それぞれの選択
教会前広場。
崩れた結界石の向こう、空間が――歪んだ。
まるで夜そのものが、ゆっくりと裂けていくように。
「……来る」
セラが、低く呟く。
次の瞬間、音もなく影が地に落ちた。衝撃はない。だが、空気だけが沈む。呼吸が、重くなる。
「これは……」
エルフィアが、思わず一歩引いた。
敵意は感じない。殺気もない。
それなのに――圧がある。
黒い外套を纏った魔族の男が、石畳の中央に立っていた。背は高く、姿勢は崩れない。鎧は実戦用だが、無駄な装飾はない。
歴戦――それも、指揮官のそれ。
周囲に、次々と魔王軍の兵が姿を現す。だが誰一人、剣を抜かない。整然と、円を描くように配置される。
(……包囲)
(でも――)
(斬る気が、ない)
「王国騎士団の剣姫よ」
男が、初めて口を開いた。低く、よく通る声。
「無用な交戦は望まない。だが、警戒は理解する」
彼は、ゆっくりと両手を外套の外へ出した。武器を持っていないことを、明確に示す動作。
「この場における責任者は?」
セラが、一歩前に出る。
「私だ。王国騎士団第三隊所属、烈剣姫セラ・フォルティス」
男は、短く頷いた。
「礼を言う」
その所作は、あまりにも騎士的だった。一瞬、場の全員が言葉を失う。
「――改めて」
男は、胸に手を当て、はっきりと名乗った。
「我が名はヴァルナ・グラディオス。魔王軍第七軍団将。本日は、侵攻ではない。確認と通達のため、参上した」
その瞬間、周囲の魔王軍兵が、一斉に膝をついた。音が揃う。それだけで、彼がどれほどの地位にあるかが分かる。
「……通達?」
カグヤが、鼻で笑う。
「随分と大仰だね」
ヴァルナは、視線を彼女に向ける。
「紅蓮の剣姫、カグヤ・イグニス。あなたの戦いぶりは、偵察済みだ」
カグヤの眉が、わずかに動く。
「……気に入らない」
「評価ではない」
ヴァルナは、静かに否定する。
「事実だ」
そして――ゆっくりと、視線が動く。
剣姫たちを越えて。一点に、定まる。
「……」
テイルは、はっきりと理解した。
(――ああ)
(この人は、最初から僕を見ていた)
「聖女テイル・カトレア」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥で聖女スキルが反応する。だが、敵意ではない。
「魔王陛下より、言葉を預かっている」
ヴァルナは、はっきりと告げた。
「――あなたは、まだ壊れていない」
教会側が、ざわつく。
「それは、我々にとって重要だ。そして――教会が、あなたを切り捨てたことも。すでに、把握している」
空気が、冷えた。
「よって、通達する」
ヴァルナは、一歩だけ前に出る。セラは動かない。動けない。
「魔王軍は、あなたに保護という選択肢を提示する。拒否も、沈黙も、受け入れる」
「だが――」
その声が、わずかに低くなる。
「あなたの意思を、誰かが踏みにじることは、許さない」
完全な沈黙。
ヴァルナは、最後に一礼した。
「以上だ。我々は、退く」
「次に会う時は――あなたの答えを聞かせてほしい」
影が、再び歪む。
魔王軍は、来た時と同じように、秩序を保ったまま消えた。
残されたのは、教会の白と、王国の剣と、そして――選択を迫られた聖女だけだった。
誰も、何も言わなかった。
エルフィアが、小さく呟く。
「……魔王軍に、ああいう人がいるんですね」
「敵か味方か、まだわからない」
セラが言う。
「でも」
カグヤが、腕を組んだ。
「少なくとも、今夜は斬り合いにならなかった」
「……それで、十分でしょ」
テイルは、ヴァルナが消えた場所を見つめていた。
意思を、踏みにじることは許さない。
その言葉が、胸の奥に残って離れない。
⸻
魔王城・内郭。
灯りは抑えられ、長い回廊には足音だけが響いていた。
「……報告は以上です」
ヴァルナ・グラディオスは、歩みを止める。
「聖女テイルは、まだ決断していない。だが、教会から切られたことは確定だ」
その先に、ひとり立っていた。
