第10話:希望と絶望のロジック
司令室の空気が、まるで凍りついたかのように張り詰めていた。全員の視線が、ただ一人、異世界の少女であるリュナに突き刺さる。
牧原先輩が投げかけた問い――あの巨大な魔獣を倒すために必要な威力はどれほどか――その答えを、誰もが固唾をのんで待っていた。
リュナは、スクリーンに映る巨大な魔獣を睨みつけながら、震える声で、しかしはっきりと答えた。
「私が知る限り、最も有効なのは上級攻撃魔法……『インフェルノ・バースト』です。あの魔獣の外殻を融解させ、内部から破壊するほどの熱量を生み出します」
「インフェルノ・バースト!」
若い研究員の一人が、興奮したように身を乗り出した。
その目は、未知の現象を前にした探求者の輝きに満ちている。
「その理論構成を! 可能なら、その魔法の実演を!」
その熱狂に、リュナは冷や水を浴びせた。彼女の顔が、絶望に陰る。
「……ですが、その魔法を発動するには、私の全魔力を注ぎ込んでも、おそらく……100分の1にも満たないでしょう。今の私では、発動すらできません」
「……ひゃくぶんの、いち……?」
司令室の空気が、急速に冷えていく。
先ほどまで部屋を満たしていた希望の灯火が、まるで真空に放り出されたように、一瞬でかき消えた。
「待ってください!」
別の研究員が、すがるように声を上げた。
「上級魔法が使えないのなら、他の方法は!? 例えば、先ほどの初級魔法を、100人で同時に撃ち込むようなことはできないのかね!?」
その問いに、リュナは不思議そうな顔で、わずかに首を傾げた。
「……もし、皆さんが魔法を使えるのでしたら、それも有効かもしれません。ですが……」
彼女の言葉は、悪意のない、純粋な疑問だった。
だが、その「常識」の違いは、この場にいる科学者たちにとって、越えがたい壁の存在を改めて突きつける、無慈悲な宣告に他ならなかった。
質問した研究員は、バツが悪そうに視線を逸らした。
彼の思考は、あまりにも単純な科学的発想だったのだ。
「100分の1の力なら、100倍にすればいい」。その計算式の裏には、目の前の少女を、魔力を生み出すだけの「装置」として、あるいは「使い潰しても構わないリソース」として見ていた、非人道的な魂胆が透けて見えていた。
リュナの純粋な問いは、図らずもその醜い本質を暴き出してしまったのだ。
メインスクリーンでは、防衛ラインの再構築を試みる装甲車が、また一体、巨大な鎌によって無残に破壊されていた。万策尽きた。
その沈黙を破ったのは、防衛部隊の司令官だった。
その声には、全ての感情を押し殺したかのような、冷徹な響きだけがあった。
「……ならば、やはり選択肢はない。オペレーター、上層部へ回線を繋げ。プランB……焦土作戦に移行する」
プランB――それは、第7ブロック一帯を、新型のプラズマ焼夷弾で焼き払うことを意味していた。
「なっ……!?」
俺は思わず叫ぶ。
「そんなことをしたら、ブロック全体が……! まだ避難できていない市民だっているかもしれないんですよ!」
「やむを得ん!」
司令官は、俺の方を見向きもせずに言い放った。
「被害を最小限に食い止めるには、それしかあるまい!」
議論が、最悪の結論へと収束していく。
その時、俺は恐る恐る、しかし、ここで言わなければ後悔すると、手を挙げた。
「……待ってください」
司令官や研究員たちの、いぶかしむような視線が突き刺さる。
まるで部外者は黙ってろというような目線だ。
そうだ。俺はただの部外者。だからこそ……。
「……今の皆さんの議論は、まるで『何かが足りない』としか分からない状況で、対策を立てようとしているように聞こえます。皆さんがそれぞれ、別の方向を向いてしまっている」
俺はまず、懐疑的な研究員たちに向き直った。
「皆さんがおっしゃる通り、『魔法』という言葉の定義が曖昧なままでは、科学的な議論はできません。それは、分かります」
次に、俯いているリュナに、できるだけ優しい声で語りかけた。
「そして、リュナさんが、自分の世界の常識が通じなくて、うまく説明できないことも、分かります」
俺は、一度、息を吸った。
「だから、一つだけ、教えてください。リュナさん。そのすごい魔法を使うのに、もしかしたら必要なものはたくさんあるのかもしれません。ですが、もし、たった一つだけ、”これがなければ絶対に始まらない”という、根本的な原因があるとしたら、それは何ですか?」
俺の問いに、リュナは、驚いたように顔を上げた。
そして、俺の真剣な目を見て、一瞬ためらった後、はっきりと答えた。
「―――魔力、です。魔法を起動させるための力が、絶対的に足りないんです」
その瞬間、司令室の空気が凍りついた。
「魔力……」
初老の研究員が、腕を組んで深くため息をついた。
その目には侮蔑ではなく、解決不能な問題に直面したかのような、深い疲労と苛立ちが浮かんでいる。
「その『魔力』という言葉が、我々の議論を袋小路に追い込んでいる。君が言う『力』の正体は何だ? 我々の計測器は、君の身体から、あの現象を説明できるほどのエネルギー放出を観測していない。定義も、発生源も、伝達媒体も不明だ。それは粒子かね? 波動かね? それとも、精神的なエネルギーかね?」
その問いに、リュナは言葉に詰まる。
「そ、それは……分かりません。ただ、魔法を使うために必要な『力』で……私たちはそれを感じて、形にする方法を学ぶだけで……」
学生らしい、あまりにも正直な答え。
だが、その彼女の肩を、牧原先輩の大きな手が、そっと抱いた。
「―――いい大人が、寄ってたかって学生一人を問い詰めるな。みっともない」
静かだが、怒気をはらんだ声だった。
牧原は、懐疑的な研究員たちを一人一人睨みつけるように見回した。
「彼女は専門家じゃない。我々が頼るべき、唯一の情報提供者だ。その彼女が『分からない』と言っているんだ。ならば、どうする?」
彼は手元のコンソールを叩き、メインスクリーンに先ほどの魔法実演で記録されたデータを呼び出した。
スクリーンに、急激なピークを描くエネルギー放出グラフが映し出される。
「これを見ろ!」
牧原は、そのグラフを強く指さした。
「君たちが定義を求める『魔力』の出力結果が、これだ! この説明不能なエネルギーの奔流を! 我々の物理学の常識を覆す、この未知の素粒子パターンを! これを観測しておきながら、なお『分からない』の一言で思考を停止するのかね?」
彼の声が、熱を帯びていく。
「分からないのなら、分かるまで研究するのが我々科学者の仕事だろうが! 目の前の観測事実から目を背け、オカルトと切り捨てるのは、ただの怠慢だ! それは、科学への冒涜だ!」
その言葉は、魔法だった。
研究員たちの目に、再び光が宿る。恐怖と懐疑に曇っていた顔が、未知の現象を解き明かそうとする、探求者の顔へと変わっていく。
問題は「魔法というオカルト」から、「魔力という未知のエネルギーを、どうやって科学的に供給するか」という、彼らの土俵の上の課題へと姿を変えたのだ。
俺は、呆然とするリュナの隣で、固唾を飲んでその光景を見守っていた。
まだ何も解決していない。だが、確かに見えた。
絶望の壁にこじ開けられた、小さな、しかし確かな突破口が。