幕間第2話:翻訳できない想いと、脳波スキャン
リュナが顧問に就任してから、数週間が過ぎた。
実験室での実験は日々その精度を増していたが、俺たちの前には、依然として分厚い壁が立ちはだかっていた。
「―――ですから、『精霊』というのは、幽霊とか、そういうものではなくて……」
実験の合間、リュナはホワイトボードに拙い絵を描きながら、必死に説明を試みていた。
彼女が描いたのは、炎や水滴に、可愛らしい顔と手足をつけたキャラクターのようなものだった。
「この世界に満ちているマナが、意思を持った存在……とでも言いますか。私たち魔法使いは、彼らに呼びかけ、力を借りることで魔法を使うんです」
『翻訳結果:大気中に遍在する未確認知的生命体に対し、音声信号によるコミュニケーションを行い、エネルギー借用を要請する……』
スピーカーから流れる無機質なフローラのAI翻訳を聞いて、如月博士が頭を抱えた。
「うーん、概念が、あまりにも違いすぎる……! 我々の物理学の常識では、『エネルギーが意思を持つ』という時点で、もう……」
これが、我々が直面している「言語の壁」の正体だった。
日常会話レベルであれば、フローラを経由したAIはそれなりに機能する。
だが、魔法の根幹に関わるような抽象的な概念や、文化的な背景に根差した言葉は、正確に翻訳することができないのだ。
……まあ言わんとすることは、ファンタジー小説やアニメの先人たちの空想の結果として分かるが、実際の現象としてだと、さすがにそれじゃ説明できない。
その日の夕方、俺は牧原先輩に呼び出され、ブリーフィングルームの硬い椅子に座っていた。
向かいには先輩と、まだ頭を抱えている如月博士の姿がある。
「愁也、今日の報告は聞いている。AI翻訳の限界が、思ったより早く見えてきたな……。別言語の学習がこれほどとは少々想定外だったが……。」
先輩の言葉に、俺は頷いた。
「はい。特に『精霊』のような、我々の世界に厳密に対応する概念がない言葉は、ただのノイズとして処理されてしまうようです」
「その通り!」と博士が身を乗り出す。
「翻訳AIの精度を上げるには、より質の高い教師データが必要不可欠なのです! 彼女の言語の文法構造、音韻体系、そして何より、言葉と紐づく文化的概念そのものを、我々が理解し、フローラのAI機能にに教え込まなければ!」
興奮する博士を尻目に、先輩は冷静に続けた。
「そこでだ、愁也。君にリエゾンとして、この任に当たってもらいたい」
「俺、ですか?」
「ああ。君がリュナ君に日本語を教え、同時に、君が彼女の言語を学ぶんだ。その過程をすべて記録し、フローラの学習データとする」
「ですが、俺は言語学の専門家では……」
戸惑う俺に、先輩はにやりと笑った。
「専門家ではないからいい。君は、彼女に最も近い『一般人』だ。君が学び、躓き、理解していく過程そのものが、AIにとっては最も価値のある生きたデータになる。それに、この任務には、君とリュナ君との信頼関係が不可欠だ。これは君にしかできない仕事だよ」
ブリーフィングルームから戻った俺は、改めてリュナと向かい合った。牧原先輩からの特命。正直、プレッシャーは大きい。だが、SE時代に培ったプロジェクト遂行能力が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
(よし、やってやるか!)
俺は心の中で拳を握った。
まず、概要検討……ゴールの設定だ。
ゴールは『リュナさんが日本語の構造を理解し、同時に俺が彼女の言語体系を把握すること』。
そのための最適なソリューションは何か。
(行き当たりばったりで単語を教えあっても非効率だ。まずは全体像を把握してもらうのが一番早い。そうだ、研修用の教材をまとめて、作ればいいんだ!)