銀白の髪。無表情な横顔。背に生えた、黒く薄い魔翼。
「……リュシア」
呼ばれた名に、少女――元聖女は、ゆっくりと振り向いた。
「命令でしょうか」
「いいや」
ヴァルナは、首を横に振る。
「今日は、命令ではない」
沈黙。
「……用件を」
感情の起伏が、一切ない声。
ヴァルナは、彼女の隣に立った。
同じ方向――遠く、人族の国がある方角を見る。
「今日、男の聖女に会った」
リュシアの瞳が、わずかに揺れた。だが、それは一瞬で消える。
「……観測対象」
「そうだ。彼は、感情が強い。祝福は不安定だが――意思がある」
「烈剣姫と、王家血筋の見習いと、共に立っていた」
リュシアは、しばらく黙ってから言った。
「……非効率です。感情は、祝福の阻害要因。仲間への依存は弱点になる」
その言葉は、かつて教会で教え込まれた"正解"だった。
ヴァルナは、静かに問い返す。
「では、聞く」
「お前は、幸福か?」
リュシアは、即答しなかった。少し考え――。
「……判断不能」
「幸福という概念は、感情を前提とする。私は、それを持たない。だから、答えられない」
ヴァルナは、頷いた。
「それが、教会の完成形だ。空で、正確で、壊れない」
「……だが」
彼は、言葉を切る。
「世界は、それを"聖女"とは呼ばなかった」
リュシアの指が、わずかに動いた。
「……私は、失敗作ですか」
「いいや」
ヴァルナは、はっきり否定した。
「お前は、被害者だ」
その言葉に、リュシアの胸の奥で、微細なノイズが走る。
「……理解、不能」
「理解しなくていい。だが、覚えておけ」
ヴァルナは、遠くを見る。
「彼は、お前とは逆だ。感情を捨てろと言われ、それを拒んだ。剣姫たちと、笑っている」
「……笑う」
リュシアは、その言葉を繰り返した。
意味は分かる。理解できる。
なのに、何かが上手く処理されない。
「……彼は、壊れるでしょうか」
声が、ほんのわずかに低かった。
「放っておけば、な」
「だから――」
ヴァルナは、彼女を見る。
「次は、命令だ。彼が、こちらに来た時。お前は――"完成形"として、彼の前に立て。そして、見せてやれ。教会が行き着いた先を」
リュシアは、ゆっくりと頷いた。
「……了解」
だが。
その背中を見送りながら、ヴァルナは確信していた。
(彼女は、もう少しで――"思い出してしまう")
⸻
その頃。聖都・教会地下。
禁書庫の奥。
リディアは、一冊の文書を胸に抱えていた。
《聖女は、神の器にあらず》
《意思なき祝福は、ただの現象である》
「……やはり」
教会は、知っていた。最初から。
それでも、都合の悪い真実を、封じてきた。
「聖律官リディア」
背後から、声。
「それ以上、深入りするな」
振り向く。そこには、教会の上級司祭が立っていた。
「君は、聡明だ。だから分かるだろう。秩序には、犠牲が必要だ」
「……誰の?」
リディアは、静かに問う。
「聖女だ」
司祭は、即答した。
「個を持つ存在は、危険だ。管理できない力は、災厄になる」
「……それが」
リディアは、文書を閉じる。
「あなた方の、信仰ですか」
「信仰とは、選別だ。正しさを残し、不要なものを切る」
その瞬間。
リディアは、胸元の聖紋に手をかけた。
「……私は」
「"不要なもの"側に立ちます」
「なにを――」
聖紋が、床に落ちる。
乾いた音だった。
「私は、教会を離れる。聖女を道具として扱う組織には、もう従えません」
司祭の顔が、歪む。
「裏切るのか」
「いいえ」
リディアは、はっきり言った。
「私は――ようやく、人を選んだだけです」
彼女は、踵を返す。
扉の向こうには、夜の空と、世界が広がっている。
テイルが待っている。剣姫たちが待っている。
問いかけてくれた少年の声が、頭の中で繰り返される。
――"聖女"を、人として見ていない言い方だ。
「そうです」
リディアは、小さく、しかし確かに呟いた。
「聖女は、人です」
「それを証明するために、行きます」
彼女は、迷わず歩き出した。




