第2話:二つの脅威
光が収まった後、評価室を満たしたのは、鼓膜の奥で反響し続けるような鋭い耳鳴りと、オゾンと焦げ付いた電子部品の混じった鼻を突く匂いだった。
スプリンクラーから降り注ぐ水が、天井から火花を散らすケーブルに当たって、ジュッ、と嫌な音を立てている。
俺たち三人は、誰一人として動けずにいた。赤い非常灯の明滅が、床に散らばったガラス片に反射して、悪夢のようにきらめいている。
目の前の光景が、脳の理解を完全に拒絶していたからだ。
「……リーダー……あれ……。」
田中君が、か細い声で俺の袖を引く。
鈴木さんは声も出せず、口元を両手で覆って小さく震えている。
(なんだこれ……なんだよこれ……!? 夢か? いや、違う、焦げた匂いも、耳鳴りも、頬を濡らす水の冷たさも、全部本物だ……)
俺は乾いた喉をごくりと鳴らす。新米とはいえ、チームリーダーだ。俺がしっかりしなければ。
(しっかりしろ、俺……! 田中君も鈴木さんも、俺を見ている……! 俺が、リーダーなんだ……!)
(どうすればいい? 何をすればいいんだ!? マニュアル? 報告? そんなレベルの話じゃない! でも、何か……何かしないと……!)
恐怖で叫び出しそうな自分を、必死で押さえつける。
リーダーとしての、なけなしの責任感が、金縛りにあったような身体を無理やり動かした。声が、震えないように、奥歯を噛む。
「田中君、内線の緊急ボタン! とにかく、外に知らせるんだ! 鈴木さん、メインコンソールのログを保全してくれ! 何が起きたか、とにかく記録を残さないと!」
「リーダー! そんなことより、この子を!」
鈴木さんは、俺の指示を半ば無視する形で叫ぶと、震える足で少女の元へと駆け寄った。
(くそっ……! そうだ、俺は何を言ってるんだ……! ログより、人命が最優先だろ……!)
俺も、慌てて彼女のそばに膝をついた。
「ひどい……出血が……」
鈴木さんが、少女の脇腹にそっと手を当てる。そこだけ、制服の青い生地が、どす黒く変色していた。
その様子を横目に見ながら、俺は改めて少女の姿を観察した。
金色の髪は、俺たちが知るどんな色とも違う、まるで光そのものを編み込んだような鮮やかさだった。床の冷却液に濡れて、きらきらと輝いている。
着ているのは、青と白を基調とした制服のような服。だが、その生地はシルクのようでもあり、わずかに金属光沢を帯びた未知の繊維のようでもあった。
胸には、剣と翼を組み合わせたような、見慣れない紋章が銀糸で刺繍されている。
ファンタジー映画の衣装、と片付けるには、あまりに精巧で、現実感がありすぎた。
「リーダー、呼吸は……あります。でも、すごく浅い……!」
鈴木さんの悲鳴のような声に、俺は我に返った。
その時だった。少女の瞼がかすかに震え、薄く目を開けた碧眼が、俺たちの姿を捉えた。彼女は、最後の力を振り絞るように、血に濡れた手をゆっくりとこちらに伸ばす。助けを求めるように、すがるように。
そして、乾いた唇から、か細い声が洩れた。
「……gfdr……rt…rtd……?」
それは、日本語のどの音とも違う、未知の響きを持つ言葉だった。だが、その響きには、確かに「助けて」という悲痛な祈りが込められているように、俺には聞こえた。
少女の手が、力なく床に落ちる。
「……ああ、大丈夫だ。大丈夫だから」
俺は、ほとんど無意識に、彼女に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で、そう語りかけていた。
「絶対に、助けるから」
俺は顔を上げ、決意を込めて叫んだ。
「フローラ、スキャン開始! 対象のバイタルと、今の音声もだ! 急いで解析を!」
『了解。対象のバイタルデータをスキャンします。音声データを言語データベースと照合……』
俺の網膜にだけ、ARでスキャン結果が表示される。
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【対象:名称不明】
状態: 複数箇所の裂傷による出血、生命維持に必要なエネルギーの急激な低下。
警告: 対象は未知の素粒子(コードネーム:"Magic")を放出しています。物理的接触は推奨しません。
言語: データベースに合致せず。翻訳不能。
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(未知の素粒子? 翻訳不能? なんだこのデータは……! これじゃ報告書どころか、何が起きてるのか、説明すらできないじゃないか……!)
俺が混乱していると、少女が現れた空間が、再び陽炎のように揺らめき始めた。さっき見た、あの美しいコードが空間に実体化していくような、不気味な光景だった。
空間の歪みの中心から、低い唸り声が聞こえる。そして、黒い影が、まるで滲み出すようにして形を取り始めた。
「おいおい、嘘だろ……」
田中君が、顔を引きつらせながら呟く。
「まだ何か出てくるのかよ……!」
「黙ってろ!」
軽口を叩く余裕は、次の瞬間には吹き飛んでいた。
影が完全に実体化する。
それは、どんな動物とも似ていない、複数の獣を無理やりつなぎ合わせたような、冒涜的な姿をしていた。
関節がありえない方向に曲がり、体表はまるでデータノイズが固まったかのように不気味に揺らいで見える。
生物というより、システムが生み出したバグそのものだ。
(なんだよ、あれ……! さっきの少女と同じ場所から……まさか、彼女を追って……?)
俺の思考がそこに行き着いたのと、倒れていた少女がその獣を見て「ひっ……」と息を呑んだのは、ほぼ同時だった。
間違いない。彼女は、これに追われていたのだ。
獣が、ぎろりと赤い目で俺たちを捉え、甲高い咆哮を上げた。
―――グギャアアアアアアアッ!
衝撃波が評価室を襲う。メインコンソールが火花を散らし、天井の照明が砕け散った。
「うわっ!」
俺たちは咄嗟に床に伏せる。
怪物が、その鋭い爪を振り上げ、俺たちのすぐ横にあったサーバーラックに叩きつけた。分厚い金属の塊が、まるで豆腐のようにたやすく引き裂かれる。
甲高い金属音と共に、火花と破片が俺たちのすぐそばに降り注いだ。
(やばい……!)
フィクションじゃない。これは、現実の暴力だ。
俺たちの常識も、会社のセキュリティも、何もかもが通用しない、圧倒的な「死」の気配。
(ここにいたら、殺される!)
本能的な恐怖が、俺の思考を支配した。
報告? マニュアル? そんなものは、この暴力的な現実の前では何の意味もなさない。
「逃げるぞ!」
俺は叫びながら、気を失いかけている少女を腕に抱きかえ、立ち上がった。
思ったよりもずっと軽い。
(ダメだ、このままじゃ……! この子を見殺しになんて、できるか……!)
理屈じゃなかった。ただ、目の前で血を流している人間を、あの化け物の前に置き去りにすることだけは、絶対にしてはいけないと、魂が叫んでいた。
「リーダー!?」
「いいから来い! ここにいたら死ぬぞ!」
俺は田中君と鈴木さんの背中を押し、評価室の扉へと向かって走り出した。
背後で、怪物の破壊音が響く。
そして前方からは、重装備の部隊がこちらへ向かってくる足音が、床を震わせていた。
最悪だ。
前門の虎、後門の狼。
俺は、新米システムエンジニアとして迎えた最悪の月曜日に、ただ生き延びるため、無我夢中で走り出すことしかできなかった。