思考がまとまるや否や、俺は自室から持ち出したノートPCを開き、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
新人研修の資料作りで鳴らした、俺の資料作成能力が火を噴く。
語学研修を趣味としている人のサイトからどうやって異文化圏の言葉を学ぶのかというところから逆算していって……。
一方、そんな俺の鬼気迫る様子を、リュナは少し戸惑いながら見ていた。
(愁也さん、すごい集中力……。私も、愁也さんに言葉を教えなきゃ)
彼女もまた、真剣な顔で考え込む。
どうすれば、自分の世界の言葉が持つ本当の『意味』が伝わるだろうか。
彼女の世界での学びとは、師の言葉を繰り返し唱え、実践の中でその感覚を身体に刻み込む、というものだった。
(理屈じゃない。まずは、私たちの世界で一番大切な祈りの言葉から……。この言葉が持つ、温かくてキラキラした感じが伝われば、きっと……)
リュナは、テーブルに置かれていた紙とペンを手に取ると、お手本を見せるように、一つ一つの文字を丁寧に、そしてどこか感情を込めるように書き始めた。
こうして、論理と体系で言語を構築しようとする俺と、心と感覚で言葉を伝えようとするリュナの、それぞれの思惑が交錯する奇妙な「放課後」が始まった。
リュナが日本語を効率的に学べるよう、持てる技術のすべてを注ぎ込んで、一冊の「日本語理解マニュアル」を制作した。
文字の書き方、助詞の使い分け、動詞の活用、尊敬語と謙譲語の差異。
会社の新人研修で使えば「分かりやすい!」と絶賛されること間違いなしの、ロジカルで美しいチャート図。
俺としては、これ以上ないくらい親切で分かりやすい教材を作ったつもりだった。
だが、それはあくまで「論理的な思考」に慣れた相手を想定したもの。
魔法を感性で扱う彼女にとって、分厚いファイルのそれは、ただただ苦痛なだけだった。
案の定、リュナはマニュアルを数ページめくっただけで、完全に思考を停止させてしまった。
「愁也さんの資料は、文字が小さくて、なんだかチカチカします……。それに、どうして、こんなにたくさんの決まりがあるんですか? もっとこう、気持ちで……」
「気持ち!?」
逆に、リュナの教え方は、あまりにも感覚的すぎた。
「この言葉は、もっとキラキラした感じで発音します!」
(キラキラした感じ……分かるわけないだろ……!) 俺は頭を抱えた。
リュナが書く文字も、一貫しているようでいて、その時々の感情で微妙に形が変わっているように見える。
これはもう、俺の手に負える問題じゃない。
こんなところで素人が足踏みしている場合じゃない。
あとで牧原先輩に、言語学の専門家をチームに加えるよう、正式に要請しよう。
これでは、いつまで経っても埒が明かない。
お互いに専門外の言語学習が行き詰まり、重い空気が流れていたある日のことだった。
「―――お二人とも、素晴らしい探求心です! ですが、そのアプローチは、あまりにも非効率的だ!」
いつも通り、ホワイトボードに文字を書いてリュナと講義をしていると、ラウンジのドアが勢いよく開く。
如月博士が、怪しげな光を放つヘッドギアのような機械を二つ、得意げに掲げて立っていた。
「言葉というフィルターを通すから、齟齬が生まれる! ならば、思考そのものではなく感情や原体験を直接リンクさせればいい! これは被験者同士の脳波を同期させ、思考パターン、すなわち『感情』と『原体験』を共有するための、画期的な発明なのです!」
「いや、博士、それはどう見ても……」
「怪しいです……」
俺とリュナの声が、綺麗にハモった。
だが、科学の暴走機関車は、もう誰にも止められない。
半ば強引にヘッドギアを装着させられ、俺とリュナは向かい合って椅子に座らされた。
「では、思考リンク、開始します!」
博士がスイッチを入れた瞬間、俺の意識は、経験したことのない情報の奔流に飲み込まれた。
(うわっ……なんだこれ……!?)
