研究という名の檻
「見せたいものがあるんだけど、今日時間ある?」
朝食の時間に、フィーナが食堂に顔を出した。テイルたちの区画に隣接した共用の食堂で、フィーナも使っているらしい。
「一緒に使うんですか、ここ」
「うん。魔導院の聖女は一人しかいないから、専用の食堂作っても意味ないって。テイルたちが来てから急に賑やかになった」
フィーナはパンを手に取りながら、全員を見渡した。
「みんな仲いいね」
「そうでもないですよ」
テイルが言うと、カグヤが「そうでもないな」と重なった。
エルフィアが「仲良いと思います」と言い、セラが何も言わずにスープを飲んだ。
フィーナが笑う。
「十分仲いいと思う」
「フィーナさんは、いつも一人で食べてるんですか」
「研究員さんたちと食べることもあるけど……なんか、話が合わなくて。スキルの話しか出てこないから」
「スキルの話は好きじゃないんですか」
「好きだよ。でも、スキルの話しかないって、ちょっと違う気がして」
「どう違うんですか」
フィーナは少し考えて、「うまく言えないけど」と言った。
「なんか……私の話じゃなくて、私の力の話、って感じがする」
テイルは、その言葉を黙って聞いた。
食後、フィーナの案内で魔導院の中を歩いた。
「ここが私の部屋。見てく?」
「いいんですか」
「どうぞどうぞ」
フィーナの部屋は、思ったより広かった。
ベッドが一つ、書き物机、本棚が三つ。
窓が大きく、中庭が見える。棚には資料が積まれ、机の上には書きかけのノートが広げてある。
「すごいな。自由じゃないか」
「でしょ! 教会の聖女ってこんな感じじゃないんだよね? 祈りを強制されるとか、行動制限があるとか」
「……聞いたことがあります」
「ここはそういうのない。本は何でも読めるし、研究テーマも自分で提案できるし」
テイルは部屋を見回した。
本棚の背表紙。
魔導理論の専門書、スキル解析の論文集、それから——小説が何冊か、隅に並んでいた。
「小説も読むんですか」
「好きだよ。外の話が読めるから」
「外の話」
「旅の話とか、街の話とか。ここにいると外のことが分からないから、本で読む」
テイルは、その言葉を自然に聞き流しかけて、止まった。
「……外には、出られないんですか」
フィーナは、一拍だけ間を置いた。
「申請すれば出られるよ」
「どのくらいかかりますか」
「……三週間くらい」
テイルは何も言わなかった。
フィーナも、それ以上は言わなかった。
窓から差し込む光の中で、二人とも黙っていた。
「でも」
フィーナが、少し明るい声で言った。
「不自由ってわけじゃないよ。食事もいいし、研究も楽しいし、ゼイン先生は話を聞いてくれるし」
「そうですか」
「うん」
テイルは、窓の外の中庭を見た。
手入れが行き届いた庭。花が咲いている。
そしてその向こうに、高い塀。
「……ここに来たのは、何歳の時でしたか」
「十三歳。聖女スキルが顕現した時に、魔導院から声がかかって」
「来たかったんですか」
フィーナは、少し首を傾げた。
「……よく覚えてない。でも、来てよかったとは思ってる。研究、本当に楽しいから」
「楽しいんですね」
「うん」
テイルは頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
昼過ぎ、測定の説明を受けに行く時間が来た。
フィーナが「また話しかけていい?」と言うので「どうぞ」と答えると、彼女は嬉しそうに手を振って自分の研究室に戻っていった。
ゼインとの打ち合わせが終わり、区画に戻ると、セラが中庭に面した椅子に座っていた。
「フィーナの様子は」
「……元気でした」
「が?」
「外出申請に、三週間かかるそうです」
セラは何も言わなかった。
「あの子は、それを不自由だと思っていない。
少なくとも、口には出さない」
「気づいていないのか」
「気づいているかもしれない。でも、考えないようにしているように見えた」
テイルは椅子を引いて、セラの隣に座った。
「外を望む気持ちを、育てないようにされてきたのかな」
「……そうかもしれない」
「気づいたら、変えられますか」
セラは少し間を置いた。
「それは、あの子が決めることだ」
「うん」
「お前が決めることじゃない」
「分かってます」
「分かっているなら、顔に出すな」
テイルは少し苦笑した。
「出てましたか」
「心配しているのが全部、顔に出ている」
「……そういう顔をしているつもりはないんですが」
「してる」
セラは中庭を見たまま言った。
「ただ」
「うん」
「お前が心配するのは、間違いじゃない」
テイルは、その言葉を黙って受け取った。
夕方になり、リディアが今後の動き方をまとめた資料を持ってきた。
ライアが「飯まだか」と言い、カグヤが「もう少し待て」と言った。
エルフィアが「私、お手伝いしますね」と食堂の方へ向かった。
賑やかな夕暮れだった。
テイルは、その中にいながら、少しだけ遠くを見ていた。
夜、部屋に戻って間もなく。
空気が変わった。
窓際に、気配があった。
「……逃げないのね」
低く、静かな声。
テイルは振り返らずに言った。
「逃げる理由がないので」
「普通は逃げる」
「君が来るのは、分かっていましたから」
窓際に、人影があった。
暗い外套。顔の半分を覆う布。背丈は自分と変わらないくらい。
「……ミレア・シルヴァ」
名前を呼ぶと、人影が一瞬だけ固まった。
「知っていた?」
「セラが、諜報部の追手が来るかもしれないと言っていました。雰囲気で分かりました」
ミレアは、窓枠に腰かけたまま動かなかった。
外套の下に、細い剣が見える。手は、柄にかかっていない。
「なぜ、まだここにいるんですか」
テイルが聞くと、ミレアは少し黙った。
「……命令がある」
「どんな」
「言えない」
「そうですか」
テイルは、ミレアを見た。
顔の半分は布で隠れているが、目だけは見える。暗い色の、静かな目だった。
「ずっと追ってきていたんですか」
「……ああ」
「王国から、帝国まで」
「そうだ」
「それは、大変でしたね」
ミレアが、かすかに眉をひそめた。
「……労わるつもりか」
「そういうわけじゃないですが。遠くまで来たなと思って」
「命令だ」
「命令でも、疲れますよね」
沈黙。
「……変な奴だ」
「よく言われます」
ミレアは、少し間を置いてから言った。
「今夜は、何もしない」
「分かりました」
「次に会う時も、何もしないとは言えない」
「それも分かりました」
「……なぜそんなに落ち着いている」
テイルは少し考えて、答えた。
「君が、今夜ここに来たのは命令じゃないと思うから」
ミレアの目が、かすかに揺れた。
「……そんなことは」
「違いましたか」
沈黙。
答えは、なかった。
ミレアは、音もなく窓から消えた。
残ったのは、夜風と、かすかな気配の余韻だけだった。
テイルは、窓を閉めながら一つだけ思った。
(また来る)
きっと、また来る。
そしてその度に、命令を実行できない理由が一つずつ積み上がっていく。
それが正しいことなのかは分からない。
ただ——今夜ここに来たのは、彼女自身の何かだったはずだ。




