーではなく、骨董市でエレナを見かけて一目惚れし、細工した人形を売りつけて私生活を覗き見ようとした変質者だった。
スロバキア語の罵倒は、やはり翻訳アプリを使って彼女を怖がらせ、精神的に追い詰めて付け入る隙を作ろうとしたらしい。
騒動が落ち着き、配信も終了した後。
私の部屋には、まだエレナが居座っていた。
「いやー、怖かったわ! トオルが隣にいてくれて本当によかった!」
彼女は私の秘蔵のワインを勝手に開けて飲んでいた。
「……もう解決したんだ。帰ってくれないか?」
「えー? 一人じゃ怖くて眠れないもーん。それに、マリアも供養してあげなきゃいけないし」
彼女は証拠品として警察に押収される前に、人形からカメラモジュールだけを抜き取り、人形自体は手元に残していた。
「中身を抜けばただの工芸品よ」という理屈らしい。
「ねえトオル。私、決めたわ」
エレナはワイングラスを揺らしながら、妖艶な笑みを浮かべた。
「あなたのその『探偵ごっこ』、私も混ぜてよ。日本のオカルトには興味があるし、スロバキアの魔女の知恵、貸してあげるわ」
「……断る。僕の平穏が……」
「あらそう? じゃあ、毎日カレーの匂いが換気扇から漏れてくるって、管理会社にクレーム入れちゃおうかなー?」
「……クッ」
弱みを握られた。
このマンションはペット可だが、スパイス臭には厳しいかもしれない。
「それに、この子の食費、私が少し持ってあげてもいいわよ? 私、翻訳の仕事で結構稼いでるし」
「えっ! 本当ですかエレナさん!?」
月子が即座に反応した。
「本当よ。その代わり、私のボディガードも兼ねてね」
「やります! 一生ついていきます!」
……外堀が埋まった。
こうして、私のチームに新たな、そして最も厄介なメンバーが加わった。
スロバキアの魔女、エレナ。
彼女の持ち込む「オカルト知識」と「トラブル」が、今後の事件をより混沌とさせることになるのだが……それはまた別の話だ。
「とりあえずエレナ、その胸元を閉めろ。目のやり場に困る」
「あら、ウブなのねぇトオルは。……可愛い」
彼女のからかうような視線に、私は溜息をつきながら、冷めたカレーを口に運んだ。
味は最高だが、どこか苦い味がした。