それは、綺麗な映像や整理された言葉ではなかった。
湿った土の匂い、胸を締め付ける後悔、温かい手の感触、背中を叩かれる痛み、金色の髪の眩しさ、焦げ付くような罪悪感―――リュナの過去と現在が、感情の嵐となって俺の中に流れ込んでくる。
湿った土と若草の匂いが、脳を直接殴りつけた。リュナの故郷の森だ。
自分よりずっと小さな、ヴィオラという妹の手を握る、温かい感触。
それが一転し、仲間を救えなかった後悔が、氷の刃となって胸に突き刺さる。
寒い、痛い、ごめんなさい―――声にならない叫びが、俺の意識を凍らせた。
学院の訓練場。「まだ甘いわ、リュナ!」そう言いながらも口元が笑っている金髪縦ロールのエリー。
「あんたの実力はそんなもんじゃないでしょ!」と背中を叩くアンナの、少し乱暴で、でも温かい手のひら。
「大丈夫。あなたならできます」と、セレスがそっと差し出してくれた、栞の挟まれた魔導書。
身分も何も関係なく、ただ笑い合えた、かけがえのない時間。
その温かい記憶と、彼女たちに会いたいと叫ぶ、胸が張り裂けそうなほどの強い想い。
言葉にできなかった彼女の全ての想いが、濁流のように俺の心を揺さぶる。
(そうか……君は、ずっとこんな想いを……)
そして、俺は見てしまった。
彼女の視点から見た、俺が作ったあの「マニュアル」を。
それは、俺が意図したような、分かりやすく整理された情報ではなかった。
ただ、無意味にチカチカと光る、膨大な文字の羅列。
それを前にした時の、彼女の純粋な「分からない、どうしよう」という、途方に暮れた感情。
会社では、分かりやすい資料作りで評価されてきた。その自負が、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。
(俺のマニュアル……そんな風に見えてたのか……)
その瞬間、リュナの思考にも変化が起きた。
俺の、プロとしてのプライドが砕け散る、あまりにも人間臭い落胆が、彼女に伝わったのだ。
そして、彼女は初めて、俺の本当の気持ちを理解した。
俺が、彼女を助けたい一心で、必死に言葉を尽くそうとしていたこと。
俺の焦りが、彼女を傷つけるためではなく、ただ、分かり合えないもどかしさから来ていたこと。
(愁也さん……そうだったんですね……)
言葉にならない互いの「気遣い」と「申し訳なさ」の感情が、互いの内側で飽和状態になった、その瞬間。
機械からパチパチと火花が散り始めた。
「おわっ!? オーバーヒートです!」
博士が慌てて電源を落とし、俺たちの思考リンクは唐突に断ち切られた。
後に残されたのは、電子部品の焦げる匂いと、気まずい沈黙。
そして、プロとして深く傷つき、本気で凹んでいる俺の姿だった。
「……明日、本屋で『優しい資料の作り方』でも買ってこよう……」
俺がぼそりと呟くと、目の前に座っていたリュナが、くすりと小さく笑った。
それは、この施設に来てから、彼女が初めて見せた、心からの笑顔だった。
俺たちの間に横たわる、言語と文化の壁は、まだ途方もなく高い。
だが、その壁の向こう側にある、互いの不器用な想いに、俺たちは確かに触れることができた。
それは、何百の単語を覚えるよりも、ずっと確かなコミュニケーションだった。
俺たちがそんな奇妙な一体感と気まずさに包まれていると、ラウンジのドアが再び開いた。
「どうやら、随分と有意義な『コミュニケーション』が取れたようだな」
現れたのは、面白そうに口の端を上げた牧原先輩だった。
博士から実験の顛末を聞いていたらしい。
「せ、先輩……」
俺が凹んだ心のまま何か言おうとする前に、先輩はそれを手で制した。
「分かってる。お前たちのその奮闘ぶりと、博士の暴走ぶりを見ていれば、次に何が必要かなんて考えるまでもない」
先輩は、一枚の経歴書らしきデータファイルをテーブルの上に置いた。
「上にかけあって、特別予算を確保した。近いうちに、この分野の専門家がここへ来ることになる。―――優秀な、言語学者がな」
俺とリュナは、思わず顔を見合わせた。
新たな仲間が加わることで、この分厚い壁に、今度こそ風穴を開けることができるのだろうか。




